ふるさとの火③


 戸石といし城の砦のいくつかに黒煙が上がった。それが青空に吸い込まれていくのを、信之のぶゆきはこの複数の城砦の中心部・桝形ますがたと呼ばれる屋敷のやぐらから見ていた。


 結果から言えば、信之軍は戸石城を攻略したのだ。それも予想外の短時間で。


「………ふう」


 南を向くと、敗走する幸村軍が見えた。 数はたいして減っていない。


「……上田城に向かうか」


 幸村は、信之が攻め込むと同時にいともあっさりと引いた。それが何故かは信之には分からない。骨肉の情を捨て切れなかったとでも言うのか。


「よう」


 櫓に登ってきて声をかけたのは葵亥あおいだ。


「一応、全部の砦を見てきたぜ。幸村軍は全員退去したみたいだ。どこも沼田の兵がついてる」

「そうか、一段落着いたな」


 信之は強張っていた肩を下ろした。


「それでよ、今、沼田から天狗が来てて話してたんだけど――」

「なに、向こうで何かあったか」


 信之は顔色を変えたが、葵亥はいやいやと明るく笑った。


「おねいがさぁ、まったく、よくやるよ。何でも、『沼田にいる、上田軍についている者の親類縁者を、諸士の家族たちを慰めたいと触れさせて城へ招き入れた』って。んで『不安にかられていた家族たちは嬉々として城内へ入り、小松姫は女性や子供を終日饗応している』とよ」


 信之は目を丸くする。これでもかと言うほど、目玉が転げ落ちるかと言うほどに、とにかく見開いた。

 つまり、於稲は上田籠城衆の人質を一手に握ってしまったのである。


「………ぷ、は、ははははッ、あはははは」


 信之は腹を抱えて大笑した。目に涙を浮かばせ、息を切らしながら、とにかく笑った。

 葵亥もつられたように笑う。


「スゲェよなぁ。普通そんなことするか? ──そんで、この情報はもう上田の方にも入ってるみたいだな」


 だからこそ、幸村は引き下がった。沼田城に入った人質の身を案じて。


「くっ、ははは……は、だが、不思議だ。なぜこんなに都合よく? いくらなんでも情報が早すぎやしないか。上田攻めが決まったのは昨日のことだぞ」


 信之はまだ口元を緩ませながら言った。


「さぁ、俺にもよく分かんねぇけど……。ほらよ、その立役者からの手紙だ」

「於稲からか」


 信之は文を受け取り、すぐさま開いた。読む前から頬は緩みっぱなしだ。


 内容は、意訳するとほぼ次の通り。

『信之殿、そちらの状況はいかがでありましょうか? 沼田は変わりなく、子供たちも元気です。

 ところで今回、まことに勝手かとは思ったのですが、上田に家族のある領民を沼田城に招くことにしました。今、夫や息子を戦地に送り出した女たちの間でも、緊張が高まっておるようです。上田軍に家族をもつ者も多いですから。今後戦況が傾けば、領民同士が争いどのような行動を起こすかも知れませぬ。

 そこで、上田に縁のある女子供は沼田城にて保護しようと考えたのです。これで沼田軍に家族ある者も上田軍に家族ある者も、お互いに悪さできぬでしょう?

 ですから、沼田の民のことは何も心配しないで下さいませね。殿のお留守は、わらわが責任をもってお守りしておりますから。

 それでは、これにて。殿のご無事のご帰陣を、心よりお待ち申しております。』


 読み終えると、信之はまた笑い転げた。要するに、徳川の上田攻めのためではなく、あくまでも沼田の領民の安全を図った措置であったのだ。


 それが、思わぬところで勝負を決めてしまった。


「おい、何だよ、何て書いてあったんだ」


 本当に楽しそうに笑う信之から、葵亥は書を受け取って一読する。そして同じように吹き出した。


「何だそりゃ。おねい、何にも分かってなかったのかよ」

「はは、ああ、久しぶりに笑った。さすが於稲だ。惚れ直したよ」


 葵亥から返された文を大切そうに懐にしまい、信之は櫓を降りていく。


「おい、これからどうするんだ、上田城攻めに合流するのか」


 梯子を下る彼に、葵亥が上から覗き込んで訪ねた。


「……いや、呼ばれるまではこちらで大人しくしているさ。本軍から離れたのはわたしだけだしな、戸石を空けるわけにはいかない」


 言って櫓から離れると、信之はそばの屋敷に入った。

 中には数人の沼田兵がうろうろしていたが、「ここはもういい」と言って遠回しに下がらせた。

 一人きりになって、簡素な庭をじっと見つめる。


 よく覚えている。――自分はこの屋敷で育った。毎日ここで、この空気の中で生きていた。

 悔しいくらい、何も変わっていない。なのに、なぜ。人は変わってしまうのだろう。


 庭の端に、赤紫色の小さな花の集まりが枝を垂らしている。

 萩だ。


『ほら、きれいだろう?』


 幼い声が聞こえる。ぱたぱたと、まだあどけない足音が走る。

 幻が、庭先から萩の花を抱えて通り過ぎる。

 信之はそのまま大広間に上がり、一人、腰を下ろした。

 奥のその部屋は、外の眩しいまでの晴天が嘘のように薄暗い。先刻までの戦の喧騒が幻であったのではないかと思えてくるほどの、静けさ。

 その静寂に、声が響く。


『源次郎! 源次郎、ほら。萩の花が咲いてたんだ、きれいだろ』

『兄ちゃん……兄ちゃん、熱い、よ。苦しいよ……』

『しっかりしろ、源次郎。大丈夫だ、兄ちゃんがついてるからな』

『うん……』

『な、元気になったら一緒に遊ぼう。父上に見つかったって知るもんか。朝から晩まで、ずうっと一緒に遊ぼう。裏山にある真っ暗な洞窟で探検したり、森の奥のでっかい泉で水浴びしたり。二人で行ったら絶対楽しいから。だから、早く元気になれ』

『うん、約束だよ、兄ちゃん』


 信之は床に拳を打ちつけた。ガンッというその音のこだまさえ、懐かしい声に変わる。


『約束だよ……』


 ぽつ。

 床についた拳に落ちたのは一滴だけ。けれど、その雫は熱かった。あの日握った弟の手と同じくらいに、熱かった。

 間違っていない。自分は間違ってなどいない。


「稲……」


 何より、その文の存在自体に救われた。

 孤独は辛い。一人は寂しい。

 一人ぼっちは、痛いよ……

 


 その後、信之は、上田城攻めにまさかの苦心を強いられた秀忠ひでただから参陣せよという書状を受けたが、これに応えなかった。昌幸・幸村の戦法はまさに前回の戦の再現であり、その場に信之がいれば戦況が変わったであろうことは明白であった。

 数日後、秀忠は上田城を落とせぬまま、諦めて西へと急いだ。

 だが結局、関ヶ原の合戦においての父の勝利を木曽谷きそだにで聞くこととなる。秀忠軍は徳川の命運をかけた決戦に間に合わなかったのである。これには天下人となった家康も激怒し、面会さえも許さなかった。


 かくして、天下は徳川へと渡った。石田三成、大谷吉継を始め、西軍の武将は次々に討ち取られていった。

 局地戦では確かに勝者であった昌幸・幸村父子も、主力戦での西軍の敗北によって敗者へと転落した。

 ──二人には死罪が言い渡された。

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