信ずる道へ②
「姫様、どうぞお休み下さいな。まだ熱がありましょう」
「……そうじゃな」
「何も心配することはありません。安心してお休み下さい」
言われるまま、於稲は横になった。
部屋に滑り込む夏の風は、さわやか。心は落ち着いた。
「……家康様は、何とおっしゃっておられた?」
静かな問いに、茜子は暗い顔をして答えられなかった。
あの夜。茜子は小松姫からの文を家康の陣に届けた。
『情にほだされたか。これだから女は』
家康はそう言って文を握りつぶし、茜子に投げつけた。茜子はただ深く頭を垂れる。
『上様、於稲は何と申したのですか』
顔色を失う忠勝の問いに、家康は唸るように低く言った。
『信幸を
忠勝は目をむき、勢いよく両手をついた。
『申し訳ございませんッ、娘の失態、この平八の不徳のいたすところ。この首にて詫びを……っ』
『忠勝様』
刀に手をかけた忠勝に、茜子が悲鳴を上げる。だが、家康はつまらなさそうにフンと鼻を鳴らした。
『馬鹿を言え、お前が死んでは徳川の軍が崩れる。本多忠勝という武将を粗末に扱うな、お前の命はわたしのものだ』
『……は…』
忠勝は大人しく刀を下げた。
『それに、首なら本人が寄こすと言っておるぞ』
『は』
茜子と忠勝が同時に顔を上げた。
『この失態は自らの命をもって償う、と。そう書いてきおったぞ』
『──そんな!』
文の内容など知らなかった茜子は、投げつけられたそれを広げた。中にははっきりと、自刃するという旨が書き連ねられている。
大きく肩を震わせて泣き出した茜子を、家康は睨むように見据えた。だが、その目はもっと遠いところを見ていた。
『親子揃って馬鹿者だ。己の価値を軽んじおって。小松が死して何になるというのか。徳川の姫にあるまじき愚行ぞ』
『……上様!』
忠勝は平伏した。その額を床にこすりつける。そして、懇願する。
『稲に渡したのは白の毒にありましたな。……どうか、解毒の薬を』
『間に合うものか。それに、あの毒をあおったとは限らんだろう。首を突いたかも知れん』
『どうか! どうか……なにとぞ、なにとぞ解毒の薬を……』
『無駄よ』
『なにとぞ……!』
忠勝はその広い背を震わせる。家康は冷たく彼を見下ろした。どうか、どうかと呻くように繰り返すその父親を、見つめた。そして一度ゆるりと瞬き、低い声で呼ぶ。
『半蔵、……持たせてやれ』
『はっ』
諾の声が影から返る。
忠勝は目頭を熱くして、主君を仰ぎ見た。
『上様……!』
『間に合うとは思わんぞ』
家康の目は冷えたままだ。それでも、忠勝はさらに深く頭を垂れた。
『ありがたく存じます。このご恩は必ずや……!』
『戦功にて返せよ。百倍返しだ』
『はっ』
家康は腕を組んで背を向け、じっと瞼を閉じる。眉間には深くしわが刻まれていた。誰に聞かせるでもなく、呟く。
『……あれは、信康の孫』
信康は家康の長男であった。かつては嫡男であり、未来を約束された男児であった。けれど、もうずっと昔に、息絶えた。病に倒れたのではない。戦地で討たれたのでもない。切腹して、果てた。まだ二十歳を過ぎた頃だった。
彼に切腹を命じたのは他でもない、父である家康。
敵方との内通の疑いに、主君・織田信長が激怒した。殺せと言われて家康は抗うことはできなかった。自らの長子に、切腹せよと告げた。そうして信康は死んだ。
あの時、自分も、どうかお赦しをとひたすらに頭を下げ続けた。
けれど、守れなかった。
『……信康が遺した血』
せめて。
家康もまた、小松の命が繋がれることを祈った。哀しいほどに、切に、祈った。
その祈りが届いたゆえかは、分からないが。
「……たわけ、とおっしゃられました」
茜子が小さく言うと、於稲は笑った。
「たわけか。まったく、たわけじゃ。危うく一番大切な人を哀しませてしまうところであった」
「姫様」
茜子の目が曇る。気づいて、於稲は苦笑とともに訂正する。
「大切な人たちを、哀しませるところであったな」
「そうです。茜子は心の臓が止まるかと思いました」
徳川忍び衆の長から薬を受け取った茜子は、馬で駈けた。昼も夜も忘れて走った。けれど馬はすぐに力尽きて鈍くなり、茜子は下りて、その足で走った。夢中で走り続けた。そして葵亥に薬の入った竹筒を渡すと、そのまま意識を失った。
「でも本当に、……良かったです」
言う目がまた潤む。於稲は手を伸ばして、泣き虫な茜子を撫でた。
「ありがとう。本当によく助けてくれた。こんな愚かな女のために、苦労をかけたな」
「いいえ。いいえ……茜子は、姫様が生きて下さるためなら、このくらい何でもありません」
「そうか。では、茜子に余計な苦労をかけぬためにも、わらわがしっかりしていなければならぬのう」
茜子は微笑して、はい、と鼻をすすった。
「姫様、お眠りになりますか? あ、その前に粥など、何か口にされた方がよろしいですよね」
「ああ、すまぬな」
いえ、と茜子は嬉しそうに立ち上がる。
「だいぶ体力が落ちていらしているようですし。二日間も眠っていたのですから、栄養を取っていただかなくては」
茜子は足早に部屋を出ていった。
ふう、と於稲は息を吐く。
見慣れた天井。
本当に、生きている。
これからどうなるのだろう。全部捨てたと思っていた未来を拾ってしまった。けれど、拾えて良かったと思う。まだ、これからだ。
(しっかり、信幸殿のお帰りをお待ちしていなければならぬな)
彼の無事を祈りながら、この城を守っていよう。そのためにも、早く元気にならなくては。
この身が真実、信幸の禍となるか幸となるか。それは今も分からないけれど。
彼は自分の生を望んでくれた。それだけで、もう死ぬことなど考えられなくなっていた。不思議なくらい、世界が優しく見えた。
その優しい世界に、バタバタと騒がしい足音が響いた。
「……ん?」
「母上ぇっ」
息を切らせて部屋に飛び込んできたのは、長男の仙千代だった。その後に、また勢いに任せてまん、最後にテトテトとまさが泣きはらした目をしてやってきた。
「お母様、お体大丈夫?」
枕元にちょこんと座り、まんが哀しげに首を傾げる。
「まん。仙千代にまさも。みんな、心配してくれたのか」
於稲は体を起こし、微笑んで娘の頭を撫でた。
「母はもう大丈夫じゃよ。寂しい想いをさせてすまなかったな」
「ほんとう?」
年長のまんはまだ不安そうに、だが安堵したように笑った。仙千代は、全く話など耳に入っていないように母親の膝元にしがみついている。
「あのね、お父様がいらしたの。ずっといたの。だけど入っちゃ駄目って。茜子やみんなが言ったの」
「信幸殿が? どこにおられたのだ」
「このお部屋。わたくし、お母様がここでお眠りになっているの知ってたの。だから行きたいって茜子にお願いしたの。でもね、お母様にはお父様がついているから、心配しなくていいって。行ってはいけません、って言われてしまったの。でも今さっき、もういいよって言ったから」
まんは不満そうに難しい顔をした。
「どうして、まんはお母様にお会いできなかったの? お父様はどこに行かれたの?」
於稲はすぐに答えられず、うーんと唸って考え込んだ。
多分、茜子たちは於稲にというより、信幸に気を遣ったのだろう。
将でありながら軍を抜け出してきた彼は、食事も睡眠もろくに取らずに、意識の戻らない妻に付きっ切りであったという。それも、於稲は高熱にうなされ、そのまま息絶えても不思議ではないという状況。信幸の精神状態は極めて限界に近かった。追い詰められていた。
「ねぇ、どうしてなの? お母様はどうしてずっと眠っていらしたの? お風邪?」
「それは……えっと」
ねぇねぇねぇ、とまんは答えをせがむ。まさか母が自殺をはかったとは夢にも思っていないだろう。子供たちの前の於稲は常に気丈な母親であった。いつも強気な笑顔を絶やさなかった。だからこそ、彼らにとって於稲は絶対神である。場合によっては父の信幸よりもだ。
「姫様、粥をお持ちしました」
ほのかに湯気をたてた器を盆に載せ、茜子が戻ってきた。救い主の登場に於稲の顔が明るくなる。
「茜子、すまぬな」
「ねぇお母様。ねぇったら」
「まぁ、まん姫様。お母上様はまだ体の具合がよろしくないのですから、あまり無理をさせては駄目ですよ」
於稲の傍らに膝をつき、宥める。まんは子供らしく「はぁい」と拗ねた返事を返して黙った。と思ったのは一瞬だけだ。
「お母様、ほら、あーん」
碗と杓子を取り、床についている母に愛情こもった粥を勧める。於稲は一瞬あっけに取られてから、微笑んでそれを口に含んだ。少し熱い。
呑み込んで、於稲はまんのその行動に右京を思い出した。何となく、思い出させられた。
「のう、茜子。右京はまだ眠っておるのか?」
「あ、は……い」
言う茜子の顔が曇る。
「あの、姫様。右京様は」
「呼んでたよ」
まんが大きな瞳でまっすぐに母を見た。ぞっとするくらいに深い色の瞳をしている。
「呼んでた……?」
於稲が聞き返すと、まんはこくんと大きく頷いた。
「右京、お母様を呼んでいたの。ずっとだよ。それから、ごめんなさい、って」
於稲は目を瞬かせた。茜子が胸を痛めたような面持ちで言う。
「姫様、本当です。右京様は姫様と同じく、あの晩から眠ったきりなんです」
「な、まことか」
「死んだように眠って。時折、うわ言で姫様の名を」
眠ったまま。
於稲が熱に浮かされ、息も絶えるかという時。右京は葵亥に慰められながら泣きじゃくり、そのまま眠りについた。ごめんなさい、と繰り返し口にしながら。そして、目覚めない。
「……お母様を待ってる」
まんがやけに感情のない声で言った。
「まん?」
「右京は、お母様の代わりに黄泉に行こうとしてる。お母様の命をとどめる為に、自分が身代わりとなって暗い闇に呑み込まれようとしてる」
何かに憑かれたような無表情と感情のない声音。目の焦点は合っていない。
サッと背筋が凍った。
「まん姫様?」
「行ってあげて。呼んであげて。このままでは右京が死んでしまう。この世界から消えてしまう」
於稲はまんの膝元を見て、喉を震わせた。そこには温かな毛色の猫が丸くなっていた。
「右京はお母様の代わりに死ぬつもり。だから目覚めない。右京はこの世界に居場所を失ったと思ってる。だから目覚めようとしない。右京を、助けて」
猫は眠たげに目を閉じている。
「………ノノイ」
於稲が呆然と名を呼ぶと、答えるように目を開けた。そしてまんの膝から滑り降り、部屋の戸口に立つ。振り返って、笑うようにまた目を細めた。
「ノノイ、待て」
於稲は立ち上がった。
「姫様、まだ起き上がっては」
「そのようなことを言っておる場合か」
顔色を変える茜子に構わず、於稲はノノイを追う。
「あれ……お母様ァ?」
まんは寝ぼけたように目をこすった。
「母上ぇ」
また置いてきぼりをくらった仙千代が叫ぶ。茜子は慌てて彼に「お待ち下さいね」と言って、足をふらつかせる於稲を支えた。
ノノイが無言で案内した部屋に息を切らせつつ入ると、右京は本当に静かに寝かされていた。
「右京」
於稲は茜子から離れて右京の膝元に駆け寄る。半分崩れこむように、膝をついて彼女の顔を覗き込んだ。
青白い。まるで温もりを失った人形のよう。
「……右京」
呼びかける。
「右京。起きよ」
於稲は穏やかに、全ての祈りを込めて呼ぶ。呼び戻す。
「もう辛い夢は見なくて良い。もう、いいんじゃよ」
右京はもうずっと、闇の中でもがいていたのかも知れないけれど。
ほら、瞼を開くだけでいい。
この世界は光に溢れているよ。
「目を醒ませ、右京」
於稲は微笑をこぼす。
それ自体が光をもったような言葉に導かれるように、右京はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「右京……」
於稲は安堵の声を上げて目を輝せる。
「………お、いね」
その姿を認めた瞳は、みるみる涙で潤んだ。
「ごめんなさい」
ぽた、と溢れた涙がこぼれた。温かな雫は次々に枕を濡らす。
「わたくし……ずっと騙してた」
於稲は静かにその告白を聞く。何もかもを受け入れる瞳で。
「於稲を信幸様を、葵亥やみんなを騙してた。それからわたくし自身を、ずっと騙し続けてた……! 嘘、嘘ばっかりで。わたくしを塗りたくって……ッ」
吐き出すように言いながら、右京は於稲の胸に抱きついた。
「でも全部が嘘じゃなかった。於稲が好きだった。於稲のためなら何でもしてあげたかった。ほ、本気でそう思ってた……ッ。嘘じゃない、嘘じゃないのぉ!」
「……うむ」
於稲は優しく笑んで頷いた。悪夢におびえた子供をあやすように、右京の頭を撫でた。右京は指先が白くなるほど於稲の衣を握り締める。
「信じて、信じて、信じてぇ……」
「うむ、信じるよ」
だから。
「──すまぬ、な」
その気持ちに応えてあげることは、できない。右京にも、その奥で於稲に振り向くあの少年──信仍にも。同じ想いを返してはあげられない。
気持ちは、嬉しいのだけれど。
「ありがとう。けれど、すまぬな……」
右京は涙で溶けてしまいそうな目で於稲を見つめた。じっと見つめてから、また声を上げて泣いた。子供のように、まだ嘘をついたこともない幼子のように、抑えることなく泣いた。於稲はただ、母のように彼女を抱きしめていた。
その何にも縛れない泣き声は、産声に似ていた。右京はその内に増幅させていた嘘と鎖としがらみを、全て涙にして流しだした。それは、解放。永い呪縛から解き放たれる喜びの声。
しばらくしてからようやく声を落ち着けて、右京は涙とともに笑みをこぼした。
「………ありがとう、於稲。受け止めてくれて、信じてくれて。ありがとう、ありがとうね……」
うむ、と於稲は抱きしめていた腕を解いて笑った。その笑顔を映す右京の瞳はすうっと晴れていた。
「やっぱり、わたくし於稲のこと好きよ。……恋というものとは、すこし違うのかもしれないけれど」
「わらわも右京のことは大好きだぞ。やはり信幸殿と一緒にはできぬがな」
言って、於稲は少し照れたように俯く。
「大好きッ」
「わぁっ」
右京は於稲に勢いよく抱きついて笑った。初めて心から、嬉しくて笑った。
その目が、部屋の入り口で茫然とへたり込んでいる茜子を見つける。しばらく見つめ合ってから、右京はフッと勝ち誇ったように笑んだ。於稲を独り占めする腕をいっそう強くする。見せつけるように。
「こ……ッ」
このォ、と茜子は頭にきたのだが、右京のあまりの右京ぶりに、怒る気力も失せた。彼女が常の彼女であることに深く安堵していた。
そして、右京にかけられていた衾の上で丸くなっている三毛猫に目をやった。
「ノノイ?」
茜子が呼んだ名に、右京も於稲から離れて、初めてその存在に気づいた。
「ノノイ。そばにいてくれたの」
三毛は動かない。右京に向けられた顔は目を細めて微笑んでいるようだった。
「おいで」
右京は微笑んで両腕を伸ばす。だが、猫は動かない。鳴きもしなかった。
於稲と茜子はハッと息を呑む。それは全く同時であったが、右京はぼんやりとした目で動かなくなった猫を見つめた。
「………ノノイ?」
ノノイは、右京は死にかけた於稲の代わりに死ぬと言った。では、右京が引き受けようとした死はどこへいったのか。誰がさらって逝ってくれたのか。
「ノノイ」
右京は目を細めて、冷たくなっていくその小さな躯を抱きしめた。少しでも温めてあげようと、鼓動が響く自分の胸で抱きしめた。
「最期まで……ごめんね」
ありがとう、と。その魂だけに響くように呟いた。
ノノイはもう寿命だった。
右京はその手でノノイを庭の端に葬った。春になると
聞き慣れた音の鈴も一緒に埋めた。
これはしばらくしての話だが、右京は今度は白猫を飼い始めた。その猫にまたノノイと名づけた。
『いいの。あのノノイのことは、わたくしがちゃんと覚えているから。於稲だって覚えているでしょう?』
『だから、いいの』
そう言って、儚げに笑った。
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