銀花の夜 2/3

 雪を払いながら入って来た人物は、楓だった。


 楓は真っ赤な傘を畳んで傘立てに突き刺すと、コートをいそいそと脱いで、ばっさばっさと豪快に雪を落としている。こらこら、そんなことしてたら叱られちゃうぞと思いながらマスターを見やると、いたずらが成功したような顔をして僕を見ていた。髭面でそんな顔をされると、正直怖い。


「マスター? 楓は来ないんじゃなかった?」


 僕がじと目で問い詰めると、


「いんや。よおく思い出せ。『来なくていいと伝えた』と言ったんだ。来ないとは一言も口にしてないぞ。まあ、本当に来るとは思っていなかったけどな」


 マスターはそう弁明した。勝ち誇った顔で。


 僕は「はぁ」とため息をついた。これで今日は二戦二敗。どうしてこうも僕はからかわれてしまうのだろうか。不快ではないけれど、少し悔しい。僕が勝てるのは千見寺くらいのものだ。もっとも、千見寺はからかわれたことに気づかないタイプだけど。


「あ、光葉。今日も来てくれてたんだ? こんばんは」


 いつの間にか、楓が僕のそばに立っていた。心地よい声色が胸に染み込む。今日は会えないと残念に思っていた反動か、心臓がゆっくりと溜めを作ってから跳ねた。


「こんばんは。帰り道だからね」


 理由になっていない理由を思わずこぼす。


「ふふっ。帰り道だから、ね」


 楓が嬉しそうに僕の言葉を舌の上で転がした。なぜだかとても恥ずかしい。


「いけない。マスター、急いで着替えてきますね」


 我に返った楓が、慌てて両手を合わせる。女の子らしい仕草にドキリとした。


「落ち着け、嬢ちゃん。まずは一息つけ。少し待ってろ。いま淹れるから」


 マスターが先程と同じ様にドリップの準備を始める。先ほど淹れた残りは使わないらしい。僕が「それ貰うよ」と声をかけると、少し変な顔をしてから「この分の料金はいらん」とサーバーをこちらによこした。


「お気遣いありがとうございます。では、失礼しますね」


 そのやり取りを見ながら、楓がわざわざ僕の右側へ回り込んで椅子を引いて座った。ふわっとシャンプーなのか香水なのか、とにかく良い香りが珈琲のアロマに混じる。全身が心臓になった気がした。


 一湯目いっとうめ。二人並んで落ちていく珈琲をじっと見つめる。二湯目にとうめ。相変わらず珈琲を淹れるマスターの顔は真剣で、僕らの存在を忘れている様だ。三湯目さんとうめ。もうすぐ珈琲が落ちきる。このままずっと落ち続ければ良いのに。ふと視線を横にずらすと、楓の視線とぶつかった。慌ててサーバーへ視線を戻す。早く落ちきれ。


「ほら、外は寒かっただろう。これ飲んで体を温めておけ」


 気が付くとマスターが楓へカップを差し出していた。楓は両手で大切な卵を扱うように丁寧に受け取ると、ふーっと少し冷ましてから一口すすった。


「甘くて美味しい。やっぱりマスターの淹れる珈琲はとびきりおいしい」


 ほぅと息をつくと、幸せそうな笑顔で感想を述べた。マスターが得意げに「ふん」と鼻を鳴らした。そのやり取りに、少しだけ、ほんの少しだけ嫉妬しっとした。


「甘いって? 砂糖もミルクも入ってないでしょ? それ」


 生まれかけた感情を噛み殺すようにして、指摘する。


 楓は得意げな顔をして、


「美味しい珈琲は甘いのよ。苦さも忘れちゃうくらいに」


 何も言い返すことが出来なかった。


 僕は砂糖の入っていない珈琲を飲めるようになったくらいで大人ぶっている。だが、大人にはきっとその先があったのだ、と僕は理解した。目の前の同じ年頃の女の子は、もうそれを知っている。これから先、僕が楓に何を言っても勝てないだろうと思った。不戦敗だ。これで今日は三連敗。


「光葉ったら、ちょっと面白い顔してるよ? もしかして、珈琲が甘いっていうのがそんなにふしぎ?」


 楓が僕の顔を下から覗き込むようにして見る。僕はどんな表情をしているのだろう。もしかして、立て続けの敗戦に心が折れて泣きそうになっているのかもしれない。


「昨日まで砂糖を入れなきゃ飲めなかったから、ブラックのまま甘いだなんて正直分からない」


 何とか気を取り直して、本音を絞り出した。本を沢山読んで頭でっかちになっていた僕に、楓は容赦なく冷や水をぶっ掛ける。少ししか言葉を交わしていないけれど、楓の前で背伸びは出来ないな、と僕は思った。からかいが親愛の裏返しだと理解しているくらいには、僕は子供じゃない。


「なんだ、そんなことか」


 楓が優しくつぶやく。


「そんなことって何だよ」


 少し口調が乱暴になった。


「ごめんね? そういうつもりじゃないの。気を悪くしないで」


 楓が慌てて取りつくろう。少し悲し気な表情を見て、僕はなんて子供なんだろうと心の中で大きくため息をついた。数舜前すうしゅんまえに思ったことも実践できないなんて。もう一度だけ、チャンスが欲しい。ちっぽけなプライドなんて捨ててしまえ。


「こっちこそごめん。勝手に色々考えて、子供っぽいところを見せちゃった。続き、聞かせてくれる?」


 楓に向かって素直に頭を下げた。自覚したことをそのまま口に出す。吐き出された言葉はなまりの様に重くて、全身の緊張が一気に緩んだ。


 もうこれで大丈夫。少しは頭が廻るけど、最後にはからかい勝負に負けてしまういつもの僕だ。マスターがカウンターから離れたのがちらりと見えた。


「うん――わかった」


 楓がほっと胸を撫で下ろして続ける。


「あのね、味覚はその人の性格みたいに、人それぞれだと思うの。苦いのを忘れるくらい甘く感じる人がいれば、苦いのは苦いから嫌だって人もいるのよ。砂糖とミルクをたっぷり入れて甘くすれば好きっていう人もいるし、苦いままが好きっていう人ももちろんいるの。その人が美味しいをどう表現するかの違いなだけで、どれが正しいということは決して無いわ。わたしの『美味しい』は苦いのが甘くて、光葉は『苦い』を苦いまま好きになろうとしてるってだけの話よ」


 楓は言葉を選びながら懸命にそう言い切ると、珈琲をくいっと口にして、「あまーい」と子供のような声を出してはにかんだ。


 四連敗だ。いや、そもそも勝負でもなかったなと僕は思う。きっと楓にとってからかうという行為は、親愛の裏返しでもなんでもなくて、猫がぐりぐりと頭を擦り付けるみたいにただ単に愛情をぶつける行為なのだ。それくらい、楓のからかいは優しくてとろとろに甘い。


 異性として、とは思い上がりもはなはだしいので思わないが、少なくとも『同じ小説を読む仲間』という共通項だけで心を開いてくれているくらいには、親愛の情を持ってくれているのだろう。


「ねえ、楓ってさ、いくつ?」


 思わず尋ねていた。本音がぽろぽろとこぼれる。


「何その聞き方。傷つくなーもう。わたし女の子だよ?」


 楓が控えめに頬を膨らませる。どう見ても笑っていた。


「見たことない制服着てるからさ。何年生か分からない」


「ヒント。光葉とおんなじ」


 いたずらっぽい目を向ける。


「じゃあ、高校二年生」


 僕は精一杯、素直なまま、楓のからかいに付き合う。


「ピンポーン! そして、わたしも当たりだね」


 楓が心底楽しそうに笑った。僕もようやく笑った。楓とちゃんと話すのは初めてだったが、何というかずっと昔から気心の知れた仲のような、そんな錯覚を感じるくらい自然な雰囲気だった。僕だけがそう感じているのかも知れないけれど。


 二人して馬鹿みたいに笑っていると、ふいにカランカランと聞きなれた金属音が遠くに聞こえた。


 入り口の扉に目をやると、大きな影が店を出るところだった。二人で顔を見合わせていると、数拍すうはくの間を置いて再び扉が開き、マスターがのっそりと現れた。頭にも体にも、雪はついていなかった。


「雪は止んだみたいだ。ただ、道に雪は積もったままだから、常連客もわざわざ来んだろう。外はもう暗い。店はもう閉めたから、お前らもそれ飲んだらとっとと帰れ。また降り出すかもしれんぞ。今日はおごりでいい」


 マスターがテーブル席の椅子を次々と逆さにしてテーブルに置いていく。それを見て、学校の掃除を思い出した。古時計の針は、午後七時を過ぎたところだった。


「そんな、悪いです。せめて、店仕舞いだけでも手伝います。わたし、お客さんじゃなくて従業員ですから」


 楓はすくっと勢い良く立ち上がると、コーヒーカップをよけてから座っていた椅子に手をかける。僕も楓にならって、自分の椅子を逆さにしてからカウンターに置いた。


「ほれ、やめろやめろ。変に気を使うな。嬢ちゃんは遅くなる前にとっとと帰れ。それと坊主、外はまだ滑るだろうから、ちゃんと嬢ちゃんを送っていってやんな」


 楓に対しても僕に対しても成り立つ、マスターの気づかいだった。


「今日のところはマスターの好意に甘えよう。電車も止まっちゃっただろ? 帰るのは大変だよ」


 マスターの好意に全力で乗っかる。下心が無いと言えば嘘になるが、本心から楓が心配なのは事実だ。


「――わかった」


 楓は逡巡しゅんじゅんした後、観念したかのように頷いた。


「マスター、お役に立てずごめんなさい。また明日からよろしくお願いします」


 ぺこりと丁寧にお辞儀をする。店の客を相手に百戦錬磨ひゃくせんれんまの大男も、その姿には思わず目を丸くしたようだ。


「おう。また明日からよろしくな。それと、こういう時は『ごめんなさい』じゃなく、『ありがとう』、だ」


 マスターの目がひどく優しげだ。僕の目からは、いたいけな少女が熊男から鋭い爪と牙をすぽんすぽんと引っこ抜く姿がはっきりと見えた。ぬいぐるみでなければ、そんな恥ずかしい台詞なんて出てこない。そんな僕の視線に気づいたのか、マスターが慌てて、


「と、とにかくだ。気ぃつけて帰れよ」


 そんな柄にもない台詞を口にした。


「はい、本当にありがとうございます。ごちそうさまでした」


 もう一度丁寧なお辞儀をして、楓はコート掛けに向けて歩を進めた。僕もそれに続く。


 コートを羽織り、傘立てからビニール傘を引き抜くと、マスターに向かって軽く会釈えしゃくをする。目でお礼を伝えると、マスターは「ふんっ」と鼻息を荒くして厨房へ消えていった。向き直ると、楓はちょうどコートの前ボタンを締め終えて、傘立てから真っ赤な傘を引き抜いたところだった。


「楓、家はどっちの方向?」


 僕は楓の家を知らない。たとえどれだけ遠くても、送っていこうと決意はしていたが、せめて方向だけでも知りたかった。


「えっと、花木町はなきちょうの駅のほう」


「ここから隣の駅か。方向も同じだ。じゃあ家まで送るよ」


 思ったより近くでほっとした。雪道を考慮しても、一時間はかからないだろう。


「うん、ありがと」


 重い扉を押し開き、一歩踏み出す。シャクリと溶け始めた雪が鳴る。右肩の辺りで、小柄な楓の存在を感じた。


「じゃあ、帰ろうか」


「うん」


 重い扉が、軋みを上げながらゆっくりと閉まった。

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