ノー・トリックス

「遥、本当にごめん」


 朝のホールルームが始まる十分前、僕は自分のクラスへは向かわずに、ひとつ隣の扉を開けて遥の席まで歩み寄ってから、腰を直角に曲げた見事なお辞儀を披露ひろうしていた。ろくな言い訳が思いつかなかったので、直球勝負に変えたのだ。


 異様な雰囲気を感じたのか、遥のクラスメイトがすっと距離をとった。


「どういうこと?」


 察したらしい遥が、むすっとした一段低い声を僕のつむじに向かって投げかける。


 僕は遥かのつま先を見つめながら、


「遥の小説の添削、まだ出来てない。ちゃんと見るって言ったのに、ごめん」

 

 なんて言われるんだろう。無茶な要求をされなければいいけど。


「放課後、部室で添削してくれたら許してあげる」


 遥がふぅと息をついた。僕は顔を上げて口をへの字に結んだ遥を見下ろしながら、


「もちろん。ちゃんとチェックさせてもらうよ」


 胸を撫で下ろしたと同時に、少しおかしいなと思った。感情豊かな遥は、楽しいときは大口を開けて笑い、悲しいときはわんわん泣く。怒ったときは烈火れっかのごとく怒り、しばらく口を聞いてくれない。


 いつだったか僕が、読んだばかりの小説を楽しく話していたら、まだ読み終わっていない遥につい最後のオチを話してしまったことがある。あの時は一週間は口を聞いてくれなかったし、終いには『クロワッサン』でどでかいパフェを奢らされて、それでなんとか許してくれた。こんなことで許してくれるなんて拍子抜けだ。


「遥、なんか良くないものでも食べた?」


「な、なにも食べてない! あたしは人の善意を踏みにじる様な女じゃないの! まったく、光葉はあたしを何だと思ってるの!?」 


 許しを得たばかりのちょっとした気の緩みで、思いっきり地雷を踏み抜いてしまったようだ


「ご、ごめん遥。失言だった」


 僕はもう一度深く頭を下げた。


「ふんっ。今日は終わるまで帰らせないから」


 遥は、そっぽを向きながら有無を言わせぬようにそう言い切った。僕としては、その程度のことで失態を水に流してくれるならお安いご用だった。


「最後まで付き合うよ。それより、ラストシーンは書けた?」


「それは書けたわ。もともと話の落ちは決まっていたから、筆が乗って仕方なかったわよ。ただ、最後まで勢いのまま突っ走ったから、ちゃんと冷静に推敲すいこうして欲しいの。途中の一番盛り上がるシーンなんだけど、キリンと象がラケット持ってリンゴをラリーするところなんて、たぶんめちゃくちゃな描写になってると思うから」


「あはは、なんだそれ。遥、どんな小説書いたんだよ?」


 予想だにしないカオス展開をチェックするという事実に戦慄せんりつして、乾いた笑いしか出てこなかった。夢にも出てこなさそうな情景をどう添削すればいいのだろう。


「あたしの『面白い』をたっぷり詰め込んだのよ。思いっきりお腹を抱えて笑っていいからね!」


 遥は自信満々に胸を張った。どうやら遥はアクション系からギャグ系に、いつの間にか鞍替くらがえしていたらしい。アヴァンギャルドな作品を文芸誌に乗せて公開する肝の太さは、遥らしいと言えば遥らしいけど。


「おはようさん、光葉、遥。なに話してんだ?」


 ホームルームぎりぎりにやって来た千見寺が、声をかけてきた。僕は振り返って、


「千見寺、キリンと象がリンゴをボールにしてテニスをするって話、どう思う?」


「お前も遂にあれを読んだのか」


 千見寺がにやりと笑う。遥が「何よ」とむくれている。


「いや、実はまだ読めてないんだ。つい忘れちゃってて」


 僕は遥を恐る恐る見やりながら答えた。


「へぇ。光葉が物忘れなんて珍しいな。なんか悪いもんでも食ったか?」


 僕と千見寺の発想は同じレベルらしい。


 遥が怒ったポーズを崩すまいと頬をピクピクさせている。ちょっと複雑なところだが、ナイスだ義男。


「いや、昨日は電車が止まってただろ? 歩いて帰ったら疲れてすぐ寝ちゃったんだよ」


「ふーん。夕方には動き始めてたって聞いたけどな。まあいいや。それより光葉、まだ読んでないなら覚悟しておいた方がいいぞー」


 千見寺が更に口角を釣り上げた。どうやら遥の書いた小説は余程の際物きわものらしい。


「そ、そうか。じゃあ放課後に部室に行ってから読んだほうがいいね」


「そうしろそうしろ。挿絵を依頼するために途中までの原稿を美術部に届けたんだが、後で聞いた話によると、その日は全く部活にならなかったらしいぜ。なんせ画を描こうとしても、ムンクの叫びの背景みたいなぐにゃぐにゃしたものしか描けなかったって言うんだからな。美術の先生がその画を見て『なんて素晴らしいんだ』って感動しちゃってさ、コンクールに出品することになったらしい」


 遥の作品は、一人の美術部員の才能を開花させてしまうくらいの衝撃があるようだ。なんだか読むのが楽しみになってきた。怖いもの見たさというやつだろうか。


「だーめっ。隣で読んでたら、あたしやることないじゃん。目の前で読まれるのも恥ずかしいし。ちゃんと部活に来るまでに読んでおいてよ」


 昨日は隣で読めと言った遥が、そんなご無体なことを宣う。


「じゃあせめて、昼休みに読むことにするよ。授業中に読んだらとんでもないことになりそうな気がする」


 僕がそう告げると、ちょうどホームルームのチャイムが鳴った。


「それじゃあ、放課後、また」


 自分の教室に向かう。


 結果だけ言うと、午後の授業は笑いをこらえるのに必死で、全く身が入らなかった。

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