信ずる道へ④
《では、わしらは徳川軍を離れ、早々に上田城に帰ることにする》
《草天狗衆はいかように?》
《沼田にいた者はやろう。お前に扱えればの話だがな》
《努力しますよ》
ともかく夜が明けないうちにと、昌幸(まさゆき)・幸村(ゆきむら)軍は犬伏(いぬぶし)を去っていった。
「信幸、どうなった」
宿営地を出て馬を引く信之(のぶゆき)の隣に、葵亥(あおい)が闇から降り立つ。声音は抑えているが、気が急いているのが見て取れた。
信之は小さく苦笑する。
「名を変えた」
「あン?」
「ノブユキのユキの字を、幸いから之(これ)という字に改めた」
「………なんだそりゃ」
葵亥が本当に不可解そうに顔を崩すので、信之は高らかに笑う。
「平たく言えば、真田昌幸の嫡男ではなくなったということだ」
葵亥は真顔になる。
「……そうか」
「そうだ」
「これから、どうするんだ」
問う声音は心なしか暗い。だが信之は明るく言った。
「わたしは父と弟の離反を報告するため、すぐに小山(おやま)の秀忠(ひでただ)様のもとへ向かう」
そして余裕のある笑みを浮かべた。
「と。宇都宮の陣に伝え、進軍させておいてくれ、望月(もちづき)」
えっ、と葵亥は目を丸くする。その後ろの林の闇から、「はっ」と短い返事が返った。葵亥が振り返ると同時に気配は消えた。
「……天狗を信頼できるのか。真田の当主はまだ親父さんなんだろ」
「信頼してるから頼んだのだ。まぁ、裏切られたら、それはわたしに人望がなかったというだけの話だな」
呑気な言い様に、葵亥は顔をしかめた。自分に頼めばいいのに、とも実は思った。
だが。
「さて、葵亥。お前は沼田に行ってくれないか」
「あ?」
甘やかすような笑顔を向けられ、葵亥は思いっきり素で聞き返した。
「沼田城に行って、父上と──…そうそう、信仍も改名したのだ。幸いに村里の村で、幸村と」
「意味わかんねぇ」
真顔で切って捨てる。信之は思わず吹き出した。
「くっ、ははは……そう。でな、沼田の城に帰り、父上と幸村が徳川に離反したこと。そしてわたしが徳川に残ったことを皆に伝えて欲しい」
「わかった」
「右京のことも心配だしな」
とぼけた風に言うと、葵亥はギロッと遠慮なく信之を睨んだ。はは、と信之は苦笑して付け加える。
「冗談でなく。於稲のことも心配だ」
「そうだな、様子を見てきてやるよ。しょうがねぇ」
「できる限り早くな」
ふいに信之の声音が重くなる。
「何か、心配事でもあんのか?」
「父上はこのまま沼田に向かう。あの軍勢を引き連れて」
葵亥は目を見開く。
「な、それって」
「うかうかしていると、あっという間に沼田城は落とされるぞ」
昌幸はこのまま上田の城に帰ると言った――ありえない。
「あの男は、敵味方と分かれた者に容赦などしない。城主が留守と知れている城を、みすみす素通りしていくものか。沼田は攻められる」
「どうするんだ」
葵亥は緊張を隠せず言った。だがその声音に、信之は逆に強張った頬を緩めた。
「わたしはどうもしない」
「なっ、沼田城を見捨てんのか」
あそこには、まだ大勢の人間――於稲や子供たちがいるというのに。
「いや、わたしが何をどうしても間に合いはしないよ。ただ、父親の顔をして現れる昌幸殿を城に上げなければいいのだ」
「なに?」
信之は馬に跨った。我知らず薄笑いを浮かべる。
「あのかたはきっと、親子の情だとかそういう建前を並べて開門させる。仮にも城主の父であるし、まんや仙千代たちとっては祖父だからな。そこで戦力を使うのも得策でないと承知しているだろう。それに一刻も早く上田に戻らなければならないのも確かだ。沼田などでぐずぐずしている暇はないはず……」
信之は葵亥を見た。いつになく信頼を置いた目で、まっすぐに見た。
「一晩だ。一晩だけ耐えれば、向こうは諦める」
「どうすればいい」
「門を開けるな。こじ開けてくるようだったら、残った者を総動員して抗え。真田当主といえど屈するな。そして間違っても自害しないように、と。城の皆に伝えよ」
「……分かった」
「頼んだぞ」
葵亥は真剣な眼で頷く。
そして、薄れていく闇夜に姿を消した。
信之はそのまま小山に向かった。少し東に馬を走らせると、広大な平野に出た。
「…………夜が明ける」
東の空が白く明るさを増していく。
永い夜だった。
果たして今度の戦は、永い戦乱の世の明けとなるのか。
それを自分は見届けることができるのか。
父弟を離れたこの道は、いったいどこに続いているのだろう――
信之は振り返り、遥かに赤城山を望んだ。その彼方の空を仰ぐ。
「必ず帰る」
生きて、あの温かな家族のもとに必ず帰る。於稲が待ってくれているあの場所へ。
皆も、どうか無事でありますよう。
「―――ハッ」
信之は手綱を引き、全速力で駈けた。何もかも振り切るように、風を切った。
小山に着き、父弟の離反と自らは異心のないことを秀忠に報告した、その三日後。
家康本軍が小山に到着した。
「これは……驚いた。真に信幸か」
片膝をついた信之は、淡く笑んで顔を上げた。
「は。真田昌幸殿とは袂を分かちましたゆえ、今は幸いの字を之と改めてございます」
「父に反し、真田の家を捨てて、このわたしに仕えると申すか」
「はい」
信之は再び頭を下げる。
「なんと……」
家康は本当に驚いていた。
「だが、信之よ。お前の妻、小松は……」
「生きてござります」
平伏したまま、はっきりと告げた。
これには家康も、すぐ近くに控えていた忠勝も目を見張った。
「その節は、家康様、そして忠勝様のお力添え、誠にありがたく存じます。頂きました妙薬により、我が妻は何とか一命を取り留めました」
「そ、そうか」
忠勝が思わず安堵の声を上げた。だが、家康はますます信之を凝視する。
「信之よ。お前は……全て、承知の上で」
この家康が、小松に自分の暗殺を命じたと承知の上で。
信之はまた家康を仰ぎ、にこりと笑んだ。
「この信之の命運を、家康様にお預けしたいと存じます」
家康は言葉を失って、ただ、その男を見つめた。
そして。
「………その方の忠節のこと、感服した。――誰かあれ。筆と紙を持って来い」
『今度、安房守(昌幸)別心のところ、その方忠節を致さるの儀、誠に神妙に候。
然らば、小県の事は親の跡に候の間、異儀なく遣はし候。
その上、身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以って、いよいよ如在に存ぜらるまじく候。仍って件の如し。
慶長五年七月二七日 徳川家康
真田伊豆守(信之)殿 』
徳川家康は信之の忠義に応え、反逆者・昌幸の所領を与えること、今後何があっても信之の身を取り立てることを安堵状に約した。
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