雲路の彼方 夢のあと②


 年が明けて、四月。

 ウグイスがやっと鳴きだしたころ。

 先年の冬の陣の和議条約を一方的に破った徳川家康は、再度の大坂攻めの出陣令を出した。ここに戦国最後の戦い、大坂夏の陣が勃発する。


 幸村は何度となく徳川からの招降を受けたが、ついに応じることはなかった。

 沼田城の信之はいまだ病床にあるとして、再び信吉・信政を参陣させた。



 家康に謀られた大坂方は初めから劣勢であった。それでも幸村軍は鬼神のごとく奮戦し、家康本陣を何度も強襲した。恐れおののいた家康に「ここで腹を切る」とまで言わせたが、あとわずかなところで討ち取ることが出来ず、敗走した。


  

 

 五月雨さみだれが降る。柔らかな雨が降り続ける。


「幸村様」


 右京うきょうが叫んだ。幸村は安居天神の鳥居につくと、ずるりと馬から落ち、ぬかるんだ地にしぶきを上げた。

 右京は自ら馬から飛び降り、彼に駆け寄る。


「幸村様、しっかり」


 幸村についている天狗が次々と追いついてきた。


「幸村様ッ、大丈夫ですか」

「お疲れでしょうが、ここで休めません。すぐそこまで松平の軍が」

「大丈夫だ!」


 幸村は右京に抱き起こされ、息を切らしながらであるが言い切った。そして口の中を切ったことに気づき、ペッと血を吐く。


「まだだ。俺はまだ戦える……ッ」


 もう一度。もう一度だけ体勢を整えられたら。


「あと少しだったんだ……! お前たちも見ただろう、あの家康の怯えた顔」

「はいっ」

「よし……!」


 諦めない。諦めない。諦めるものか!

 家康の首さえ落とせば、まだ天下を揺るがせることぐらいできるはず。


 立ち上がると、脇腹に激痛が走った。

 あまりの痛みに目眩がし、幸村は再び膝をつく。


「幸村様ァ!」


 目の前が暗くなる。耳元で叫んでいるのは右京だ。それは分かる。


「ゴフ……ッ」


 がほり、と血を吐いた。今度は口内を切ったとかの話ではなく、喀血だった。


 幸村は無言で目をむき、両手を汚した緋を見つめる。


 なぜだ。なぜなんだ。なぜ俺はここで倒れなければならない?


 視界が揺れる。


「幸村様」


 右京に身体を預け、幸村はコゥコゥと不規則な呼吸を繰り返した。


 そして夢を見た。


(………ああ)


 見てはいけない夢が、見えてしまった。


 それは、未来への祈り。


「ちくしょう……」


 幸村は目を閉じた。


(まだ大坂城の中には大助がいる)

(秀頼様は生きていらっしゃる)

(俺が死んでも、きっと)


 俺が、死んでも……


 そう考え始めては、もう死に転がり落ちていくだけなのに。


「右京」


 目を閉じたまま、その名を呼ぶ。


「はい、何ですか、幸村様」


 幸村は顔色を悪くし、息を辛くしていくだけで答えない。


「幸村様!」


 右京は必死に呼びかける。他の男の天狗たちは立ち上がり、顔を歪めた。


「幸村様、松平の軍が」


 軍馬の響きはすぐそこまで来ている。それは幸村にも聞こえていた。


「なぁ、右京」

「はい……っ」

「お前は、もういい」

「……え?」


 雨はやんでくれない。

 幸村はゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。見えたのは、大きな目をいっそう大きく見開く右京だ。

 幸村は笑った。


「俺、昔から、一番嫌なんだ。人に忘れられるのが」


 だから、九度山で終わりたくなかった。あの生活は安穏で平和だったけれど、穏やかすぎて生きていることさえ忘れてしまいそうだった。自分が消えてしまいそうで、怖かった。

 自分さえ、自分を忘れてしまいそうだった。


「だから、お前は見ていてくれよ。俺がどんなふうに生き抜いて、……」


 幸村は言い直した。


「生き抜くのか、見届けてくれ」


 生き抜いて。……死んでいくのか。


「いや……いやです、幸村様。諦めないで!」

「それで、忘れないでくれな。俺のこと。俺がいたこと。兄貴の影じゃなく、真田幸村がいたこと。右京、お前だけは……」

「やめて下さい、気をしっかりもって」

「お前は豊臣を見届けて、そうしたらさ、……兄貴のところに行ってくれ。真田の未来を見届けてくれ、兄貴と一緒に。俺の代わりに。俺の、もう一つの夢を、叶えてくれ」

「幸村……様」

「これは命令だ、右京」


 幸村は歯を食いしばって立ち上がった。鳥居に手をかけて手綱を取ると、悪戯っぽく微笑んだ。


「へへ、まるであの、木曽義仲と巴御前みたいだな。……俺は、お前に何も言ってやれなかったけど」

「いりません、何もいりませんから」


 死なないで。ただ、生きてくれたら。


「これ、渡しておくな」


 渡されたのは、紅色の小袋。中には、美しい細工の入ったかんざし。


「幸村様……?」

「若い頃さ、義姉さん……稲姫に櫛を買ったときに、一緒にな。お前にだってこういうの似合うだろうと思って」


 照れくさくて、もうずっとしまい放しだったけれど。あの櫛を信吉に渡してから、代わりにずっと懐に入れていた。

 彼方を見やっている天狗が叫ぶ。


「幸村様、早く、馬にお乗り下さい!」

「右京、……真田幸村が命じる。俺の戦いと豊臣の未来を見届け、真田信之にあますところなく伝えよ!」

「幸村様ァ!」


 十文字槍を手に、幸村は馬に跨った。


「真田を頼んだ、右京。───ハッ」


 雨が降りしきる中、幸村の黒馬は遠ざかる。それに続く天狗たちの姿も、雨の向こうに。

 手の届かないところに。


 幸村と精鋭たちは松平軍に突っ込んで行った。


「俺は豊臣とよとみ左衛門佐さえもんのすけ信仍のぶしげ真田幸村さなだゆきむらなり。腕に覚えあらば、この首取ってみよ!」


 幸村はその意識のもつ限り、槍を振り回し続けた。


 雨は降り続く。


 ───……なぁ、兄貴。

 俺たちは一緒に生まれてきたけど、一緒に死ぬことは叶わなかった。

 一緒に生まれてきたけど、一緒に生きることさえできなかった。

 でも、許してくれるだろ?


『なんで、俺が兄貴じゃなかったんだろう』


 だけどさ、だからって兄貴になりたかったわけじゃないんだ。


 俺は、俺に生まれてきて良かった。

 兄貴の弟に生まれてきて、良かったよ……


『大丈夫だ、兄ちゃんがついてるからな。元気になったら一緒に遊ぼう。朝から晩まで、ずうっと一緒に遊ぼう』

『うん、約束だよ、兄ちゃん』


 ずうっと、一緒に。


(……ああ…)


 なぜ雨が降っているんだろう。


 青空が見たい。あの幼い頃に夢見たような、どこまでも自由な大空が見たい。

 どこまでも、飛べるような……


 あの雲の向こうに、きっとあるのに。





 右京はずっと見つめていた。鳥居より高い木の上から。

 五月雨の松平軍の中で、真田幸村の首級が上がるのも。

 幸村の幼い長男・大助と、秀吉の長男・秀頼を呑み込んで焼け落ちていく大坂城も。

 じっと見つめていた。

 頬を伝う雫は熱くて、だけど凍えてしまいそうに寒かった。

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