雲路の彼方 夢のあと②
年が明けて、四月。
ウグイスがやっと鳴きだしたころ。
先年の冬の陣の和議条約を一方的に破った徳川家康は、再度の大坂攻めの出陣令を出した。ここに戦国最後の戦い、大坂夏の陣が勃発する。
幸村は何度となく徳川からの招降を受けたが、ついに応じることはなかった。
沼田城の信之はいまだ病床にあるとして、再び信吉・信政を参陣させた。
家康に謀られた大坂方は初めから劣勢であった。それでも幸村軍は鬼神のごとく奮戦し、家康本陣を何度も強襲した。恐れおののいた家康に「ここで腹を切る」とまで言わせたが、あとわずかなところで討ち取ることが出来ず、敗走した。
「幸村様」
右京は自ら馬から飛び降り、彼に駆け寄る。
「幸村様、しっかり」
幸村についている天狗が次々と追いついてきた。
「幸村様ッ、大丈夫ですか」
「お疲れでしょうが、ここで休めません。すぐそこまで松平の軍が」
「大丈夫だ!」
幸村は右京に抱き起こされ、息を切らしながらであるが言い切った。そして口の中を切ったことに気づき、ペッと血を吐く。
「まだだ。俺はまだ戦える……ッ」
もう一度。もう一度だけ体勢を整えられたら。
「あと少しだったんだ……! お前たちも見ただろう、あの家康の怯えた顔」
「はいっ」
「よし……!」
諦めない。諦めない。諦めるものか!
家康の首さえ落とせば、まだ天下を揺るがせることぐらいできるはず。
立ち上がると、脇腹に激痛が走った。
あまりの痛みに目眩がし、幸村は再び膝をつく。
「幸村様ァ!」
目の前が暗くなる。耳元で叫んでいるのは右京だ。それは分かる。
「ゴフ……ッ」
がほり、と血を吐いた。今度は口内を切ったとかの話ではなく、喀血だった。
幸村は無言で目をむき、両手を汚した緋を見つめる。
なぜだ。なぜなんだ。なぜ俺はここで倒れなければならない?
視界が揺れる。
「幸村様」
右京に身体を預け、幸村はコゥコゥと不規則な呼吸を繰り返した。
そして夢を見た。
(………ああ)
見てはいけない夢が、見えてしまった。
それは、未来への祈り。
「ちくしょう……」
幸村は目を閉じた。
(まだ大坂城の中には大助がいる)
(秀頼様は生きていらっしゃる)
(俺が死んでも、きっと)
俺が、死んでも……
そう考え始めては、もう死に転がり落ちていくだけなのに。
「右京」
目を閉じたまま、その名を呼ぶ。
「はい、何ですか、幸村様」
幸村は顔色を悪くし、息を辛くしていくだけで答えない。
「幸村様!」
右京は必死に呼びかける。他の男の天狗たちは立ち上がり、顔を歪めた。
「幸村様、松平の軍が」
軍馬の響きはすぐそこまで来ている。それは幸村にも聞こえていた。
「なぁ、右京」
「はい……っ」
「お前は、もういい」
「……え?」
雨はやんでくれない。
幸村はゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。見えたのは、大きな目をいっそう大きく見開く右京だ。
幸村は笑った。
「俺、昔から、一番嫌なんだ。人に忘れられるのが」
だから、九度山で終わりたくなかった。あの生活は安穏で平和だったけれど、穏やかすぎて生きていることさえ忘れてしまいそうだった。自分が消えてしまいそうで、怖かった。
自分さえ、自分を忘れてしまいそうだった。
「だから、お前は見ていてくれよ。俺がどんなふうに生き抜いて、……」
幸村は言い直した。
「生き抜くのか、見届けてくれ」
生き抜いて。……死んでいくのか。
「いや……いやです、幸村様。諦めないで!」
「それで、忘れないでくれな。俺のこと。俺がいたこと。兄貴の影じゃなく、真田幸村がいたこと。右京、お前だけは……」
「やめて下さい、気をしっかりもって」
「お前は豊臣を見届けて、そうしたらさ、……兄貴のところに行ってくれ。真田の未来を見届けてくれ、兄貴と一緒に。俺の代わりに。俺の、もう一つの夢を、叶えてくれ」
「幸村……様」
「これは命令だ、右京」
幸村は歯を食いしばって立ち上がった。鳥居に手をかけて手綱を取ると、悪戯っぽく微笑んだ。
「へへ、まるであの、木曽義仲と巴御前みたいだな。……俺は、お前に何も言ってやれなかったけど」
「いりません、何もいりませんから」
死なないで。ただ、生きてくれたら。
「これ、渡しておくな」
渡されたのは、紅色の小袋。中には、美しい細工の入ったかんざし。
「幸村様……?」
「若い頃さ、義姉さん……稲姫に櫛を買ったときに、一緒にな。お前にだってこういうの似合うだろうと思って」
照れくさくて、もうずっとしまい放しだったけれど。あの櫛を信吉に渡してから、代わりにずっと懐に入れていた。
彼方を見やっている天狗が叫ぶ。
「幸村様、早く、馬にお乗り下さい!」
「右京、……真田幸村が命じる。俺の戦いと豊臣の未来を見届け、真田信之にあますところなく伝えよ!」
「幸村様ァ!」
十文字槍を手に、幸村は馬に跨った。
「真田を頼んだ、右京。───ハッ」
雨が降りしきる中、幸村の黒馬は遠ざかる。それに続く天狗たちの姿も、雨の向こうに。
手の届かないところに。
幸村と精鋭たちは松平軍に突っ込んで行った。
「俺は
幸村はその意識のもつ限り、槍を振り回し続けた。
雨は降り続く。
───……なぁ、兄貴。
俺たちは一緒に生まれてきたけど、一緒に死ぬことは叶わなかった。
一緒に生まれてきたけど、一緒に生きることさえできなかった。
でも、許してくれるだろ?
『なんで、俺が兄貴じゃなかったんだろう』
だけどさ、だからって兄貴になりたかったわけじゃないんだ。
俺は、俺に生まれてきて良かった。
兄貴の弟に生まれてきて、良かったよ……
『大丈夫だ、兄ちゃんがついてるからな。元気になったら一緒に遊ぼう。朝から晩まで、ずうっと一緒に遊ぼう』
『うん、約束だよ、兄ちゃん』
ずうっと、一緒に。
(……ああ…)
なぜ雨が降っているんだろう。
青空が見たい。あの幼い頃に夢見たような、どこまでも自由な大空が見たい。
どこまでも、飛べるような……
あの雲の向こうに、きっとあるのに。
右京はずっと見つめていた。鳥居より高い木の上から。
五月雨の松平軍の中で、真田幸村の首級が上がるのも。
幸村の幼い長男・大助と、秀吉の長男・秀頼を呑み込んで焼け落ちていく大坂城も。
じっと見つめていた。
頬を伝う雫は熱くて、だけど凍えてしまいそうに寒かった。
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