信ずる道へ⑤
透ける障子の向こうは、薄青に明るい。
「む……」
日が真南に昇った頃、於稲はようやく目を醒ました。
「於稲。おはよう」
青空に負けないほどの晴れやかな笑顔で覗き込んだのは、右京。
「右京」
「気分はどう? 熱は下がったみたいだけれど」
「ああ……だいぶ、すっきりした」
於稲は寝ぼけ眼で身体を起こす。右京がまた華やかに笑った。
「良かった。もうお昼過ぎよ、お腹空いていない? 何か食べる」
「うむ。ぺこぺこじゃ」
「元気な証拠だわ」
うふふ、と右京は立ち上がって障子戸を開けた。
真夏の光が差し込んでくる。遠くの方から、子供たちが騒いでいる声が聞こえる。楽しそうだ。
「信幸殿は……どうしたであろう」
「きっと無事よ。心配しないで、於稲。……わたくし、茜子にでも何か食べ物を頼んでくるわね」
「ありがとう」
右京の足音が遠くなると、於稲は開け放たれた障子戸から小さな庭を見つめた。
うららかだ。
「……着替えるとするかのう」
本当に気分が良かった。だから着替えくらい一人でして見せようと思ったのだが、残念ながら肝心の着替えが用意されていなかった。
とりあえず、髪を手櫛で梳く。
(食べたら、久しぶりに
全く、身体がなまってしまって仕方がない。
だがこうして短期間で回復できたのも、右京や城の皆のかいがいしい看病のおかげ。早く元気になった姿を見せてやらねば。
そうこう思いを巡らせている内に、粥の碗を載せた盆を手に右京が戻ってきた。
「また粥?」
「飽きてしまった?」
いや、と於稲は肩をすくめる。
「だが粥だけでは、体力がつかぬ」
「いっぱい食べてね」
有無を言わさぬ笑顔。
「はい於稲、あーん」
予想通り、右京は手ずから匙を取って差し出す。
於稲は食すより先に難しい顔をした。
「右京、おぬし、その『はい、あーん』をまんに入れ知恵しおったろ」
「まん? ……うぅん、どうだったかしら。子供って何を見ているか分からないものね」
微妙な回答を適当に口にし、右京はさらに「あーん」と開口を促す。
於稲はむ…と押し黙る。差し出された白粥を睨む。たっぷりためらってからぱくりと口にし、無言のまま軽く咀嚼する。そして右京が第二弾をすくう前に、パッと匙を奪い取った。
「自分で食べられる、このくらい」
「ええ~、いいじゃない、ちょっとくらい」
右京はぶうぶうと文句を垂れ流しながら、匙を奪い返そうとする。
「こらっ、暴れるな、病人相手に」
「何よう、病人だって言うならわたくしが食べさせてあげるから」
「だっ、ちょっ、右京」
もつれる、乱れる、崩れる。
その結果。
「──ちいぃッ」
災厄はバチャンという音を立てて於稲の胸元に降りかかった。さすがの右京も血相を変える。
「ま、まぁ! ごめんなさい、於稲」
「あちち、あちちちちち、あちあちちッ」
幸い、熱の固まりと化した飯粒は、衣の上に留まっている。
「脱いで!」
バッと勢いよく、右京は於稲の単衣の襟元を開いた。あらわとなった白く滑らかな肌は、少し赤みをおびている。
「まぁ」
間。
「おんどれぁ、さっきから何やっとんじゃい!」
於稲は夜叉のように怒り狂い、はだけた衣を奪い返して胸元を隠す。だが、右京は悪びれた様子もなく「えー」と不満げだ。そしてなおも、於稲に手を伸ばしてくる。
「着替えなきゃ、痕が残ったら大変よ」
「だっ、だから自分でできると言うにッ」
「ほらほら、遠慮しないで」
「引っ張るな! ……って、乗っかるなーッ」
ドタバタと暴れる二人に、広縁からの同じような騒ぎはかき消されて聞こえていなかった。
「ああっ、放せ畜生! くそガキ」
怒鳴り散らす声は低い。
初めてその声に気づいた女二人は、障子戸が開け放たれたままのそちらに目を取られた。
「おい、おねい、起きてるか」
ひょいっと顔を出したのは、
「あ」
その目が見てしまったのは、女二人が衣を乱して絡み合っている情景。それは、男の立ち入りは禁じられた艶めかしき世界。
朴念仁忍者には刺激が強すぎた。
その時確かに、時が止まった。凍りついた。
それを打ち破ったのは、葵亥の膝元にくっついていたまん。
「あー、右京、ずるーいっ」
まんはぶすっとした顔で母に駆け寄り、於稲を押し倒している右京にしがみついた。
ハッとした葵亥の顔が、みるみる赤くなっていく。そして背を向けて頭を抱えた。
「見てないっ、俺は何も、なンにも見てないッ」
ぶるぶると頭を振り乱す。
「そんな、お前らがそんなカンケー……いや、見てない見てないっ」
ああ、だが、こんなこと信之に何と言えばいいのか。
武門において、女の不倫は死罪だ。その相手も死罪。人妻への恋心は罪なのだ。
だが果たして、これは浮気に入るのか。女同士なのに。しかし許されるのも何かオカシイ。そもそも、この二人は一体いつから…信之は気づいていなかったのか。まさか黙認? それならば、いやしかし。いやしかし、いや、しかし……
頭を抱えて唸りだした葵亥の肩を、ポンポン、としなやかな手が叩く。
「葵亥? どうしたの」
振り向くと、右京の美しい顔が目の前にあった。
「ギャッ」
「まぁ。人の顔を見て怯えるなんて、失礼な子」
ぷん、と右京はやけに幼い様で頬を膨らます。その後ろで、まんに抱きつかれた於稲がげっそりと疲れた顔をしていた。
「葵亥。誤解じゃ、誤解」
「そ、そうだよな。そうだよな!」
と、葵亥はとにかく素直に信じた。むやみに信じた。信じる者は救われると言う。
「右京、とりあえず着替えを頼む」
「はぁい」
粥でべたべたになった衣を着ている於稲に言われて、右京はすぐに取りに向かう。
広縁を行くその背中に。
「……右京!」
思わず、葵亥は声をかけた。彼が最後に見た右京は、泣いて泣いて、そして目覚めなくなった右京だった。だが、彼女は目の前でくるくると元気に動いている。
「なぁに?」
振り向いて、右京は可愛らしく首を傾げた。
「あ、いや……お前……」
言葉を捜す青年に、くすと笑いかける。
「元気いっぱいよ。ありがとうね、葵亥」
にっこりと、花のように。
葵亥はやはり言葉を失って、その後ろ姿をただ見送った。
「……元気、なのか?」
ぎこちなく、右京の去った方向を指差して於稲に問う。
於稲は曖昧な笑みで少し首を傾げただけだった。
まんは甘えたがりだ。於稲にも右京にも茜子にも、何かとくっついていたがる。特に母親である於稲には、一種の憧れをもった目で追いかけている。平たく言えば好きなのだろう。……が、最近のまんは葵亥が「お気に入り」である。いくら睨まれてもうざったがられても引かない。
そのような娘の姿を、於稲は微笑ましく思っているのだが。
「ですから、お母上様と葵亥は大事なお話をしておりまして」
「えー」
「弟君たちと遊んでいらして下さいね」
「葵亥はぁ?」
部屋の端でまんの宥め役になっている茜子は、そろそろ笑顔も引きつり始めていた。
「また後で遊んでもらえますよ」
「えーえーえー」
「ああああ、後でなッ」
葵亥は幼い姫をポイッと部屋から追い出し、すかさず障子戸を閉める。
「あぁ、ひどい。葵亥ィ」
「あーとーでッ」
葵亥が障子越しに言い切ると、まんは「絶対ね」と一方的に約束して去っていった。不満と期待が入り混じった幼い声音は、あの頃の於稲によく似ている。
「ったく、中身は誰に似たんだか」
於稲との話を中断して助っ人に入った葵亥は、憮然として息をつく。そして真面目な顔に戻って振り返った。
着替えた於稲は、右京に櫛で髪を梳かしてもらいながら表情を曇らせている。
「──そう、か。やはり義父上殿と信仍殿は、豊臣につかれたか……」
ああ、と葵亥は重々しく頷いた。
「そのおかげで信幸は真田を廃嫡された。で、名前を変えたんだ」
「は?」
於稲は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「ユキの字を、幸せから之って言う字に。音はノブユキのままだけどさ」
「………あのお人はまた、勝手に。もう」
こめかみに手を当てる於稲に、葵亥はムッとした。
「それだけ決心が固いって事だろ。徳川に味方するって」
「だが幸の一字は、祖父上から続く、真田にとって特別な字であるのに」
「――信仍が貰ったみたいだぜ。あいつも改名して、真田幸村だとよ」
「信仍殿が?」
確かに間違っていない流れだ。ただ、後ろで小さく息を呑む気配がした。髪を梳く手が一瞬揺れた。
「それで、こっからをよく聞いてくれ。昌幸の軍が今、こっち──沼田に向かってる」
「まぁ!」
茜子が声を上げて顔をしかめた。於稲の瞳も険しくなる。
右京は梳く手を止めることなく、微笑んで言った。
「それはそうよ。昌幸様だもの。もともと沼田は真田の領地なのだから、当主である自分のものとしようとするのは当然だわ」
「信幸殿は……何と?」
「『門を開けるな』」
葵亥は真剣な目で、はっきりと告げる。
「脅されても宥められても、絶対に門を開けてはいけない。そうすれば、向こうは時間を惜しんで諦めるはずだってよ。昌幸も上田城を空けておくわけにいかないんだろ」
「そうか」
於稲は騒ぎ出した胸を押さえる。
「それで、昌幸殿がこちらに着くのはいつ頃になる?」
「今夜だ。早ければ夕方」
キュ、と右京が於稲の髪を結った。満足げに彼女の肩に手をかける。
「できたわよ、於稲」
「ありがとう。すまぬな」
於稲はにこりと笑むと、背筋を正して立ち上がった。
息を吸いながら、目を閉じる。
(……信幸殿)
彼は本当に徳川に残った。自分や、この城のみんなのために命をかけて戦おうとしている。
では、自分は彼のために何ができるだろう。
『留守を、頼んだ』
――そうだ。
(あのかたの帰ってくるこの場所を、守る。それがわらわの、妻としての役目)
毒を仰ぎ、一度は死にかけた女だけれど。信之とともに生きると決めた。
「……沼田城主、
ゆっくりと、瞼を開く。現れたのは夜色の瞳。星も輝くような、美しく澄んだ瞳。
「茜子、留守部隊に緊急警戒の旨を伝え、城内・および周辺の警備を強化させよ。それから女中を全て広間に集めて待機させろ」
「はっ」
茜子は一礼してサッと部屋を出て行く。
「右京、至急沼田近辺の草天狗衆を集め、豊臣につくと言う者は早々に立ち去らせろ。おぬしが信用できると思った人間だけ残せ。そして信之殿に従うという天狗には、城を囲んで潜んでいるようにと伝えよ」
「わかったわ。――わたくしのことは、信頼してくれているのね」
「わらわを見くびるな」
強気な口元に、右京も微笑んで答える。
「………おい、俺は?」
所在なさげに葵亥が口を開いた。
「うむ」
於稲は笑んだ。沼田城主の妻として、気高さと美しさを兼ね備えた笑みだ。
その瞳は未来を信じている。強く、信じている。
「葵亥。わらわの薙刀を、持ってきてくれぬか」
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