ふるさとの火④
関ヶ原合戦から一ヵ月後、大坂城。
信之はただ黙っていた。耳には聞き苦しいほどの野太い声が出たり入ったりを繰り返している。それをいちいち聞かなければならない家康は苦痛ではないのだろうか、とぼんやり考えたりもした。
今日は、晴れて天下人となった徳川家康と、彼に味方した東軍の諸大名との謁見の日。もっと言えば、かの合戦においての戦功の有無・大小を論じ、その見返りを検討する場である。大広間に座した武将たちは、自分を売り込もうと我先に家康に呼びかけている。
その中で、信之だけがじっと押し黙っていた。
「……殿、手前は関ヶ原にて殿の東側から片時も離れず……」
「……その時、わたくしの目の前に現れた武将こそ、かの有名な……」
「家康様、わたしは」
「殿」
正直に言って、うんざりであった。家康は脇息にもたれて頬杖をつく。「わたしは聖徳太子ではない」と怒鳴ったところで、夢中になってまくし立てている彼らに言葉が届くかどうかも疑わしい。
ため息をついて視線を遠くに投げると、顔を伏せたままの真田信之が目に付いた。
「……む」
どうしたのだろう、この騒ぎの中で、一人だけいやに大人しい。
「
思わず、こちらから声をかけた。その声は意外とよく通ったらしく、信之は顔を上げて応えた。
「……は、何でありましょう」
「どうしたのだ、そなたは何か、このわたしに話すべき戦功などはないのか」
あえて訊いたが、信之の戦功ならばすでに聞き知っていた。あの武田信玄でさえ落とせなかった戸石城を、ほんの数時間で攻め落としたと。
だが、信之は再び顔を伏せた。
「こたび、この信之は論功を辞退させて頂きます」
「なに……」
家康は顔をしかめた。だが思い至って破顔する。
「ああ、遠慮することはないのだぞ。先に約束したとおり、そなたの父・昌幸の領地は、全部そなたにくれてやる。だが、それとこの戦の戦功とは話が別ぞ。言えば、いくらでも所領を加増してやるわ」
「は。ありがたく存じます。しかしながら、わたしにはこの場で口にするような功はございません。お許しを」
「こらこら、馬鹿なことを申すな。上田合戦で唯一勝利したのはそなただろう、信之。──わたしはな、そりゃあ真田父子など口にもしたくないが、そなたは別だ。実の弟と戦ってまでの忠義、厚く信じるぞ。
控えて聞いていた秀忠は顔を真っ赤にした。彼はその失態から父・家康に厳しく叱責され、一時は廃嫡の話も出た。だが、それは何とか取り下げられ、今はぎりぎりで徳川の跡継ぎの座にしがみついている。
「……お許しを」
信之はそれだけを言って、また頭を下げた。家康はますます顔をしかめたが、また後で聞こうと思ってそれ以上言わなかった。とりあえず先に、やかましい他の武将たちを片付けなければならない。思わずため息が出た。
信之は唇を引き結んだまま、上目遣いに上座を見た。それから視線を家康の控えの武将の席に転がした。
目が合ったのは、義父・本多忠勝。
忠勝は真剣な面持ちで鷹揚に頷いた。頷いてくれた。
頷き返し、信之は目を閉じて深く頭を下げた。
「百万石だ」
しんと静まり返った中で、家康の低い声だけが響いた。ほんの数刻前までの騒ぎの余韻は欠片もない。
大広間に並ぶ武将の数は減っていた。そして彼らは皆ただ頭を下げていた。中にはかすかに肩を震わせる者もいる。彼らは全員、信濃・上野に所領を持つ武将たちだ。
場は、戦功の労いをはかる明るい空間から、息を殺すような緊張したものへと豹変した。
「お前たちのうち誰でもいい。百万石やるから、真田の首を取って来い!」
怒声は太い木の柱までを震わせる。
「全く情けない。ああ、ああ、かの者たちには徳川の顔に泥を塗られた。昌幸など殺しても殺し足りないわ。一度ならず二度までも……! さぁ、早くあの
答える者はない。彼らはとにかく家康を恐れていた。昌幸のことも恐れていた。下手な真似をすれば、己の身が危ないというもの。何より、家康の激しい威圧感に圧されて顔を上げることさえもできない。
家康はますます熱くなる。
「誰か、おらんかッ!」
「――わたしが参ります」
声はとても静かだった。平伏した男たちはそのまま息を呑んだ。
控えの武将も、秀忠も、そして家康も目を剥いた。
「……信之。そなたが、行くと申すか」
茫然とこぼれた声に、顔を上げた信之はにこりと笑う。
「はい。わたしが、かの者たちを討ち取りに参りましょう」
「なんと……」
父弟を、その手にかけると言うのか。
さすがの家康も胸を震わせた。そしてすぐさま墨と紙を用意させ、さらさらと筆を滑らせる。昌幸・幸村父子の首と引き換えに百万石を与えると書き記すと、朱印を押した。その朱肉の印が押された瞬間に、紙切れは公文書としての価値を持つ。
「……さ、受け取れ。これでそなたは、元の沼田二万七千石に加え、昌幸の遺領・上田三万八千石、そして百万石と、計百六万五千石の大大名だ。末永く徳川に仕えてくれようぞ」
「は、慎みまして、お受け賜ります」
信之は前に進み出ると、静かに朱印状の下賜を受けた。
刹那。
「家康様!」
信之は叫んで跪いた。両手をつき、頭を床にこすり付けて土下座したのである。
「な──」
「ひらに、ひらにお願い申し上げます。どうか、どうか…父と弟の一命をお許し下さい! どうか、命ばかりは」
家康は顔色を変える。
「何を馬鹿なことをぬかすか、そなたはたった今──」
信之は受け取ったばかりの朱印状を差し出した。
「どうか、この朱印とお引き換えに。百万石と引き換えに、あの者たちの、命ばかりは!」
「くっ……」
なるほど、これが狙いで名乗り出たのか。
だが。
「ならぬ。ならぬぞ、信之。いくらそなたの頼みでも、こればかりは聞き入れられん。こたびの上田合戦で、わたしは二度も真田と上田城には苦汁を呑まされたことになる。ああ、真田の顔など見たくもない。秀忠を関ケ原の合戦に遅参させたということは、秀忠にとってはもちろん、徳川家にとっても大きな汚点となろうぞ。真田は消し去らねばならん」
「……お頼み申し上げます……! わたしは所領も褒美も一切いりません。ひらに、あの者たちの助命をお願い申し上げます」
「ならぬ」
強固な態度を崩さない家康に、横からも声が上がった。
「上様、この忠勝からもお頼み申し上げます」
「なに、平八、お前……」
その時、若い近習の一人が飛び込んできた。
「上様、あの……」
「何だ、後にしろ!」
怒鳴られた少年が目を潤ませたの同時に、殺伐とした場には似つかわしくない、華やぐような声が響いた。
「上様、落ち着いてくださりませ」
広縁からの衣擦りの音。明るい色の小袖をまとって姿を現したのは、於稲だった。
「こ、小松姫様が、お目どおり願いたいと……」
今さら近習は告げる。
家康は突如として現れた於稲を凝視した。
「な、そなた……、なぜここに」
「はい、小松は、
「なんと」
ただただ驚く家康の前に、於稲はしずしずと進み出る。
「御前に失礼いたします。……上様、父上、お久しぶりでございます。小松にございます」
うむ、と忠勝はほのかに顔を明るくした。
「……稲」
信之は斜め後ろを振り返り、妻を見つめる。三ヶ月ぶりの再会であった。於稲は夫ににっこりと微笑みを返し、家康に向かった。
「上様、わらわからもお願い申し上げます。昌幸殿も幸村殿も、この小松の家族。どうぞ、命だけはお助け下さいませ」
家康は黙った。
信之は顔を上げ、まっすぐに彼を見つめる。
「家康様、どうしても真田の首をご所望とあらば、この信之の首をさし上げます。どうかこの命に引き換え、せめて我が父と幸村だけは」
信之の目は本気だ。その胸元には懐剣が覗いている。
「上様、お頼み申し上げます!」
忠勝も頭を下げた。
家康の目が泳ぐ。広間に並べられた諸大名たちは息を呑んで見守っている。
「……く…」
奥歯を噛む家康のもとに、見かねた
「……なに?」
──世論を軽んじりまするな。ここで信之が自害でもすれば、上様への世の風当たりは強くなりまする。今は何より、民の心を掴んでおくべき時です。
「ふむ……」
一理ある。
家康は信之を見た。自分を真っ直ぐに見つめてくる若者の目は、強い。
「――信之よ」
「は」
「わたしは以前そなたに誓ったな。そなたの身は何があろうと取り立てようと」
「は……そのように、お言葉と書を頂きました」
家康は頷いた。
「……そなたの忠義と、我が
信之は深く息を呑んだ。於稲の顔はたちまち光に溢れる。
ふぅと息をついた忠勝の横で、直政が小さく笑った。実は直政と信之は親友であった。
「父上!」
先ほどよりも頬を高潮させるは秀忠である。
「本気ですか、本気で昌幸と幸村を生かしておくと」
秀忠にとってすれば、真田は自分に恥をかかせた恨み重なる家である。だが、興奮する息子に、家康は冷ややかな一瞥をくれた。
「ほう、このわたしに意見するか、秀忠。もとはと言えば、お前が討ちそこなったからこのような事態になったのだぞ。文句があるなら一人で行って戦って、死んで来い」
「……ッ、ですが」
「負け犬があとから喚くな、恥を知れ!」
秀忠は無言で広間を飛び出していった。
これより後、秀忠はこれを根にもってか、いっさい信之に笑いかけることがなくなったという。さらに自分が将軍職につくと真田の家には辛く当るようになった。……それはまだ、ずいぶんと先の話になるが。
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