ふるさとの火①
果たして徳川家康は上杉攻めを中止し、軍を二手に分けて西に向けた。
総大将の家康は東海道を西上する。そして嫡子の
八月二四日。秀忠は三万八千という大軍を率い、宇都宮を進発した。従う主な武将は軍艦に
軍団は九月一日に
徳川に反旗を翻した
「見過ごすわけにはいかないな」
小諸城内の大広間には、秀忠を上座に据え、武将たちが並ぶ。
秀忠は若い。まだ二十歳と少しだ。脇息にもたれながらの声には、少年から青年への過渡期特有の艶があった。
答えるは老将・本多正信である。
「は。ですが、ここで無闇に戦を仕掛けるのは得策ではありませぬな。帰順を促しましょう」
「昌幸という男は素直に従うか?」
若い視線は信之に尋ねた。
「わたしの知る限りでは、父は大人しく城を明け渡すような男ではありません」
信之はその目に全く正直に答えた。
秀忠は「そうか」と神妙な顔をして頷いたが、横から正信が笑い飛ばす。
「昌幸殿も我らに歯向かうほど愚かではないでしょう。こちらの兵は三万と八千、上田におるのはせいぜい二千ほど。かなうはずがない。誰がおよそ二十倍もの大軍を相手にするというのか」
「我が父は、恐ろしく頭の切れる馬鹿者でありますから」
信之は無表情だ。
「兵と時間を失うことを避けるためには、上田にはかまわずに西へ向かうべきです」
「真田殿」
正信は大げさに困った顔をする。だが口元は笑っていた。
「殿は実は、父や弟と戦いたくないのだろう? だからそうやって、我らを上田から引き離そうというのだ」
「真実を申しているのです」
「しかしなぁ、ここまできて肉親の情などにかまっている場合ではないだろうよ。それに上田城には兵糧と金がある。ここで食物と軍資金を手に入れられたらば、後が楽だ。やはり帰順を勧告するべきでしょう」
最後の言葉は秀忠に向けられた。
「ああ、やはり、無血のうちに降伏させるべきだな。──信之よ、敵を後に残していくのは武士として潔くないだろう。わたしは降伏勧告を出そうと思うが、どうだ」
「……若君がそうお考えであられるなら、従うのみです」
信之は頭を下げた。
おう、と秀忠はホッとしたように頷き、正信は勝利を得たように薄く笑っていた。
秀忠は背筋を伸ばし、まだ若すぎる素直な笑みで命じる。
「では信之、お前にはその使者として上田まで行って来て欲しい。息子のお前の言うことであれば、昌幸も無駄な意地は張らないだろう」
「は、承知いたしました」
さらに深く伏せ、そして内心で舌打ちする。
即日、信之は上田に向かった。
西に向かう馬上からの眺めはただ懐かしい。信之は目を細めて、流れる景色に見入った。
秋晴れの青を映す、
何も変わってはいない。変わったのは、人だけだ。昔、父弟とともに徳川軍を蹴散らしたこの地で、自分は徳川軍として今度は彼らと敵対している。
「……
ともに上田に馬を走らせる義弟、本多忠政が馬を横につけて、心配したように話しかける。忠政はきりりとした目元が
信之は笑った。
「いや、懐かしいなと思ってね」
「……そういえば義兄上は、若き頃このあたりにお住まいだったんでしたね」
「もっと山の方に長く暮らしていたけどな」
「山?」
「
信之は北を仰いだ。忠政もそれにしたがい、山城を望む。
「あれは……」
北山に、紅葉がぽつぽつと剥がれている部分が見える。それは砦であった。それも一つ二つではない、五つ……いや六つ? とにかく広く、城砦が連なって山々を結んでいる。
「戸石と言えば……あの、武田信玄公でも落とせなかったという」
「難攻不落の要塞だな」
以前に徳川氏と合戦したとき、若き信之は実は戸石城に入っていた。そして徳川軍が父の策略に乗って入り込んできた瞬間、父の上田軍と信之の戸石軍とで挟み撃ちにし、一気に蹴散らしたのだ。
「懐かしい」
目を閉じれば、あの時の喧騒が耳に甦るようだ。
(……さて今は、誰があそこに入っているのやら)
父は間違いなく上田城にいるはず。だが戸石を空けておくわけにはいかないだろう。
――思い当たる人物は、いる。
「義兄上、そろそろ上田城下に着きますよ」
言われて、信之も目線を西に戻す。
「ああ、確か、向こうの使者は国分寺にて待つとあったな」
「はい」
忠政は馬を後方に下げた。地理に詳しいのは信之であるから、あとはただ彼についていけばよい。
若き忠政は、後ろから無言で義理の兄たる男を見つめる。
別に不審だと思っているわけではない。裏切るかと疑っているわけでもない。だが、この義兄は不思議な男だ、と思う。実姉の夫と言っても、初めて会ったのはつい先日、宇都宮の陣でのことであった。
その時、父・本多忠勝の後ろに控えていた忠政は、聞いていた。
『信之殿。殿の思う「兵法」とは、いかがなるものか』
前置きなく、忠勝が問うた。忠政や周りの武将たちはぎょっとして身を硬くする。
だが信之は考え込むこともなく、淡く笑ってすぐに答えた。
『兵法とは家臣と感情を共にすること、軍法とは礼儀を守ることです』
驚いた。自分の視界の狭さを知った。忠勝はうむ、と頷き、彼には珍しく微笑んだ。
まったく、不思議な男だ。
城下町に入ると、信之と忠政、そして護衛の兵たちは馬を下りて歩を進めた。町は普段と全く変わっていない。子供たちは無邪気に遊びまわり、女たちは呑気に買い物に精を出している。
戦が近いとわかっていないのだろうか。それとも。
「昌幸殿は降伏するつもりのようですね。まったく警戒されていない」
忠政は頬を緩めて口にする。だが信之は安堵などできなかった。
父は降伏などしない。それは確信を持って言える。
「……若様」
雑踏の中で、ポツリと声が落ちた。信之が見やると、こちらを見つめる一人の若い坊主。やはり天狗であった。
「
「え?」
立ち止まった信之に、忠政も慌てて馬を引く。
「は、お迎えに上がりました。お父上様が、国分寺にてお待ちです」
「父上が?」
信之は顔をしかめた。真逆に、忠政は喜色を浮かべる。
「わざわざ昌幸殿ご本人がおいでになるとは。義兄上、良いお返事が聞けそうですね」
「どうぞ、こちらへ」
言うと、根津は国分寺に向かって一行を案内する。その少し丸まった背に、信之は無感動な声で言った。
「根津よ、わたしはもう『若様』ではない。間違えるな」
「……はい」
根津は人知れず唇を噛んだ。武勇に富み懐が深いその人徳から、信之は若い草天狗衆からは厚く慕われていた。彼が当主となり、その片腕として働く日を夢見て修行してきた天狗は多かったのだ。
根津にしたがって国分寺の境内に上がると、さすがの信之も目を丸くした。
「父上」
「おう、信之よ。ふン、元気そうじゃの」
昌幸は頭を剃っていた。驚いたが、信之は目元を険しくした。
「いつの間に入道されたのです」
「いやいや、出家したわけではないがな。これは、そう、家康殿への恭順の意を示すためじゃ」
信じられるはずがない。だが、忠政は素直に声を明るくした。
「それでは、昌幸殿!」
「ああ、上田は降伏いたす」
昌幸はにこやかに頷いた。人当たりの良い笑みだ。人当たりの良い笑みを装った笑みだ。信之には後者にしか見えない。
「ご冗談でしょう」
思わず口にすると、忠政が顔をしかめた。
「失礼ですよ、義兄上。昌幸殿はこのようにはっきりと、抵抗の意志がないと言っておられますのに」
「む? 信之が兄、とは……本多か徳川の?」
昌幸に言われて、忠政は背筋を伸ばす。
「あ、はい、申し遅れました。手前は本多忠勝が子、忠政です」
「ほお……小松とは、あまり似てないのお」
「そうでしょうか」
忠政は面立ちが長姉と似ていることは自分でも認めるほどだったので、少し首を傾げた。
くつくつと笑う父に、信之は厳しく問う。
「本気で徳川に従うと仰せられますか。では、上田城を明け渡すと」
「おうともよ」
昌幸は頷き、目を細めた。
「ただし、まだ若い奴らが血気に逸りそうでなぁ。奴らをなだめんことには、徳川の軍にどのような真似をするかわからん。城内も片付けんとならぬし。どうか、一晩待って頂けぬか」
「分かりました」
「忠政」
即答した義弟を、信之が叱りつける。
「父上、この信之にはどうも信じられません。何をお考えか」
「なんじゃ、以前にも言っただろう。わしは別段、豊臣に恩義を感じているわけではないと。このままでは本当にお前と戦うことになってしまうから、ここは引こうと申しておるのじゃ」
昌幸は心底寂しそうに言って見せる。
「ですが、徳川に恩を感じているわけではないとも仰られました」
「子の命には代えられん。何より、兵の数が違いすぎる。負けると分かっていてつまらん意地を張るほど、わしは馬鹿ではないぞ」
「そうですよ、義兄上。さぁ、早く小諸に戻って若君に報告いたしましょう」
信之は口を真一文字に引き結んで父を睨んだ。
何より悔しいのは、自分には判断を下す権限が欠片もないということだ。
「……分かりました。では、そのように秀忠様にお伝えします。明日、小諸から上田までの中間地点・染谷まで進軍しますから、明け渡しの準備ができしだいお知らせ下さい」
「おう、昼前には準備できよう」
(戦の準備が、でしょう?)
言ったところで、シラを切られるだけだ。
ともかく、信之・忠政は急ぎ小諸城に戻り、事の次第を秀忠に復命した。
「そうか、聞き入れたか。よし」
あまりにも素直に安堵する秀忠に、信之はいっそ憤りさえ覚える。
「いいえ、決して安心はできません、若君。真田昌幸という男は、勝つためなら何でもします。頭を丸めるくらいなんでもありませんよ。今回の返答が虚言でないという証拠は無いのです」
「だから言っただろうに、真田殿」
正信が笑って顔を歪める。
「しょせん兵力が違いすぎるのだ。殿はいくらか、父君を買いかぶり過ぎておるのではないか」
「過小評価して油断するよりましです」
「そう言って、まさか我が軍の撹乱を狙っているのではなかろうな」
正信の目が真剣みをおびる。信之は拳を震わせた。
「心外です」
「まぁ落ち着け、二人とも」
秀忠が呆れたように脇息にひじを立て、頬杖をついた。
「信之、お前の言いたいことも分かるが、昌幸といえど、やはりこの大軍に挑むなどという無謀な真似はしないだろう。幸い、父上が江戸を発ったという知らせもまだない。一泊くらい休んでも大丈夫だ」
「は……では明朝、わたしが先駆けて、父のもとに確認を取りに参ります」
「おう、頼んだ。――なぁ、信之。お前も、父や弟と戦わずに済みそうで良かったな。これで心置きなく西に向かえるというものだ」
秀忠は自分のことのように嬉しそうに言った。
「……温かきお言葉。ありがとう存じます」
この時、信之は父の言が時間稼ぎであるだろうということは分かっていた。だがまさか、家康はとうに江戸を発っていて、それを秀忠に伝える使者は昌幸の放った天狗に足止めされていたなど、誰が予想しえただろうか。
翌日。信之は昼前に、軍勢より先に染谷に向かった。そこにはすでに、根津が昌幸からの文を手に待っていた。
『実は篭城の支度のために時間を頂いた次第。ようやっと兵糧の追加も運び終え、戦の準備も整いました。さて、一合戦つかまつろうと存ずる』
これを受けた秀忠は怒りで目がくらむ思いだった。
「よくも謀った。もはや終わりだ、上田など踏み潰せ!」
こうして、この上田で二度目の、徳川氏と真田氏の戦の火蓋が切って落とされた。
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