12月20日(木) - 12 days to the last day-

楠社員の営業

 放課後。


 僕はホームルームが終わるとすぐさま教室を出て、廊下でざわつく生徒の間を器用にすり抜け、下駄箱を乱暴に開き、よろけそうになりながら革靴に履き替え、誰よりも早く校門をくぐり、『クロワッサン』に向けて脇目も振らずひたすら走っていた。


 昨日から続く快晴により、あれだけ降った雪はすっかり溶けきっていて、乾いたアスファルトがカツリと靴底を跳ね返す。


 昨夜と違って左手に握る鞄も軽く、夕焼けと街灯のステージ上で影が軽やかに踊っている。


 これから楓に会える。


 そう想っただけで、心は『クロワッサン』へ瞬間移動し体はそれを追いかける自動人形となってしまった。


 完成原稿が揃ったことで、部長からは「明日は休部とする。各自、楠先生の総評に備えて英気を養うように」とのお達しがあった。僕は部活に出ない負い目を感じることなく、部長のお達し通りに英気を養いに向かっているだけだ。マスターとの交渉者としていくばくかの不安は残っているものの、反面、大手を振って『クロワッサン』へおもむく口実が出来て喜ばしいとも言える。


 冷静になって考えてみると、部長の発案はいきなりで驚きはしたものの、非常に都合が良いということに思い当たった。それはまさに天啓てんけいだった。


 クリスマスを好きな女の子と過ごすというのは、思春期真っ盛りの高校生男子にとって垂涎すいぜんものな一大イベントだ。『クロワッサン』を貸し切りにしてパーティーを開くということは、当然、楓も貸切るということ。となれば、必然的に楓もパーティーの参加者だ。あくまでも店のスタッフではあるが、そこは一先ず置いておく。


 他人の機微きびさとい部長は、僕の淡い感情にすぐさま反応しても、その場では僕を立ててくれるはずという打算もあった。たとえ、蜂蜜のようにねっとりとした揶揄からかいが対価だとしても、圧倒的に利のある話だった。


 それに、マスターを承諾させる交渉カードも揃っている。


 昨夜、どうやってマスターを説得するか意見を出し合っていたところ、千見寺が天才的なアイディアをひらめいたのだ。うんうん唸っているところに、千見寺が「妙案みょうあんがあるのだが――」と芝居がかった口調で語り始めた。


「クリスマスは店にとって掻き入れ時だ。そんな時に貸切ろうって言うんだから、相応のメリットが無いと承諾してもらえない。しかし、我が部にそんな予算は無いと聞く。自分たちで稼ぐしかない。どこで稼ぐかって? ふふん、それは勿論『クロワッサン』でだよ。ん? どういうことだと? まあまあ、遥、慌てなさんな。クリスマス前には当然、イヴがある。そして、イヴは平日である本番と違って、祝日だ。店にとって商機がどちらにあるかは明白だろ? 喫茶店なら、イヴの方がカップルで賑わうだろうしな。それと稼ぐのがどう関係があるんだって? ほほう、今日の光葉はいまいちえないと見える。――ああっ、分かりましたよ部長! 勿体もったいぶらないで言いますってば! ――ごほん。つまりですね、イヴに呼び込みやらホールやらで手伝いをして、クリスマス商戦を戦い抜く提案をするというのはイカガデショウカ。――モチロン、『サンタコス』デ」


 遥は冷ややかな目を向けていたが、部長は意外にも興味深そうな顔をしていた。千見寺の茶番はどうでも良いが、提案についてはイケると思った。昨年のクリスマスに「一人じゃさばききれんからな」と言って、無念そうに店を閉めたマスターを見ていたからだ。人手がいれば、マスターは調理に専念が出来て、様々なメニューを振る舞えるはずだ。現に楓がバイトを始めてからというもの、ぽつぽつとメニュー表に並ぶ文字が増えている。マスターは洋菓子店で働いていた経験もあるというから、腕を振るう場所を求めているに違いない。僕らは、イヴの日にその場を用意すれば良いのだ。


 しかも、だ。文芸部の女子部員は、校内でも話題になるほどの粒ぞろいときている。クールビューティーな部長、はつらつとしていて健康的な美を体現する遥、小さくて妹みたいな天川、この三人が、加えてサンタのコスプレをするというのだ。集客力抜群だ。


 僕がそこまで言って千見寺の後ろ盾になると、部長は楽しそうに提案を受け入れ、遥は顔を赤らめながらしぶしぶ同意し、天川は部長が発信したメッセージに「もちろんオッケーです! 楽しそうですね♪」と返した。


 僕と千見寺は二人から見えない位置で親指を立て合い、男の友情を確かめ合った。


 そんな落とし所を持った上での交渉なので、十分勝ち目はあると踏んでいた。頭の中でどうやって切り出そうかと手持ちのカードを反芻はんすうしていると、いつの間にか『クロワッサン』に着いていた。まあいいか、出たとこ勝負だ。


 走りきって乱れた呼吸を落ち着けてから、かしの木の扉を思い切り押し開く。


 冬の夕暮れの『クロワッサン』には、上品なおばあさんと会社帰りのサラリーマンが、テーブル席で静かに珈琲をすすっていた。妙なことに、マスターと楓の姿が無い。


「あれ? 二人ともいないな」


 コートを掛けてから、とりあえずカウンター席に座ることにする。楓の仕事姿を間近で見ていられるくらいには、自分に余裕があると信じたい。


 鞄の中の携帯がブルブルと震えた。画面をタップして表示すると、部長から、


『クリパの成功は君の双肩に懸かっている。せいぜい励めよ』


 嫌なタイミングでプレッシャーを掛けてくるものだと、見えない重圧に喘ぐ。それにしても『クリパ』って柄じゃないだろう。巻き舌で『Christmas party』と言っている方がしっくりくる。『り』と返してやろうかと一瞬だけ考えて、『了解です』と返す。


 この調子だと、商談に失敗したらは何を言ってくるか分かったもんじゃない。始末書まで書かされそうだ。もしそうなったら、代替案だいたいあんとしてカラオケでも進言してみようかな。流暢りゅうちょうな発音で『恋人たちのクリスマス』を歌ってくれるんじゃないだろうか。千見寺は大喜びに違いない。


 そんな幻のクリスマスパーティを想像していると、カウンターの裏手から、いつも通りなマスターと制服姿のままの楓が出てくるのが見えた。思わずスマホを操作しているフリをする。


「おお坊主、来てたのか。丁度良いところに来たな」


 マスターが大股でこれ幸いと向かってくる。


「こんにちは、マスター。ついさっき来たとこ。何かあった?」


 声を掛けられてから気づいた体で、スマホから視線を外して答える。あくまでも自然に、制服のままの楓に視線を向けた。


「あ。こんにちは、光葉。――こほっ。いらっしゃいませ」


 楓は、ウェイトレス衣装に着替えてもいないのに、しかめ顔は一瞬で、真っ赤な顔に営業スマイルを懸命に貼り付けてぺこりとお辞儀をした。


「ちょ、楓、どうしたんだ?」


 慌てて腰を浮かす。マスターは苦い顔をして、


「どう見ても体調が悪いっていうのに、店に出るって聞かねぇんだ。ここは飲食店だからって言ってようやく納得してくれてな。おい坊主、せっかく来たところ悪いが、タクシーを呼んだから送ってやってくれ。じきに店の前に来る」


「――こほっこほっ。いえ、大丈夫です。一人で帰れます。――こほっ」


 どう見ても熱に浮かされている。帰る途中で倒れたりしないだろうか。


「遠慮しないでいいから。ほら、タクシーが来るまで座ってなよ」


 隣の席を引くと、楓はカウンターからふらふらと出てきて、ぽすんと糸が切れた人形が倒れこむようにして座った。慌てて背中を支えてやる。制服越しでも熱い体温に、思わずドキリとした。


 しっとりと汗ばむ制服に、指が吸い付いて離れない。指先の毛細血管がドクドクと激しく脈を打つ。左手が自分のものではないような錯覚に陥った。


 楓は僕の様子にまるで気づく余裕は無く、目をぎゅっとつむ項垂うなだれている。座って落ち着いたら、絞り出す元気も一緒に無くなってしまったのだろうか。


 任されて一緒に行くのが僕で果たして大丈夫か、と急に不安になる。送り先は楓の家ではなくて、病院の方が良いのではないだろうか。判断がつかない。「遠慮するな」と大口を叩いておきながら、楓の為にすべきことが分からない。


「心配するな、坊主。持病は無いと言っていたから、おそらくただの風邪だろう。それに、嬢ちゃんの母親が帰宅しているそうだから、任せれば良い。お前は家に着くまでただ一緒にいてやれ」


 見透かしたかのように、マスターが僕を励ます。ハッとしてマスターを見上げる。


「ありがとう、マスター。正直ちょっとテンパってた」


「なあに、ただの年長者のお節介だよ。ちゃんとお礼を言える坊主なら、すぐに自分がすべきことを理解出来るだろうさ。精々、謙虚けんきょに生きろよ」


 マスターがふっと笑ってクサいことを言う。


「意外とマスターが一番心配してたりして。ちょとセンチになってるんじゃない?」


 少し余裕を取り戻した僕がジャブを打つと、


「バカタレが。坊主に合わせたんだよ」


 マスターはそれをひらりとかわして、


「クリスマスについて話があるから、お前はそのまま戻って来い。タクシー代は往復分払う」


 強烈なカウンターを見舞ってきた。


「は? なんでマスターからクリスマスの話が出てくるのさ」


 期せずして本来の目的を思い出して、切り出す順番が明らかにおかしい状況に混乱した。


 マスターは残念そうに髭を撫でながら、


「白水の嬢ちゃんから電話で聞いてんだよ。坊主らの計画はもう既に話が付いてんだ。折角せっかく、知らんぷりして右往左往うおうさおうする坊主を楽しめると思ってたんだがな。今はそういう訳にもいかないだろ。楽しみを捨てて、実利に走ったというわけだ。そういうわけで、店を閉めてクリスマスとイヴの打ち合わせをするから戻って来い」


「な――」


 あんぐりと空いた口が塞がらなかった。人は、驚きと呆れと怒りと諦めとが一緒くたにななると、声すら出なくなるのだと知った。知りたくもなかったが。


 マスターはそんな僕を見て満足そうに、


「その顔を見れただけで良しとするか。おい坊主、呆けてないで嬢ちゃんを頼むぞ。ほら、迎えが来たようだ」

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