雲路の彼方 夢のあと③
「……起きていてよろしいのですか」
一応病人を装っている沼田城主は、そろそろそれにも飽きたのか、襖にもたれて外を眺めていた。
「於稲、こちらへ」
振り向きもせず、呼ぶ。於稲は素直にその背を抱きしめた。
「殿……」
手に手が重なる。温かい。
於稲は誰より知っていた。この夫が病と偽ってまで参陣しなかったのは、すべて弟のためであること。徳川の軍の内輪もめを避けるためではなく、大坂城にいる幸村の立場を配慮してこそのことであること。
彼が、自分に遠慮することなく戦えるように。
奥の襖の向こうに、見知った気配が近づいた。
「──
於稲がそちらを見やる。信之は外の雨を見つめたまま。
「……姫様、殿。
「右京が」
思わずそちらに向かおうとした於稲の手を、信之が掴む。
「殿?」
「茜子。……申せ」
信之の声は、降りそそぐ雨のように柔らかい。
「……はい。八日未明、大坂城内にて豊臣秀頼殿、その生母淀殿が自刃された、と」
「そうか。……して、真田幸村は、どうなった?」
息を呑む。
けれど、現実は現実のまま告げられた。
「安居神社近くにて、越前松平家家臣・西尾久作殿に。……お討たれになりました」
於稲は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「報告ご苦労であった。右京をよく休ませておいてくれ」
「はい、失礼します……っ」
茜子の声も潤んでいた。
「幸村、殿……」
於稲の瞳から、大粒の涙がぽたぽたと落ちて床を打った。
「於稲、泣くな」
掴まれた手が、いっそう強く握り締められる。
「そなたが泣いては、幸村がまるで可哀相な男のようになってしまう」
信之は振り向いた。淡く、微笑んでいた。どこまでも澄んだ瞳で。
「あいつは……最後まで己を曲げることなく、自分を信じて生き抜いた。何を哀しむことがある」
言って、立ち上がる。
「同情などいらないんだ。笑って褒めてやってくれないか。──自慢の、弟なんだ」
開かれた広縁の、その先の「外」を見つめる。
雲の向こうの、空の向こうの、何もかも越えた、その向こうの……
信之は扇を開いた。
真田六文銭が舞う。
人間五十年
下天のうちにくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり
一度生をうけ 滅せぬ者のあるべきか
幸若舞「敦盛」。あの織田信長が、燃え盛る本能寺の中で舞ったという曲舞。
「……一緒にしては、三郎公に失礼だろうか」
「いいえ」
信之はその場に腰を下ろし、じっと外ばかりを見つめる。
「いいえ……幸村殿は、立派なおかたです。さすが、信之殿の弟じゃ……」
於稲は夫の肩を抱きしめた。
「於稲。わたしは生きる。生きて生きて、この徳川の世の行く末を誰より遠くまで見届ける。あの動乱の中で散っていった、仲間たちの分まで」
「はい」
「真田の名の下に……」
信之の肩は震えていた。
「ええ、殿。わらわは幸村殿の代わりにはなれませぬが、ずっと殿のそばにおります。誰よりも、信之殿のそばにおるよ……」
雨は降り続いた。
けれど夕方には、空は美しい茜色に染まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます