ふるさとの火②



  ポォーン…   

         …ポォー…ン…


 朝霧に、太鼓の音が遠く響く。


「殿、兵の隊列が整いましてございます」

「……よし」


 信之のぶゆき伊勢いせ山の麓に布いた陣の中にいた。目の前は戸石といし城である。だが、ここにいるのは沼田軍だけだ。



 秀忠が上田城の攻撃を決してから、一夜明けた。若い彼は、誰よりも信之を責めた。


『信之! お前は分かっていたんだろう。ああ、どうしてもっと早く……!』


 いくらなじられても怒鳴られても、信之は深く平伏して、何も言い返せなかった。


『くそっ、こんな屈辱は初めてだ。――真田信之、お前は一人で戸石城を落とせ』


 信之は頭を伏せたまま目を見開く。


『本当に徳川に仕える気があるならできるだろう、なァ? その間にわたしたちは上田城を攻め落とす。……ああ、気が向いたら援軍を送ってやってもいい』

『は。承知つかまつりました』


 ――仕方のないことなのだ。こうなることは覚悟していた。今や徳川軍の忠実な一武将として忠を尽くすしか、生き残る道はない。すべては、真田の家のため。


(……そう、全ては真田と、真田の民のために)


 信之は床机から腰を上げ、軍配団扇を手にする。


葵亥あおい、いるか」

「……いる」


 ややあって、葵亥は木の陰から下りて来た。あまりに沈んだその表情に、信之は思わず苦笑した。


「なんて顔をしているのだ、葵亥。まったくお前は隠し事が下手だな」

「うるせぇよ」


 笑われても、怒鳴る気にさえなれない。


「それで、どうであった。確認できたのだろう」


 この戸石城を守っている武将は、誰か。


「……できた」

「誰であった」

「……真田、幸村ゆきむらだった」

「そうか」


 微笑んで、信之はそれだけ言った。別に、笑いたくて微笑んでいるのではない。何か表情を作らないと、底なしに暗くなってしまうのが分かっているからだ。大将がそんな顔をしていては戦に勝てないと分かっているからだ。

 彼はいつだって、そうやって笑っていた。


 信之は陣を出ると、片膝をつく家老たちの前に立ち、告げる。


「これより戸石城を攻め込む。狙うは、真田昌幸が次男・幸村だ。全隊、西側から回り込み、神川かんがわへ追い立てろ」

「ははっ」


 信之は自らの馬に跨った。

 たとえ相手が弟だろうと。懐かしき戸石城だろうと。


「沼田真田軍、全隊、出陣!」


 一斉に真田六文銭の旗が上がり、怒号が山を震わせた。   


  …ただ人は情あれ

   夢の夢の、夢の。





 ―――時は、数日さかのぼる。


「やぁっ、やぁっ」


 カンカンと、竹刀が幹を打つ乾いた音が響く。青空の下、幼い仙千代せんちよは、沼田城の誰より元気に武術の稽古に励んでいた。


 広縁からそれを眺める於稲の膝では、四歳のまさがすやすやと眠っている。隣にちょこんと正座しているのはまんだ。


「ねぇ、お母様。仙千代も、そのうちお父様みたいな武士になるの?」

「うん? そうじゃな……なってくれたら嬉しいのう」

「じゃあ、まんは、いつかお母様みたいになれる?」


 目を輝かす娘に、於稲は虚を突かれた。


「わらわみたいに? それは具体的にどういうのじゃ、まん」

「えっとね、お母様みたいに、強いの。薙刀なぎなた振り回して、鉢巻するの」


 言われて、納得する。はは、と乾いた笑いももれた。


「薙刀は練習しないと持てぬぞ。あれは意外と重いからのう」

「そうなの? じゃ、いっぱい練習したら使えるようになれる?」

「うむ、なれるなれる。今の世の中、女もいざという時のために戦えるようにならねばな」


 可愛い娘に、自分のようになりたいと言われて嬉しくない母親はいない。於稲は笑ってまんの頭を撫でた。


「そろそろ、まんにも薙刀か何かの稽古をつけてやろう」

「わぁ、ほんとう?」


 まんは手を合わせて喜ぶ。


「やったぁ。そうしたら、まんも、お母様みたいになれるよね」

「ああ……でも、なぜそんなに、わらわのようになりたいのじゃ? まんは」


 その喜びようがあんまり嬉しそうだったので、於稲は小首を傾げた。すると、幼い愛娘はうふふと花のように笑う。


「だってお母様、素敵なんだもの。強くて、優しくて、きれい」

「ははは、ありがとう」

「それにね、それにね」


 まんは、いっそう頬をほころばせて、少しはにかんだように言った。


「お母様みたいになったら、お父様みたいな人と結婚できるんでしょう?」


 夢に恋する娘は、愛らしく頬を染めている。


「まんは、いつかお父様みたいな素敵な人と結婚するの。それで、お母様みたいな幸せなお姫様になるの」

「……まんは、お父上のことが好き?」

「うんっ、大好き。まんは、お父様のこともお母様のことも、大好きよ」


 於稲は目を細めて微笑んだ。そしてあどけない娘を抱きしめる。


「? ……うふふ、お母様、甘えんぼ」


 何も知らない娘は無邪気に笑う。


「ねぇ、お母様。お父様、いつ帰ってくるの?」

「すぐ……もうすぐ帰って来るよ、きっと」

「そっかぁ。そうしたら、また遊んでもらおうっと。まんね、ちゃんと毎日お琴の練習してるんだよ。聞いてもらわなくちゃ」

「うむ、絶対に、聞いてもらわなくてはな」

「お父様が帰ってきたら、葵亥も、右京も、みんな帰ってくるよね。楽しみだな、早く帰ってきてくれないかなぁ」


 於稲は泣きたくなった。祈りで胸が一杯になった。


(信之殿)


 こんなにも、あなたを待っている子がいるから。この子を泣かせたら許さないから。

 だから。


(殿……)


 どうか、ご無事で。


「みんなもね、つまらないと思うの。だから、早く帰ってきてほしいなぁ……」

「みんな?」


 於稲は身体を離して娘の顔を覗き込んだ。


「うん、みんな。茜子あかねに聞いたの、どうしてお父様いないのって。そうしたらね、戦で、どこのおうちのお父様もいないんだよって。じゃあ、沼田の子供はみんな寂しいねって言ってたの」

「……ふむ?」

「だからね、まんは、じゃあみんなで遊ぼ、って言ったんだよ。だけど茜子がダメーって」


 ぷう、とまんは頬を膨らます。膨らまし過ぎて唇から空気が抜けた瞬間に、於稲はひらめいた。


「──ふ、ふっふっふ、いいことを思いついたぞ」

「……なぁに、お母様、気持ち悪い」


 突然不気味に笑い出した母親に、まんはコワイを通り越して心配になった。


「誰か、誰かおらぬか。茜子を呼べ!」


 於稲は高らかに呼んだ。そのように母親が声を上げても、膝で眠りこくるまさは身じろぎもせず、幸せそうに夢を見ていた。

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