信ずる道へ③
珍しく星が見える夜だ。だが月はない。青い闇に、散りばめられた星屑が輝くばかりである。
「
「何でだよ」
「何でもだ」
信幸はそのままつき返して、もう振り向かない。
「待てよ!」
「――若様」
番の兵より早く、その訪れを承知していた草天狗が迎えに出てきた。
「お待ち申しておりました。事は一刻を争います。早々にお父上様のもとへ」
「分かった」
言い、天狗に手綱を預ける。
「待てって」
なおも後に付こうとした葵亥の前を、サッと数人の天狗が阻む。
「これより先は、真田の者以外は通せない」
「なっ、待てよ、ふざけんな」
「葵亥」
信幸は足を止めて、背中を向けたまま言った。
「お前も疲れただろう。その辺りでゆっくり休んでいろ。話が済めば、また急ぎ宇都宮まで向かわなくてはならない」
「……わかったよ」
それは、また一緒に徳川の軍に帰れるってことなんだろ。
「間違えるなよ、信幸」
「任せておけ」
信幸はたやすく請け負ってみせる。そこに虚言や虚勢の匂いは欠片もない。
葵亥は信幸を信じていた。不思議なほど、彼を信じることができた。
多分星が綺麗だからなんだ、と夜空を仰いで呟く。
自分でも笑ってしまうくらい葵亥らしくない言い訳であった。
「兄貴」
信幸がこじんまりとした堂に着くと、戸の前で
「信仍、久方ぶりだ」
「ああ、兄貴も元気そうで良かった。親父は中で待ってる。思ったより遅かったけど、何かあった?」
「小用でな」
笑って見せるが、その表情はどこか硬さを抜けきれていない。
信幸は、かがり火に照らされた顔見知りの家臣に低い声で告げる。
「
「は……承知つかまつりました」
綱家は冷や汗をかく思いで答えた。
「なに、兄貴。まるで何の話をするか知っているみたいだ。それとも、もう天狗から聞いた?」
「聞いてはいないが、わかってる」
「そっか。さすが」
言う信仍は明るく笑う。信幸も笑うが、全く冷えた笑いになってしまう。
「父上、兄貴が来ました、やっと」
からり、と引戸を引く。信仍は何の躊躇もなく、灯台の火が明るく揺れるその堂に入った。
「来たか」
「来ましたよ」
信幸は開かれた戸に手をかけ、冷たい微笑をのせて言った。
「……お久しぶりです、父上」
信幸は敷物の上に静かに腰を据えた。
外した具足を背にどっしりと構えた昌幸が、一枚の書を取り出して差し出す。
「前置きにかける時間はない。信幸、読め」
「は」
信幸は短く答え、薄っぺらい書を受け取って目を通した。
予想通りだ。
書の差出人は石田三成。内容は家康への非難と、亡き太閤への恩、そして秀頼への忠節を信ずるというものだ。
つまり。
「徳川軍を抜け、豊臣に味方せよと言うことだ」
「そのようですね」
信幸はひどく淡白に言い、書をたたんで父に返した。
「どうする」
昌幸は頬杖を付き、射るような目で信幸を見た。だが、信幸より先に信仍が口を開いた。
「もともと我らは豊臣の家臣。徳川もそうであったはず。ならばここは、豊臣に味方するのが武士たるものの筋と思います」
昌幸は鷹揚に頷く。
「わしはな、豊臣にも徳川にも大して恩など感じておらんのだ。だが、どちらの味方もせんというわけにはいかんらしい。ならばわしは、ここは豊臣につこうと思う」
「父上」
賛を得た信仍の顔が明るくなる。だが、昌幸の思惑は彼とはずれていた。
「家康は戦が下手だ。あれについては勝てる戦にも勝てん。みすみす死ににいくのはごめんだ」
昌幸は兵力よりもその智謀によって、数え切れぬ死線をくぐり抜けてきた。ここまで強く言い切れたのは、かつて真田が徳川に勝利しているからである(神川合戦)。信幸が初めて於稲と出会ったのは、この戦の和議が成った祝いの席のことであった。
「それに、三成は戦に勝ったところで天下人になれる器ではない。秀頼などもってのほかだ。だからこそ、ここは奴らにのって、まずは徳川をたたいておくべきなのだ」
「まずは、と言いますと」
信幸は薄笑いを浮かべて尋ねた。
「もちろん、徳川を滅ぼした次は豊臣を潰す」
「父上」
信仍が顔色を変えた。
「父上は豊臣の天下を横取りしようと言うのですか」
「そうともよ。それこそ武士の大望というものであろう。男たるもの、天下を望んで何が悪い。今こそ真田の家を興す時ぞ」
「父上……!」
拳を握る信仍を制し、信幸が言う。
「わたしは徳川につくべきと思います」
「兄貴」
声を荒げる弟に、兄は横目だけで黙らせる。そして真っ直ぐに父に向かう。
「そもそもわたしたちは、徳川の軍としてここまで従軍してきたのです。今さら徳川氏に背いては、義が立たぬと言うものでしょう」
「よく言う」
昌幸は目元を歪ませる。
「いつの間に家康に飼いならされたのだ、お前は。武士たるものがそんな気弱でどうする。それでもお前は真田の長男か」
肩を怒らせる昌幸に、信幸は落ち着き払って整然と返す。
「長男ではなく嫡男です」
「兄貴」
信仍が眉を曇らせて兄の片肩を掴む。
「わたしは徳川に残る。もう決めたのだ」
信幸は弟の手を振りほどこうともせず、はっきりと言い切った。そしてまた、父に目を戻す。
「父上たちがどうしても豊臣につきたいとおっしゃるのなら、無理にお止めはしません。後々裏切られては困りますから。あとは天下を狙うでも、豊臣に忠を尽くすでもお好きになさって下さい」
けれど、と言葉を区切る。
「わたしは徳川に味方します。家康殿の天下のために戦います」
「気でも違ったか、馬鹿者め!」
昌幸は耳まで真っ赤にして怒鳴りつけた。
「お前は自分の立場を分かっているのか。わしの跡継ぎだぞ。ゆくゆくは真田の当主となる男だぞ! それが、真田ではなく徳川のために戦うと申すか」
信幸は黙り込む。その肩を信仍が揺さぶった。弟の顔になって。
「兄貴、なんで徳川なんかに味方するのさ。豊臣への恩はないって言うのか。兄貴だって豊臣姓を戴いただろう、それを捨てるって言うのか」
「わたしは豊臣姓を名乗ったことはない」
これにはきっぱりと即答した。あまりに即答過ぎて、信仍は言葉を失った。
信幸は彼に構わず父と話を続ける。
「父上、よくお考え下さい。父上は真に、豊臣が勝つとお思いですか」
「なに、負けると申すのか」
「いえ……」
信幸は一度視線を下げた。だが、口調は揺るぎない。
「確かに、家康殿は合戦場においてはあまりお強くないかもしれません。前の合戦はわたしの初陣でありましたから、よく覚えています。未熟であったわたしにも、あの徳川軍を蹴散らすことは容易にできた。滑稽なほどに」
だが、それはもう昔の話だ。
「今の家康殿には人望があります。人を集め、使うのがうまい。現に、わたしたちもこうして徳川に従軍しているではありませんか。あの戦には確かに真田が勝ったはずなのに、いつの間にか徳川の下にいる」
昌幸は眉間にしわを刻む。
「今回の三成殿との戦でもきっとこうなりますよ。合戦場においてどちらが勝とうが、結果に大差ない。家康殿は勝つまで戦います。そう、徳川の天下を得るまで」
「だから徳川につこうというのか」
信幸は薄く笑う。
「ただし、一度徳川の天下となれば、それはきっともう動かせませんよ。真田の大望は塵と消えます」
昌幸は信幸を睨みながら唸った。
「父上がどうしても天下をとりたいと仰るなら、まぁ、豊臣についた方が道はあるでしょうね」
「だが、お前は徳川につこうというのだな」
「ええ」
ガンッと強かに拳が板床に打ち付けられる。その拳を震わせながら、昌幸は低く言った。
「お前がそんなでどうする……わしが天下を取ったとして、誰がそれを継ぐのだ。お前は、わしの世継ぎとして手塩にかけられた恩も忘れて」
信幸は無表情で瞼を閉じた。
「お前はわしの嫡男だから、沼田もくれてやったのだ。上杉に人質に出せと言われてもやらなかった。大坂の秀吉のもとへもやらなかった。それを、お前は」
「感謝していますよ。わたしは真田の嫡男であったからこそ、家康殿の姫と結婚できた」
「バッ……この、大馬鹿者めが!」
昌幸は腰を浮かせる。右手が掴んだ差物(刀)がガチャリと嫌な音を立てた。
「父上」
悲鳴に近い声を上げてそれを抑えるのは、信仍。
「放せ、信仍。この、この大馬鹿者を切り捨ててくれるのだ。父としてのせめてもの情けぞ」
「落ち着いてください、父上……っ」
「そうです、落ち着いてくださいよ、父上」
信幸は一歩も動かず、泰然と胡坐をかいたままだ。
「まだ話は終わっていません」
「何を」
「お座り下さい」
穏やかな様で手を差し出し、褥をすすめる。昌幸は苦りきった顔で乱暴に腰を下ろした。
「信仍も。ありがとうな。座れ」
「兄貴」
信仍は随分と不安げなまま、兄の隣についた。
「父上、どうぞ心を静めてお考え下さい。此度の戦、どちらが勝つか、どちらが勝ったとしてどうなるか」
昌幸は素直に黙りこくった。
「わたしは、真田の嫡男です。何より真田のことを考えましょう」
「……どうするというのだ」
信幸は父に淡く微笑みかけた。
「豊臣と徳川。どちらにもつけばよいのです。縁を考えれば、わたしは徳川、父上と信仍は豊臣に。そうすれば、たとえどのような結果となっても『真田』は生き残れる」
昌幸はやはり限界まで眉根を寄せていた。
「豊臣が勝てば、お前は死ぬぞ」
「それが戦というものですから」
「お前が死して、誰が真田を継ぐのだ」
「信仍がいるではありませんか」
あっさりと言い放った言に、昌幸も信仍も目を剥いた。
「兄貴。なに馬鹿なこと言っているんだ。真田を継ぐのは兄貴の役目だろ」
「お前にその資格がないとは言わせない」
勢いで立ち上がった弟を、信幸は真っ直ぐに見上げる。信仍は一瞬ぐっと詰まったが、兄の両肩に掴みかかって絞り出すように言った。
「兄貴……! 俺は嫌だ、兄貴と戦うなんて。一緒に豊臣に行こう」
「断る」
肩を強く握り締める弟の拳が震える。
「お利世のお腹には俺の子がいるんだ……
「わたしも徳川を裏切ることはできないと言っているのだ。分かるだろう」
「兄貴!」
堂全体を震わせたかという大音声の余韻に、ひどく感じ入ったような掠れ声が響いた。
「……それも、良いかも知れぬ」
「父上」
信仍が振り返ると、父は怒りの色など消し去っていた。あるのは子を見据える深い目だけだ。知将・真田昌幸の眼だ。
「信幸。お前がどうしても言うのなら、もしや、その方が真田にとって得策やも知れぬ。お前と信仍の二人ともを連れて行き、万が一にも豊臣が敗れれば、真田はそのまま終わる。だが、お前だけでも徳川に残れば」
信幸は艶めいた笑みで頷く。
「真田は終わらない。終わらせません、わたしが」
昌幸は大儀そうに瞼を下ろし、深く重いため息をついた。
「どっちに転んでも、必ずどちらかが死にどちらかが生き残ると言うわけだな。……では、そうするとしよう」
「待って下さい。父上、兄貴と戦うって言うんですか」
「聞き分けよ、信仍。もはや異論は許さん」
信仍は顔色を失って兄の腕にしがみつく。
「兄貴! 嫌だ、俺は」
「子供じゃないんだ。頭を冷やせ」
「兄貴……ッ」
信幸は弟と目を合わせずに、あくまでも昌幸に向かって真面目な顔をして告げた。
「では。わたしは名を改めます。豊臣につくという父上から戴いた名を、徳川の中で通すことはかないませんから」
うむ、と昌幸はたいして驚いた様子もなく頷いた。
「して、何とする」
「は。真田の嫡男の証、『幸』の字を継ぐことは避けたいと存じます。ゆえに、音はそのままに字面を改め、
「そうか。……
さては前々から考えていたな、と目だけで言うと、信幸、否、信之は小さく笑った。
静かに道を分かった父子を前に、信仍は全身を震わせる。
「どこが。兄貴、兄貴は真田の家を捨てるって言うのか」
「違う。けじめだ。……真田の当主である父上・昌幸殿と道を違えるというのなら、わたしはけじめをつけなくてはならない。これまでの信幸のままでは、徳川の信を得られないだろう」
その物言いがまるで常の通りに穏やかで、信仍は余計に頭に血が上った。
「どうしてなんだ、兄貴。父上に貰った名を、真田を継ぐ名を、徳川のためにそんな簡単に」
「真田のためだ!」
弾かれたように信之は叫んだ。その目は憤りに燃えて弟を睨みつける。だが、信仍の唇が震えて空回りしたのを見て、一度息をつくとすぐに冷めた。
「……シゲ。これまでの真田を失いたくない、守りとおしたいと言うのなら、『幸』の一字はお前が継ぐといい。徳川が負ければ、真田を継ぐのはお前だ。祖父上や父上が築き上げてきた真田を、お前が継げ」
「そんな……っ、嫌だ」
信仍は激しく、その顔と身体全てで拒絶する。
「そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ! 俺が死ぬか兄貴が死ぬか、どっちかしかないだなんて……嫌だ。幸の字なんて俺は要らない。俺は真田を継いだりしない、跡を継ぐのは兄貴だ」
信之も昌幸もただ黙っている。二人の考えは動かない。
「俺は……兄貴の隣にいたいんだ。真田の当主になった兄貴を支えて、兄貴の真田で働くのが夢だった。兄貴の役に立てる男になるためだけに生きてきたんだ。それを今さら」
「嘘だな。ならば、お前も徳川につけばいいだけの話だ」
冷たい言葉に、信仍は凍りつく。嘘ではなかった。本気でそう信じて生きてきた。なのに、なぜだ。いつの間にか嘘になってしまっている。
「できないだろう? できないのなら幸の字を継げ。その方が豊臣も信頼してくれるぞ」
真顔で言葉を続けた信之は、ふっと目を細めた。
「なぁ、信仍。たとえ敵となっても、わたしとお前は兄弟だ。それだけは変わらない。幼い頃ともに過ごした時間は消えたりしない。そう信じるからこそ、わたしは真田を離れる」
信仍は震える瞳で兄を凝視する。
「シゲ、お前はお前の生きたい道をいけ。己の信じる道を進め。そして真田も豊臣も失いたくないと言うのなら、『幸』を継ぐしかない。何かを捨てるか背負うかしなければ、どこにも行けないよ」
信仍の目に涙が滲んだ。だが、すぐに引っ込めて、力をなくして座り込んだ。しばらく情けない顔をさらしてから、おもむろに瞳を瞑る。
「……名を、改めます」
「何とする」
昌幸が頬杖をついて問う。信仍はまだ少し言いよどんで、だが静かに言った。
「真田家嫡男であった兄貴から一文字、村松姉から一文字を戴きます」
父と兄はわずかに眼を見張る。父からでなく、兄姉から、字を継ぐというのか。
信仍は本当にゆっくりと、惜しむように、そして何かに別れを告げるように瞼を持ち上げる。
「――
「ユキムラ」
信之は小さく呟いた。その兄を、幸村は真摯に見つめる。
「兄貴の幸の字は、俺が預かる。こういう時のための『影』だろう。だから」
信之は柔らかく微笑んで首を振った。
「あのな。わたしはお前をわたしの影と思ったことはないんだ。兄と思ったことも、ない」
昔よくそうしていたように、兄は弟の頭に手を置いた。
「お前は、わたしの弟だ」
微笑みの温かさも、何も変わっていない。
「信頼しているよ」
幸村は再び目に浮かんだ涙を、こぼれる前に拭った。
これが、兄弟が交わした最後の会話となる。
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