信ずる道へ⑥
宵闇に、おびただしい数のかがり火が走る。そして地を揺らすような軍馬の響き。
走る馬を父の横につけて、幸村が問う。
「父上、本気ですか」
「当然だ」
顔を険しくさせる幸村に、昌幸は目を細める。
「なに、孫の顔を見たいとでも申せばよいのだ。舅の頼みを無下にするような真似はせんだろう」
「そうして口車に乗せて入り込み、沼田城を乗っ取ると?」
「ふん、別に殺そうというわけではないのだ。沼田はもともと真田の領地、なれば当主であるわしが取り戻して何が悪い」
幸村は押し黙った。父の言い分は確かに間違ってはいない。
本当に兄と敵対している自分が信じられない。この現実を、まだどこか夢を見ているような気でいる。
(……けど)
夢ではない。何もかも、夢ではない。現実だ。
まだ宙ぶらりんな未練を引きずる幸村の横で、昌幸は小さく笑う。
「あの小松も、信之無しではわしに歯向かえんだろう。ふ、早く会いたいものよなぁ」
上田に連れて帰れば、かっこうの人質となる。
信仍には、そんな父の思惑に思い至るほど余裕がなかった。
「父上が本当にお会いしたいのは、まん姫や仙千代なのではないですか」
「ああ、息子は敵となろうとも、孫は可愛いものよ」
「元気だといいですね」
口に任せて言い、父の後方に馬を下がらせる。
頭ではちゃんと理解しているのだ。この沼田への侵攻は正当であり、留守にしている兄がいけないのだと。それに身内には違いないのだから、昌幸も乱暴な真似はするまい。
だが分かっていても、心は晴れない。
それを映すように、夜空は曇り始めた。星はとうに輝きを失い、欠けた月も流れる暗雲に隠れようとしている。
世界は暗い。兵士が掲げる温かみの無いかがり火が、よけいに夜闇を引き立たせる。
だが不意に、視界が明るくなった。
「あれは……」
軍の先鋒を切って走っていた昌幸は、目を疑う。幸村や、それに従う兵士らも同様だ。
上野国、沼田城。関東では数少ない五層もの天守閣を誇り、利根川の川霧にそびえ立つ豪壮なその姿は、別名霞城とも呼ばれる。
その城には今、明々と燃えるかがり火がそこかしこに灯され、門前には物々しく武装した男たちがずらりと並んでいた。
「何だ、これは……何事だ」
昌幸は門の前に着くと馬を止めた。門番たちが揃って槍を手に持つ。
感服したように幸村がもらす。
「俺たちの目的など、とうに知られているのでは?」
「馬鹿な。いや……かまうものか。――開門! わしは真田信之が父、昌幸じゃ。一夜の宿を借り願いたい。開門せよ!」
「できません」
番兵が声高に答える。
「たとえ誰が来ても、門を開けるなとのご命令です」
「何を。馬鹿なことを言うな、真田の当主は誰だと思っておる。開門! 早々に開門せよ」
「何と申されましても、門は開けません」
昌幸は業を煮やして怒鳴った。
「ええい、小賢しいわ。こうなれば力ずくでも」
「父上、お待ち下さい。──門番よ、何をそんなに頑なに拒むのか。我らはただ一宿の屋根を願うと言っているだけなのに」
幸村が父を諫めながら、苛立ちの募った声音で低く問う。頼むから父の神経を逆撫でしないでほしい。
答えより先に、正門の横の小門が開き、中から刀や槍を手にした大勢の男たちが飛び出してきた。それが合図のように、物見櫓のかがり火がいっそう明るく揺れる。その火は、弓矢を構える数え切れぬほどの兵士を照らし出していた。矢じりの先がキッと鋭く光る。
中には、やはり武装している女たちの姿もあった。
「な……一体、これは」
息を呑む昌幸たちに答える声は、涼やか。
「お久しぶりです、昌幸殿」
小門をくぐり、淡い笑顔を添えて颯爽と姿を現したのは、甲冑を身につけ薙刀を手にした若い女性。胸当てには真田の六文銭紋、羽織には徳川の葵巴紋が描かれている。
「小松姫……ッ」
「
幸村がただ目を丸くしたのに対し、昌幸は真っ青になった。まるで幽霊でも見たように。
ふわりと生ぬるい夜風が吹いて、於稲の額にかけられた鉢巻をなびかせた。
幸村は、度肝を抜かれている父より先に真正面から問い質す。
「義姉さん。なぜ開門しないんだ」
「城主であられる信之殿より、そのように命を受けておりますれば」
「相手はその兄貴の父なんだぞ?」
「聞けば、昌幸殿と幸村殿は徳川から離反されたとか。たとえお義父上であろうと真田の当主殿であろうと、夫の許し無しに門は開けませぬ」
於稲は口元の笑みを崩さない。
彼女のきりっとした目元を睨みながら、昌幸はすごむように言う。
「……孫の顔が見たいという、この老いぼれの願いさえも聞けぬと申すか」
「どのような理由をつけられても、開門はいたしませぬ。宿ならばこの近くの
昌幸が馬上で激昂した。
「かまわん、門をぶち破れ!」
双方の兵たちに緊張が走る。即座に凛とした姫の声が閃いた。
「真田当主といえども臆するな。殿のお留守に狼藉を働く輩は一人残らずひっとらえよ!」
ザッと於稲の従える兵士たちが刃を構える。そして於稲自身もひゅっと薙刀を回し、その切っ先を昌幸に向けた。
凛然たる瞳は、真っ直ぐに義父をとらえる。
「容赦はいたしませぬ。……お引き下され」
睨み合う。
かがり火がちらちらと闇を照らす。
そしてしばらくもしないうちに、息を詰めるような勝負は決した。
「──真田はよい嫁を得た」
昌幸はふっと口元を緩める。
「全く、信之などには惜しい女ぞ。武家の妻はこうでなければならん。小松がおれば、わしらが討ち死にしようと真田の家は安泰じゃわ」
言いながら手綱を引いた。
「父上」
「正覚寺ならばわしも懇意にしておる寺だ。幸村、参るぞ」
「はい」
幸村も周りの兵たちも、ほっと胸を撫で下ろす。とりあえず流血は免れた。
「さらばだ、小松姫よ」
背を向けた義父に、於稲は緊張のとけた声で告げる。
「後ほど、わらわも正覚のお寺に参ります」
「なに」
思わず昌幸は振り返った。於稲はにっこりと、娘の顔をして微笑んだ。
「子供たちの顔をご覧になりたいのでしょう?」
ぽつ、と暗い空からしずくが落ちてきた。それはしだいに大地を潤していく。
「………わしの完敗だ」
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