12月19日(水) - 13 days to the last day-

追憶の夏


 後悔先に立たず。

 

 昔の人は上手いことをよく言ったなと思う。


 溶けた雪がてらてらと朝日を反射する校門を目にした瞬間に、僕は小学六年生の二学期の始業式の日をふと思い出して足を止めた。


 じんじんと鳴り止まないせみの声。うだるほどの夏が未だ幅を利かせてふんぞり返っていて、アスファルトの照り返しが今よりも暑かったその日も、ふと嫌な予感がして校門で足を止めた。暑さとは違う理由で、背中に一筋の汗が流れた感覚を僕ははっきりと覚えている。


 今ではあり得ないことだが、その頃の僕は夏休みが早く終わればいいのにと恨み節を吐いていた。大作を書き上げた直後の父は暇を持て余していて、夏休みを謳歌おうかしている僕とひたすら外で遊びたがった。プールに縁日に山遊び。友達と遊びたい盛りだった僕は、父が「今日は何して遊ぶ?」と無邪気に尋ねてくる度に、しかめ面をしていた。友達と遊んでくるからと告げると、あろうことか父は僕についてきて、子供に混じって一緒に裏山に秘密基地を造り始めたのだ。子供の遊びを大人が本気で取り組むと、僕たちがせっせと作り上げてきたおままごとみたいな秘密基地が、特殊部隊がジャングル奥地に設営する立派なベースキャンプに様変わりした。少年たちの純朴じゅんぼくな羨望の視線を一身に受ける父に、僕は友達を根こそぎ取られた気がして、ぎりりと奥歯を噛んだ。


  そんなわけで、「父のいない学校に早く行きたい」という屈折くっせつした願いを胸に抱いていた僕は、待ちに待った始業式の日。いつもより一時間も登校時間が遅いというのに、いつもと同じ時間に家を出たのだった。結局は、始業式が始まる前の教室で、秘密基地の仲間たちが父の伝説的な所業しょぎょうをひたすらに披露し、クラス中の男子から「お前んちのとーちゃんすげえな!」ともてはやされて、僕がいちやく時の人になったわけだが。


 あの夏の終わりの僕は、宿題を忘れたことに気が付いて呆然としていた。


 震える膝を力任せに反転させて、近くの公園まで走った。家に取りに戻って間に合う距離ではなかった。リュックを公園のベンチに叩きつけて祈りながらに中を漁ると、案の定一冊だけピカピカなノートを見つけた。翌日から使う新しいノートだった。僕は算数の問題集とちびになった鉛筆を取り出して、猛烈に白紙に数字を埋めていった。一心不乱に書きなぐっていたが、しばらくして遠くに学校のチャイムが聞こえた。僕は諦めて、とぼとぼ教室へ向かった。


 結局のところ、授業がなかったその日は、担任の担当教科である国語の宿題だけが回収されただけだった。冷静になって考えてみると、初日に持ってくるのは読書感想文だけと聞かされていたし、実際、それ以外の宿題を持ってきたクラスメイトはいなかったように思う。


 生まれて初めてのあの恐怖は、今でも心の奥底にびっしりとこびり付いている。その日、僕は確認することの大切さを実感した。それ以来、忘れ物は一度もない。


 それなのに、その日と同じ汗が背中を伝った。今は冬のはずなのに。


 ほとんど空っぽの鞄を持つ左手が重い。


 何を忘れたか気づいているのに、脳がそれを否定する。朝のチャイムが鳴るまで、猶予ゆうよはあと少ししかない。僕は教室に辿り着くまでの間、遥への言い訳を必死に捻り出そうと頭をフルに回転させた。


 後悔先に立たず。


 愚かにも睡魔に負けた昨晩の自分を呪いながら、校門を抜けた。

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