銀花の夜 1/3

「うー寒かった」


 重いかしの扉を引き開けて『クロワッサン』に入ると、急に温かい空気に触れて驚いたのか全身がぶるりと震えた。頭とコートに積もった雪を払っていると、静かな店内に低い声が響いた。


「おいおい坊主、店内で払ってくれるなよ。それと、脱いだコートはそこにかけとけ」


 マスターが入り口に置かれたコート掛けを指さす。どうやら客は僕一人だけのようだ。コート掛けには何もかかっていない。


「ごめん、マスター。それと、ブレンドひとつ」


 僕は雪で濡れたコートをかけて、もう少しだけとズボンの雪を払ってからマスターのいるカウンターへ歩を進めた。カウンターチェアに座り一息つく。壁の古時計は午後六時を指すところだった。


「カウンター席なんて久しぶりじゃないか」


 挽いたばかりの珈琲豆をドリッパーにセットし、カップをお湯で温めながら顔いっぱいの髭の面積を更に横に広げてマスターがつぶやく。


「水無月・・・・・・楓は来てないの?」


 問いには答えずに何でもないように言った。「カウンター席だと近すぎて緊張しちゃう」とは口が裂けても言えなかった。


「雪だからな。無理して来なくていいと伝えた」


 とたんに厳しい顔つきになり、一湯目いっとうめを真剣に注ぎ始めた。珈琲豆がチョコレートマフィンのようにゆっくりと膨れ上がる。


「ふうん」


 二湯目にとうめ三湯目さんとうめ。抽出された珈琲がサーバーへ落ちていく様子を僕は黙って見つめた。嗅ぎ慣れたアロマが立ち上り、とげの生えた心を優しく包み込んだ。


 永遠にも感じるドリップが終わると、マスターはカップのお湯を捨て、淹れたての珈琲をカップへ注いだ。カップをソーサーに置いて何も添えずに差し出す。マスターは僕が少し大人になったことを知っているようだ。


「残念か?」


 それは問いかけではなかった。視線を上げると、マスターの大きな目が笑っていた。


「まあね。それなりに」


 僕は珈琲をすすりながら苦笑いした。


「あっはっは。正直な奴め。青春してるな? おい」


 マスターが豪快ごうかいに笑うと、場の緊張はすっと解れた。


「そんな悩ましい坊主にこれはサービスだ。食っとけ」


 マスターはそう言いながら皿にクロワッサンを二つ盛り付けて差し出した。


「ありがたく頂くよ。マスター」


 一口食べると、芳醇ほうじゅんなバターの香りが鼻孔びこうをくすぐった。甘くて美味しい。


「それにしても、本の虫に春が訪れるなんてな。この雪はそのせいか? おかげで今日は客が来ん」


「知ってる? マスター。春には雪は降らないって」


「んなこたぁ分かってるよ。だから言ってんだ」


「それと、僕はお客さん」


 マスターがポリポリと髭をかく。雪が止んで本当に春が来ればいいのになと思う。


「それにしても、あんなに可愛い女の子をどこで見つけてきたの?」


 僕はずっと疑問に思っていたことを口に出した。


「見つけたんじゃねぇ、向こうからやって来たんだ。十二月の頭だな。店に突然やって来て、ここで働かせてくれってな。店内の雰囲気をべた褒めされて良い気になっちまった。帰ってカミさんに言ったらよ、腹ぁ抱えて笑い転げてたよ。『きっと成長した座敷童ざしきわらしよ』なんて言って。しまいには古い女中服じょちゅうふくを引っ張りだしてきて、一晩で仕立て直しちまった。サイズが違ったらどうするんだと思ったが、それはまあ問題なかったな」


 マスターは一気にそう言って深いため息をついた。


「それで? 座敷童ざしきわらしの効果の程は?」


「大繁盛、と言いたいところだが現実はそう上手くいかねぇな。水無月の嬢ちゃんは看板娘として目立つから、確かに客は増えた。軽食を沢山食べてくれる男の客がな。だがな、坊主と同じでみんな鼻の下を伸ばしてずっと居座るんだ。だから、客は増えても多くは回らない。嬢ちゃんへのバイト代を考えるとトントンってとこだ。常連客の奥様方は、嬢ちゃんがいない平日の日中に来るから大きな混乱もないな」


「ふうん。そんなもんか」


 男の客と聞いて自然と眉根が少し寄った。


「ああ。そんなもんさ。ちなみにな、俺の知る限りじゃあ、水無月の嬢ちゃんが自分から積極的に話しかけたのは、坊主、お前さんだけだ」


 僕の小さな変化をマスターは目ざとく見つけていた。


 僕はマスターの挑発に乗らないようにして、


「マスターも髭の面積が縦に広がったんじゃない? てっきりあのコスプレはマスターの趣味だと思ってた」


「何を言ってるバカタレが。あれは正式な女中服じょちゅうふくだ。まあ、カミさんの趣味が思いっきり反映されているのは否定はせんが。坊主はあれが好きなのか?」


 マスターがにやりと笑う。


「まあね。てっきりマスターの趣味だと思ってたから、いつかメイド服談義が出来るって楽しみにしていたのに。あーあ残念だな」


 今度は僕がにやりと返す。


「その手には乗らんぞ。まあ、似合っているとは思うがな」


 熊みたいな大男が髭をぽりぽりとかきながら恥ずかしそうに言った。『クロワッサン』に足繁く通うマダムもティーンエイジャーも、みんな決まってマスターを「かわいい」というのだ。きっと子供の頃に枕元に置いていた熊のぬいぐるみを思い出しているのだろう。いや、そうに違いない。


 海より深い乙女心について考察をしながら苦い珈琲をすすっていると、突然入り口の方からカランカランと金属が触れる音が響いた。扉の影から顔を覗かせた人物を見て、思わず腰が浮きかけた。


「こんばんわ――。すみません、遅れちゃいました」


 店内に澄んだ声が響いた。

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