雲路の彼方 夢のあと①


 脇息にもたれて転寝うたたねをしていた。

 けれど、ミャア…という小さく愛らしい鳴き声でふと目が覚めた。


「……ノノイ」


 襖からこちらを覗くのは、ノノイ。白猫の二代目ノノイだ。

 つぶらな瞳は於稲をじっと見つめる。


「──右京?」


 何となく、分かった。


 白猫は無表情のまま、トットッと部屋に入ってきた。そして於稲を見上げる。

 於稲は淡く笑んだ。

「右京であろう? ……大坂に、おるのか?」

『……ええ』


 静寂だ。寂しいくらい、この夕方の奥殿は静かだった。


「幸村殿と、一緒におるのじゃな」

『ええ、そうよ。今、大坂城にいるわ』

「そうか」

『……また、敵になってしまったわね』

「わらわは、おぬしがそこにいてくれて嬉しいよ」


 幸村のそばを選んで。自分の居たいところにいて。それでいい。


『これだけ、伝えておこうと思って』

「右京」

『大好きよ、於稲』


 猫はそれだけ言って、また鳴いた。 

 ノノイがしゃべり出すことはもうなかった。





 十月の初め。

 沼田城主・信之のぶゆきの嫡男である信吉のぶよしは、夕方になって父に呼ばれた。弟の信政のぶまさも同様だ。二人は最近めっきり逞しくなったが、まだ二十には満たない。


「失礼します。──父上、お呼びでしょうか」


 小狭い部屋に通された二人は、上座につく父と、その横に控える母・小松に礼して腰を下ろした。

 信之は常のとおり、穏やかに笑んでいる。


「余計な前置きはやめておこう。──先日幕府から大坂追討令が下され、我が真田軍も従軍することになった。知っているな」

「はい、当然」


 きっちりと答えるは信吉である。信政は沼田から離れて暮らしていた期間が長かったせいか、今ひとつこういう場で積極的になれずにいた。

 父は頷いた。


「真田信吉、信政。お前たちの初陣だ」


 信吉は目を輝かす。


「──はい!」

「二人で頑張れよ」

「……はい?」

  

 ぱちくりさせると、父は腹立たしいほどにっこりと笑った。


「わたしは今から病を得る。ゆえに、大坂攻めには共に行けない。代わりに矢沢や木村をつけるから、お前たち二人で行け」


 矢沢頼康や木村土佐は、昌幸の代からの真田の重臣である。……いや、そんなことはどうでもいい。


「……失礼ですが、父上。この信吉には、父上がいたってお元気そうに見えます」


 というより、信吉は父が病に伏せっている姿など見たことがない。この男は見かけによらず異常なまでに丈夫な体の持ち主だ。


「そうか?」

「はい、間違いなく」 

「そうか。で、出発の日取りだが」


 さらりと無視された。


「父上、一体どういうおつもりです、本気で出陣しないとおっしゃるのですか」

「ああ」


 あくまでも淡白に是と答える。


「な……ッ、なぜです」

「病だからだ」

「何の」

「まぁ……風邪とか?」


 それは全く、明日も天気かなァ、と言うのと同じ響き。


「冗談も大概にして下さい。納得できるわけないでしょう、そんなので!」


 さすがに声を荒げた。

 腰を浮かす我が子を前に、信之も笑みをしまう。


「では言おうか。今、大坂城にはわたしの弟・幸村が入っている。お前たちの実の叔父だ。……わたしはあれと争うのを避けたい。ゆえに、行きたくない」


 信吉は絶句する。そして喉を震わせ、低い声で言った。


「父上、臆病風に吹かれましたか」

「何とでも言えばいい。とにかくお前が行け」


 信之の目が冷たくなる。 逆に信吉は熱くなった。


「父上……! それでは将軍家への忠節に背きます」

「仕方ない。病を得たのだから」

「臆病という?」


 なおも言われて、信吉は頭に血が上っていた。それまで黙って聞いていた於稲がキッと視線を投げる。


「信吉、口を慎みなさい、お父上に向かって」

「ですが」

 

 於稲は膝の上の白猫を撫でながら、今度は横目で夫を見やる。


「信之殿、殿も悪いのですよ、そんな言い方では誰も納得しないと申しましたのに」


 叱られた信之は憮然と口を引き結んだ。まるで子供だ。

 於稲は一つため息をつき、ゆっくりと視線を信吉に戻した。


「よく考えなさい。もともと幸村殿は、先の関ヶ原において死罪であった身。それを殿とわらわとで助命を願い出たのじゃ。つまりこの事態は、わらわたちが招いたこと。そこに将として殿が出て行っては、幕府の軍の士気も下がるというものであろう。だから今回はあえて出陣を控えようというのじゃ」


 そんなことは分かっている。だからこそ悔しい。

 なぜそれで父が大人しく引き下がらなければならないのか。


「父上が幸村殿に遠慮する必要などないでしょう……! 悪いのは幸村の殿であって、父上ではないはずです。せっかく実兄が頭を下げて命を助けてくれたというのに、恩を仇で返して」


 信之は子に真っ直ぐ返す。


「幸村には幸村の信念があってそうしたのだ」

「はっ、信念? そのためになら自分の兄が、自分の命を拾ってくれた兄がどうなっても良いと言うのですか。父上が周りの徳川勢からどのような目で見られることになるかなんて、容易に想像がつくでしょう」


 この怒りの矛先はあくまで幸村だ。なのに、目の前の父が自分を睨む。


「やめよ、あれを悪く言うことは許さない」

「なぜですか、父上」


 父は目を閉じて押し黙る。


「父上!」


 声の限りに怒鳴ると、ふっと父の口元が歪んだ。──微笑んだ。


「お前は……よく似ている」

「は」

「幸村に似ているよ」

「──この、わたしがですか」


 言う父は嬉しそうにさえ見えた。だが言われた方はちっとも嬉しくない。むしろ屈辱だ。なぜ敵に似ているなどと言われなくてはならないのか。

 文句を垂れようかと思ったが、父はにこにこと笑っていたので気がそれてしまい、信吉は難しい顔をして母に尋ねた。


「幸村殿というのは、どのようなかたですか」

「……信之殿とそっくりじゃ」


 少し首を傾けて答える。信吉は父譲りの甘い顔をますます崩した。

 くす、と信之は笑みをこぼした。


「信吉、お前がその目で確かめてくるといい。真田幸村という人物が、一体どのような男なのか」




「……と言われたんです」

「ハァ、信之らしいや」


 信吉が愚痴をぶちまけると、葵亥あおいは明るく笑っていた。

 時は流れて十二月。大坂追討は昨日、徳川氏と豊臣氏との間で和議が成立したことにより決着した。信吉はこれといって戦功をあげることもなく、重傷を負うこともなく、沼田軍の陣営に帰ってきた。


 仮屋の中は寒い。だが皆の顔は明るかった。これから、大坂城内にいた真田の身内、つまり先ほどまで敵だった人間と宴会を開く段取りになっているのだ。これがまた、信吉には釈然としない。

 今の今まで命の取り合いをしていた連中と、どう酒を飲み交わせというのか。

 しかし周りの老輩たちは、彼らの訪れを心待ちにしていた。城内に顔なじみがいたらしい。若い信吉にはその心境など分かるはずもなかった。


 ただ、信吉も密かに西軍勢の訪れを待っていた。何せうわさの、あの話題の、真田幸村がやってくるのだ。嫌でも期待と緊張が高まる。


「葵亥さん、葵亥さんから見て、幸村殿というのはどのようなかたですか」


 部屋の片隅で、葵亥と信吉は暇つぶしにおしゃべりに興じていた。周りはそれこそ、宴の準備で忙しそうであったが。


「そうだなぁ、俺もあんまり詳しくは知らねぇな。……ちょっと変な男、か?」

「……はぁ」

「ああ、でも、出会ったその日におねいを口説いたりしてな」

「は?」


「お前の母ちゃんだよ、母ちゃん。よく分かんねぇけど、なぁんか気があったみたいだぜ?」


 葵亥はニヤニヤして信吉を小突く。若い信吉は呆気に取られ、口をぽかんと開けた。


「……そそ、それは、母上と幸村殿との間に不義があったと……っ」


 何でも物事を深刻に捉える彼には衝撃過ぎたらしい。


「まさか、そんなこと言ってねぇだろ。まぁ、淡い初恋の思い出ってヤツ?」

「はぁ……」


 信吉はまだどこか納得していないような面持ちで答える。

 その時だった。戸口の方がにわかに賑やかになった。


「何でしょう?」

「西軍の奴らが来たんじゃないか」

「あっ、そうか」


 信吉は慌てて身の回りを片付け、弟の信政を呼んだ。


 葵亥の言の通り、陣所を訪ねてきたのは西軍の中の真田の家臣、そして真田幸村であった。


「ち」


 父上、と口にしてしまいそうだった。そして頭が混乱した。

 目の前に現れた幸村は、信之と瓜二つであった。少々小柄ではあったが。


「や、俺が幸村だ」


 壮年のその男は、不思議と人懐こい笑みをして腰を下ろす。

 信吉は緊張を隠せなかった。


「は、初めまして。信吉です。こっちは信政」

「初めましてじゃないよ。君が七つのときに会ったのが最後かな」


 信吉は目を丸くする。全く覚えていない。その顔を見てか、幸村は楽しそうに笑った。


「君は、兄貴──父君にそっくりだね。あの人と話している気になるよ」

「……父上には、あなたに似ていると言われましたが」

「そういう物言いは母君にそっくりだ」


 ははは、と高らかに笑う。信吉は思わずその笑顔を凝視していた。


「兄貴は元気?」

「はい。……いいえ!」


 ふいうちの質問につい真正直な答えが口をついてしまった。「素直」と幸村はいっそう大きく笑う。どういうわけか、この男には父の仮病はばればれらしい。

 よく笑う人だ。……自分はこんな風に笑う人間じゃない。


(……どこがわたしと似ているんですか、父上)


 全く不可解な。


「何にせよ、お互い無事でよかった」

「はい」


 幸村はやっと笑いをおさめ、だがにこやかに言った。


「すまないね、俺のせいで君や兄貴には迷惑をかけている」


 信吉は無言で答えたが、分かっているなら大人しくしていてくれと思う。


「だけど、譲れないから。幸村の名にかけて。九度山に帰る気はないし」

「はぁ、ずいぶん自分勝手ですね」

「血筋さ」


 思わず眉根を寄せた。その「血筋」にはもれなく自分や父も含まれているような……


「兄貴も相変わらずみたいだしね、君も付き合わされて大変だろ」

「………はぁ」


 どうも、さっきから「はぁ」ばかりを連発している気がする。


「あ、そうだ」


 幸村は何か思い出したように、唐突に懐から小袋を取り出した。小銭入れだろうか、と思ったが、それにしては中身がなさそうだ。失礼ながら。


「これさ、俺のお守りなんだけど。君に預けてもいいかい」

「は、なぜですか。お守り、なんでしょう?」


 信吉は言いつつ、差し出されたそれを受け取った。軽い。


「うん、君はこれから沼田に戻るんだろ。……それ、母君、えっと小松姫に渡してくれないか」

「母上に?」


 ついさっき葵亥に話を聞かされていたせいか、む、と邪な感が掠めた。


「そう。……たぶん、俺はもう会えないから」

「これ、中身は何ですか。本当にどこかの寺社のお守りですか?」

「いや? 俺が勝手にお守り代わりにしていただけだよ。……捨てられなくてね」


 幸村は目を細めた。


「開けてもいいですか」

「見たかったら、どうぞ?」


 何だか嫌な言い方だ。だが信吉は好奇心にあっさりと負け、口紐を緩めて中を覗いた。

 感想は。


「………これを、いつも持ってたんですか」

「真田幸村愛用の一品」

「女装趣味?」

「冗談だよ」


 本気で顔を歪めた信吉に、幸村は苦笑して手を振る。


「……ずっと昔にね、いつか直接渡すつもりで買ったんだ」

「母上にですか。……お二人はどういうご関係だったんですか?」


 信吉の目が鋭くなった。けれど、幸村は笑って答える。


「何もない。昔の話だよ」


 もう随分と、昔の話だ。

 



『母上、お土産です』

『は、土産? ……信吉、おぬし大坂に何をしに行ったのじゃ』

『戦をしにですよ。──幸村殿から、「忘れ物」だそうです』


 その小さな袋を受け取った於稲は、ただ目を見開いた。


『あの、おかたは……』


 あんな小さな縁の、あんな小さな言葉を。

 どうしてこんなに律儀に……

 胸が熱くなったが、涙はこぼれなかった。ただその想いを、受け取った。 

         

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