銀花の夜 3/3

 店の外に出ると、未だ何者にも触れられていない純白のベールと、車の排気ガスで汚された真っ黒な塊が、奇妙なコントラストを描いていた。都会で銀世界を見ることは難しい。いつもよりだいぶゆっくりに走る車が、べっちゃりと溶けた雪をかき分ける音がする。


 テールランプの赤色灯が、街並みに漏れている蛍光灯の光を背景にして、妙にまぶしく光っている。そういえば楓の傘も真っ赤だったな、とふと思う。


「帰ろうか」

 

 もう一度、ぽつりとつぶやいて駅の方向へ歩き出す。線路沿いに歩けば、そのうち隣駅に辿り着くだろう。楓は「うん」とだけ返して僕に続いた。


 都会の喧騒けんそうの中で、雪を噛む音が二人分重なって響く。右肩に全神経を集中させながら、僕は無言のまま歩き続ける。次の信号で止まったら、何か話しかけよう。このまま進めばちょうど信号が赤になるはずだ。居酒屋の店員が「いらっしゃいませー」と懸命に大声を張り上げている。革靴がつるんと滑って転んだスーツ姿のサラリーマンが、「いてて」と顔をゆがめながら、ゆっくりと立ち上がろうとしている。周りの部下たちが、オロオロしながら手伝っている。革靴で慌てるからだ。間抜けだなあ。若いカップルが、言い合いをしながら僕たちを追い抜いた。その後ろ姿をぼんやりと眺める。垢抜けた女子高校生が、携帯を片手に大声で話しながら、僕らに向けて舌打ちをした。ごめんなさい。信号がいつのまにか青になっている。横断歩道を渡れば駅に着く。都会の喧騒けんそうから離れれば、きっと自然に会話が弾むに違いない。人波が駅の方向へ流れていく。


「あ」


 僕は思わず声を上げた。


「電車、動いてるみたいだね」


 駅に着くと、電光掲示板が今の僕にとっては有り難くないお知らせを流していた。


 多くの人が足止めを食っていたからか、あふれんばかりの人が改札周りを埋め尽くしている。あの中に突入して数分我慢するのと寒空の中歩くのだと、楓はどちらを選ぶのだろう、と思った。僕の答えはもちろん決まっていたが、隣で真っ白な息を吐く楓の横顔を見て、思わず揺らいでしまった。


「どうする? 電車で帰ったほうが安心だと思うけど。タクシー捕まえる? それとも、人混みがある程度さばけるまでどこかで時間をつぶそうか?」

 

 少しだけ抵抗してみた。ひどく情けない顔をしているのが、自分でもはっきりと分かる。


 楓はそんな僕をぱちくりと大きな瞳で見つめると、


「んーん。このまま歩いて帰ろ」


 ゆっくりと首を横に振ってにこりと笑った。


「え、いいの?」


 反射的に答えた。


「いいのって?」


「ああいや、なんでもない」


 無邪気に首を傾げる楓を見て、無理やり動揺を抑え込む。


「クロワッサンを出てから、光葉、ちょっと変だよ? むっすり黙っちゃって」


 あまりにも真っすぐな指摘に、思わずたじろぐ。


「もしかして、女の子と一緒に帰るの初めて?」


 楓はあろうことか僕の心臓に巨大な爆弾を投げ込んできた。無邪気に笑いながら。可愛い顔をしてなんてことをしてくれる。


「そうだよ、初めてだよ! 緊張してるの!」


 やけくそだった。楓の前で背伸びをする必要なんて最初からなかった。


「やっぱりー。後ろから見てたら背中カチコチだったから、なんかおかしいなーって思ってたんだ」


 僕の気も知らないで、間延びした口調でふんわりと笑っているから、つい、


「そういう楓はどうなのさ」


 そんな、とんでもないことを尋ねてしまった。


「え、わたし? んーと――」


 楓は人差し指を小さなあごに添えて、可愛らしく逡巡しゅんじゅんすると、


「ないしょ」


 何とも憎たらしかった。「くっ――」と言葉にならない吐息を口から漏らす。


「ほら、いくよ、光葉」


 そんな僕を尻目に、楓は僕の右手をとって歩き始める。楓に引っ張られる形になり、思わずよろめいた。そのまま、ずんずんと先に進む楓のすぐ後ろを、雪に足をとられそうになりながら懸命に付いていく。後ろからは、絹の様にほっそりとした黒髪のすき間から覗く、桃のように染まった可愛らしい小さな耳がよく見えた。


「あのさ、楓」


「なあに?」


 振り向かずに楓が答える。


「耳、赤いよ」


「さ、寒いから!」


 桃が熟して赤みを強めた。


「今日は雪だしね」


「そう! 雪が降ったから寒いの」


「でも、手はあったかい」


 急に楓が足を止めた。思わずつんのめって転びそうになる。踏ん張ってなんとか耐えた。


 見下ろすと、楓がぷくりと頬を膨らませて潤んだ目で見上げている。


「な、なに」


 思わぬ反応にたじろぐと、楓は、


「いきなり余裕になるなんて、ずるい」


「元はといえば、楓が先にからかってきたんでしょ」


 楓は余裕だと言ったが、そんなことは全くない。さっきからずっと早鐘が鳴っている。楓がむーと唸っている。


「とにかく、このままじゃいつか転ぶから、ゆっくり歩こう」


 僕はそう提案する。


「わかった」


 楓が大人しくそれに従って、僕の右隣に並んだ。


「この道であってる?」


「たぶんあってる」


 僕たちはそのままゆっくりと、線路沿いに続く銀色の絨毯じゅうたんに足跡をつけていく。


「ふーんふふふふふ、ふーんふふふふんっ♪」


 楓が機嫌よく、鼻歌を歌う。


「その曲、古くない?うちの親も冬になるとたまに歌ってる」


 何だか気恥ずかしくて、つい水を差す。


「お母さんがよく歌ってるから、つい覚えちゃったの! 名曲はいつまでも名曲なんだから。もう、いいでしょ別に。光葉も知ってるなら、ほら一緒に」


「「ふふふーん、ふふふふふふん、ふふふふーん♪」」


 寒空の下で、右手だけがずっと温かかった。

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