信ずる道へ⑦

       

       

 数刻後、夜雨がだんだんと強くなる中、於稲おいねは本当に子供たちをつれて正覚寺を訪ねた。もちろんしっかりと護衛をつけて、である。一人は葵亥あおい、そしてもう一人は右京うきょうであった。


 右京は静かに微笑んでいた。昌幸まさゆき幸村ゆきむらが子供たちと戯れている間、何も言わずにずっと。葵亥は戸口にもたれかかったまま、腕を組んで瞑目している。


「じゃあね、お祖父様じいさま。また遊びにいらしてね」


 まんが屈託のない笑顔で手を振ると、昌幸もいつになく甘い顔で答える。


「ああ、さらば、さらばじゃ。体に気ぃつけよ」


 次女のまさは眠たげに船をこぎ、三男の隼人はやとは一足先に夢を見ている。


「では。失礼しました、祖父上様。お元気で」


 子供のくせに妙にきっちりと腰を折るのは仙千代せんちよである。


「おうおう。さすがは信之の息子じゃわ」

「仙千代の方がずっと可愛げがありますよ」


 幸村が笑って甥の頭を撫でる。仙千代はどこがむず痒いようにはにかんだ。

 戸を出て、於稲も頭を下げた。


「城を離れれば、わらわもただの女。……お義父上、幸村殿、どうかご武運を」


 昌幸は真顔で頷いた。


「戦の世は無情じゃ、何が起きても恨むまいよ」


 互いに。


「……はい。では、わらわたちは、これにて失礼しまする。明日にはお発ちになるのでしょう?」

「ああ、夜明けには」

「なれば、守りの者をお付けします」


 疑念が昌幸の頬をかすめる。守りの兵士などと言いながら、徳川の監視兵をつけるつもりか、と。

 だが意外にも、於稲は傍らに立つ人間に命じた。


「右京。──昌幸殿たちを上田までお送りして来てくれ」


 大人たちは目を丸くした。中でも右京は、まつげを震わせて於稲を凝視した。

 バッと傘が開く。それを持つのは、無言で目を伏せる葵亥。

 於稲は静かに微笑んだ。

 

「そうしたらそのまま、沼田には帰って来なくて良い」


 右京は声も出せずに首を振る。


「行け、右京。わらわのことは心配するな。……では、失礼します」


 片手で隼人を抱き、もう一方の手でまさをの手を引く於稲に、傘の影がかかる。葵亥が無表情で彼女に差していた。己は濡れながら。

 まんと仙千代は仲良く相合傘を差して歩く。


 寺の門外には、小松姫の帰りを待つ城の兵士たちが数人待機しているのが見えた。


「……待って!」


 子供たちをつれて門に向かう於稲を、右京はやっと動いた足で追いかける。昌幸と幸村は事情がよくつかめずに、呆気に取られながらその場に留まった。


 彼らにも外の兵にも声が届かないところまで来て、於稲は足を止めた。右京はすぐに追いついた。


「まん、仙千代。まさを連れて、先に行っていてくれぬか」

「はい」


 素直に答えて、半分夢の世界にいるまさの手を取ったのは仙千代であった。まんは傘を持っていない右京を目にして眉を寄せた。


「お母様、右京が、濡れちゃう」

「お行き。わらわもすぐに行くから。濡れぬようにな」

「わかりました。姉上、行こう」


 仙千代に引っ張られて、まんは右京に気を取られながらもその場を離れる。


 於稲は隼人を両腕で抱えなおし、右京に向き直った。葵亥は於稲に傘を差しながら、背を向けたままだ。

 雨に打たれながら、右京は胸がつかえたように喘いだ。


「……っ、於稲、わたくしは」

「もういいんじゃ、右京。素直になれ。おぬしが本当に傍にいたいのは、わらわではないであろう」


 寺の戸口から、昌幸の姿が消えた。だが、幸村はまだこちらを見守っている。


「でも、わたくしは……っ」


 右京は思いつめたように叫ぶ。その頬を濡らすのは雨なのか涙なのか、於稲には暗すぎて分からない。もしかしたら右京にすら分かっていないのかも知れない。


「……のう、右京。わらわは幼い頃から、それこそ毎日のように、本多のため徳川のため、立派な武家の女になるようにと言い聞かされて育ってきたよ」


 於稲は唯一無二の親友に向かって、ゆっくりと語る。


「武家の女というのはのう、実家のことを第一に考えねばならぬ。嫁いだ先の家よりもな。だから武家の娘には恋などご法度じゃ。わらわはずっと、自分は一生恋などするものかと思っておった。けれど……」


 信之に出会ってしまった。彼のそばにいることが許された。

 そうしたらもう、離れられなくなってしまった。

 於稲はたおやかに微笑んだ。


「どうやら女というのは、いけないと分かっていながら恋をする生き物らしい。だから、右京。もう気持ちを我慢するのはやめよ。目は醒めたのであろう?」

「でも。わたくしは草天狗、真田のくノ一……」


 忍びに恋など。

 右京は感情を丸出しにして、幼く見えるほどに眉を下げて肩を揺らしていた。泣いているのは明らかだった。


「くノ一というのはな、『女』と書くのじゃ、右京。そして女は、恋をしてしまったらもうどうしようもない。それ以外は選べなくなってしまう」

「でも」

「いい加減にしろよ」


 低い声が雨音を切り裂いた。葵亥は右京を睨みつけていた。


「でもでもって、いつまでも。そうやってもっともらしい理由つけて、お前はただ逃げてるだけじゃねえか。忍びであることを逃げ道にして、自分の気持ちから逃げてるだけじゃねぇのかよ! 甘えんな!」


 落ちるしずくが震えた。

 右京は胸を貫かれたように茫然と立ち尽くし、それからまた顔を歪めた。

「……っ、ごめんなさい。わたくし……」

「うむ」


 於稲は聖母のように笑む。だが、右京に歩み寄ったりはしない。もう、しない。


「わたくし、信仍様……幸村様と、ともに行くわ」

「うむ。それが良い」


 最後の鎖が、落ちた。右京は自由になった。何よりも、その心が。翼を得たように。

 右京は涙を流しながら自分の手のひらを見つめる。最初から、手枷などなかったのに。ただ触れるのが怖かっただけだ。臆病だっただけだ。

 そうして、右京はふと、雨が止んだと思った。手のひらを打つ雫がない。

 その代わりに、声が降ってきた。


「風邪をひくよ、右京」


 後ろから、幸村が傘を差してくれていた。


「幸村様」

「いつまで濡れてるつもりだよ、まったく」


 幼子を叱るように顔をしかめる。

 ごめんなさい、と小声で言って、右京は涙を拭った。


「ねぇ、幸村様。わたくし、ついて行ってもよろしい?」

「お? ああ、もちろん。お前がいてくれると、俺も心強いな」


 幸村は表裏のない笑顔で言う。右京も笑って、そしてもう口を開かなかった。


「何だよ、もう挨拶は済んだのか?」


 右京はやはり無言で頷いた。幸村はそうか、と言うと、その視線をゆっくりと於稲に向けた。


義姉ねえさん。……どうか、叶うなら。あなたから兄貴を説得してもらえないだろうか、豊臣につくようにと。あなたさえそう言ってくれたら、兄貴だってきっと──」

「……嫌じゃ」

「嫌?」


 於稲はほのかに微笑んで頷く。


「あのかたが選んだ道を、わらわには邪魔できぬもの」

「……そうですか。──じゃあ義姉さん、……いや」


 幸村は呼吸しなおして、その名を呼んだ。


「稲姫」

「……何であろう?」


 於稲はあえて、淡く笑んで見据え返した。


「君も、俺たちと一緒に来ないか」

「なっ──」


 ザッと血が逆流したようであった。


「何言ってんだ、てめぇ」


 葵亥がギッと激しく睨みつける。だが幸村は彼を一瞥しただけで、また於稲に向かう。瞳は真剣そのもの。


「徳川が負ければ、君だってきっとただじゃすまない。今ならまだ間に合うから」

「徳川は負けぬ」  

「いいや、勝つのは豊臣だ」


 双方、これだけは譲れなかった。そして、ここでその勝敗を言い合ったところで決着がつかないことも分かりきっている。

 於稲は刺すように義弟に返す。


「どちらが勝とうが、一緒には行けぬ。わらわは徳川の娘、今は信之殿から城の留守を任されておる小松じゃ」

「城を離れればただの女だと、さっき自分で言っただろ。……初めて会った時のことを覚えている?」

「思い出話をしている暇はないであろう」


 即座に話を切り捨てる。だが、幸村は引かなかった。


「あの日の見合い、本当なら俺が行くはずだったんだ。兄貴でなく」


 於稲は我が耳を疑う。雨の音が少し強くなったようだった。


「嘘じゃない。あの頃、俺はもう大坂にいて、他の国を自由に歩きまわれるような身分じゃなかった。だけどあの日に俺が浜松でふらふらしていられたのは、家康に呼びつけられたからだよ。浜松城に来いって。だけど……」


 幸村の顔が苦々しく歪む。


『シゲ、お前に家康殿の側は合わないだろう』

『なに、ただ嫌味を言われてくるだけだ』

『久しぶりに大坂を出られたのだし、お前は城下町でのんびり遊んでいろ』


 忘れられないのは、幸村が於稲と再会した時の信之の顔。

 少し照れたように笑って、「妻だ」。

 絶望の味など初めて知った。

 武門において、女の不倫は死罪だ。その相手も死罪。人妻への恋心は罪なのだ。

 だからもう、胸の想いなど笑って押し殺すしかなかった。諦めるしかなかった。伝えることさえ許されなかった……!


「……わかってるんだ。兄貴を責めたって仕方ない。君が幸せならそれで良いんだって。俺にだって妻がいる。もう子供もいる。今さらどうしたいわけじゃない、ただ」


 どうしても考えてしまう。


 もしもあの時、と。


 あの時。あの初めて出会った浜松の市で、家のことも国のことも考えず気持ちを口にしていたら。せめて名前だけでも伝えていたら。もしかしたら何か変わっていたかもしれない。未来は違っていたかもしれない。

 これは後悔だ。


「ただ、……」


 幸村は言葉が見つからずに顔を伏せる。そんな彼の肩を、右京はただ見つめていた。


 雨は降り続ける。


 知っている。兄だって本当に於稲のことを愛しんでいることを。あの日に自分が何を言ったとしても、於稲が応えてくれることはなかったことを。

 そして幸村は、引くことを選んだのだ。本気で好きだったのなら、なりふりかまわずぶつかれば良かったのに、自ら諦めることを選んだ。誰でもなく、この自分が。

 兄を責めるなど、お門違いもいいところ。


(……ただ)


 ただ、自分は悔しいだけなのかもしれない。


 幸村は俯いたまま口を開いた。


「兄貴は、君と結婚して徳川に残った。真田を離れて、俺に『ゆき』の字をくれた。──どうしてなんだろう。俺が欲しいものは持っていって、いらないって言うものは押し付けていく。どうして兄貴はあんなに勝手で、だけど」


 俺はあの人を嫌いになれないんだろう。

 悔しい。


「……幸村殿は、本当は信之殿の兄上なのであろう?」

「聞いたのか」


 幸村は思わず顔を上げた。

 於稲は少し申し訳ないような顔をして頷く。


「昔はどうであれ、今はそのようにお元気じゃ。自分が真田を継ぎたいと思われなかったのか」

「……思わなかったよ、一度も。俺は、俺より兄貴の方が当主にふさわしいって本気で思ってる。今も思ってる」


 幸村は遠い目をした。


「母上はともかく、親父や周りは俺のことをただの『影』、道具としてしか見てなかったんだ。俺はそれでいいんだと思ってた。生まれたその日に殺されなくて良かったと、そう思わなくちゃいけないって。……けど、兄貴は違った。俺のこと兄弟として、ちゃんと人間としてみてくれた」


 幼い頃は、高熱にうなされてよく寝込んでいた。でも周りの人間たちは自分を寝かせておくだけだった。食事を手ずから食べさせてくれることはなく、枕元に粥の入った碗が無造作に置かれるだけ。気が利くような侍女たちには、自分の存在など知られてさえいなかった。『影』なのだ。


 空もまともに見えない狭い離れ屋に、一人ぼっち。

 寂しかった。哀しかった。怖かった。

 このまま、みんなに忘れられてしまったらどうしよう。


 そうして泣きそうになると、いつも手を握ってくれる人がいた。『ここにいるよ』。


 ひんやりと気持ちよく熱をさらってくれる手の持ち主は、「兄」だった。


「……嬉しかったんだ」


 こぼれた寂しげな笑みは、雨と闇に隠れて誰にも見えなかった。


「俺は一生『影』でいい。この人のために生きようって」

「信之殿はそのようなことは望んでおらぬ」


 於稲の声は真摯であった。


「幸村殿のことを弟と思っているからこそ、影などで終わって欲しくなかったのじゃ。きちんと武士として、一人の男として生きて欲しかったのじゃよ、きっと」


 暗い雨で幸村の表情が分からない。きちんと言葉が届いているか不安になる。


「あのかたは、おぬしの信ずる道を否定しなかったであろう。分かってくれたであろう?」


 幸村はハッとした。


 ───『分かるだろう』。

 それは、つまり。自分も分かっているよ、という。お前と同じ気持ちだよ、という。


(……兄貴……!)


 唇が震えた。


「誰よりおぬしを理解し、信頼しているのは信之殿なのではないか。……自分を信頼してくれている人間を嫌うというのは、意外と難儀なことじゃ」


 於稲はくすくすと笑っていた。


 握った手を、握り返してくれたから。だから自分は信仍を弟だと思えたのだと、以前、信之が話してくれたことがある。


「よく似ておる」

「え?」

「お二人は、よく似ておるよ」

「……でも、信じる道は違ったみたいだ」


 ふっと、幸村の目が熱を得る。


「俺はもう一度、豊臣の世を取り戻したい。太閤様の夢を叶えてさし上げたい。太閤様は俺にとって父だから。俺はあのかたのためになら、兄貴とだって戦う」

「……責めはせぬ。けれどせめて、信之殿の信頼と期待だけは裏切らぬようにな。己の信じる道を、真正直に生きると良いよ」

「ああ、心は決まってる」


 於稲は頷いた。自分も、もう覚悟は決まっている。


「おい、おねい。そろそろ」


 黙って聞いていた葵亥が、愛嬌の欠片もなく言った。


「うむ。では、わらわはもう行かねば。──右京、おぬしも元気で」


 右京はただ微笑みだけで応えた。


「幸村殿も、道中、気をつけてな」


 幸村は無言で頭を下げた。

 目を閉じて、大きく息を吸う。

 初恋だったわけでもないのに。諦めたつもりで、今もどこかこだわっているのは、きっと──


「い、」

「おぬしは徳川の敵かも知れぬが、わらわにとって家族であることには変わりない。死ぬな」


 幸村が何か言いかけたことにも気づかず、於稲は心を込めて言った。


 すべては雨のせいだった。


「……──ありがとうございます、義姉さん」


 顔を上げ、幸村はニッと人懐こい笑みを見せた。


 雨は降り続く。於稲と幸村の間にも、右京と葵亥の間にも。

 空と地とをつなぐ雫たちが、その間を分かつ。


 子供たちと兵士のもとに向かいながら、於稲は傘を差してくれている忍びに言う。視線を下げて。


「葵亥、すまなかった。おぬしには一番、辛いことを言わせてしまったのう……」


 幸村のもとに向かう右京の背を押させた。

 葵亥の気持ちなど、もうずっと前から知っていたのに。


「いいよ」


 ぶっきらぼうな声に、於稲は彼を横目で見た。青年はそっぽを向いて後ろ頭を見せていた。


「……いいんだよ。俺も、すっきりした」


 右京は、葵亥の想いに気づいていた。葵亥は、右京が自分の気持ちに気づいていることに気づいていた。そして望みがないことにも。

 これで良かったのだ。

 もう会うことはないだろうけれど。

 きっともう、会うことはない。

 二度と会えない。

 これが最後。


「幸村様」


 於稲たちが去って行った向こうをぼうっと見つめていると、隣の右京に小さく呼ばれた。


「ん……行っちゃったな。本当に良かったのか、右京?」

「ええ」

「そうか」


 雨の音に、呟きは吸い込まれていく。

 幸村はふところに手を当てた。


「……結局」


 渡せずじまいか。



  

   …我が恋は 水に降る雪

     白は言はじ、消ゆるとも

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