信ずる道へ①
「もうし、もうし。
宵闇の中、武装した若い男がかがり火を手に出てきた。
「何者か。我が父に用ありと申すならば、まず名乗られよ!」
「おお、これは失礼申した」
突然陣を訪れた男は、馬から下り膝をつく。
「我が名は、
「俺は昌幸が次男、
信仍は鋭く男を見下ろす。
「おお、信仍殿にありましたか。御名は聞き知っておりますぞ。亡き太閤様から多大なる寵と、豊臣の姓を戴いた、勇猛なかたと」
「何用かと訊いている」
信仍は苛ついて低く問う。男は「はっ」と短く答えて告げた。
「そのような信仍殿であれば、豊臣家、そして秀頼様(秀吉の子)への忠も篤きものと信じます。……この重光、ここに、
その名に、信仍の顔がさらに怪訝そうに歪められる。
「治部少輔……石田三成殿からの?」
柔らかな光が頬を撫でる。
風が、流れた。
声もなく、音もなく、瞼を持ち上げる。世界は眩しかった。
見知らぬ天井。
しばらく見つめて、そのままゆるゆると、視線を左に傾ける。
すぐ傍らに、信幸が座っていた。
彼はじっと自分を見つめている。怒っているようにも、泣きそうにも、見えた。どちらにしろ、いつになく幼い。
「…、……」
信幸、と呟いたつもりが、まるで声にならなかった。ひどく喉が痛む。なぜだろうと不思議に思いながら、視線を落として、見つけた。
彼の両手に包まれた、自分の左手。
そこからは、何の温もりも伝わってこない。何も感じない。身体と意識が離れた奇妙な感覚の中で、ただじっとその手を見つめた。
時間が止まってしまったようだった。いや、本当に止まってしまっていた。心が、感じることをやめてしまっていた。
けれど。
「………馬鹿者」
声が、響いた。
不意に左手が震えた。否、その手を抱いた、信幸の手が震えていた。
「本当に……死んでしまったかと、思っ……」
声は続かない。代わりに信幸は、握り締めた手を自らの頬へ導いた。そして、温かなしずくが手の甲を打った。ぱた、ぱたと。
そう、温かい。
「……の、ぶゆ……き」
「良か……っ、生きて──於稲……!」
妻に被さるように、信幸は彼女を抱きしめた。良かった、と何度も繰り返し、静かに泣きながら強く抱きしめた。けれど於稲には、自分が抱きしめてあげているような気がした。
「無事に意識が戻ってよかった。本当に」
上体を起こした妻の背を支えながら、信幸は実感を込めて言った。
「もう丸二日も眠ったままだったのだぞ、高熱を出して。……気分は、どうだ」
微笑んで、妻の顔を覗き込む。
「……少し……頭がぼうっとしております」
「まだ熱が下がりきらないか」
於稲はだるそうに、夫の肩にもたれる。そして目を閉じた。
どこも痛くはない。苦痛は感じない。だが、意識がぼやけている。夢の中にいるように、ふわふわと浮いている。
信幸は回した腕に力を込めて、妻を抱き寄せた。
「あとで、
「あおい……?」
それは確か、弟のような青年忍者の名前。茜子はその姉だ。
彼らがどうしたのだろう、と於稲は考えようするが、鈍った思考がすぐに霧散してしまう。
「葵亥が駆けつけるのがあと少し遅れていたら、そなたは……どうなっていたことか」
於稲はわずかに小首をかしげる。
「覚えていないか? 葵亥が
耳に届いた音を、頭で反復させる。
葵亥が。右京を、払い、のけ。解毒薬を……
(解、毒……)
毒。
感情を忘れていた瞳に、急速に光が戻る。
「わらわ……生きておる、生きて……。――なぜ」
於稲は自分の手のひらを見つめた。
思い出した。確か、自分は毒を仰いだはず。信幸のいる世界からこの身を消し去るために。なのに。……なぜ、ここにいる。生きている?
「茜子がな、
暗い雨が降っていた。全ての音を掻き消すように、地に強く打ち付けていた。
城に着くなり、葵亥は疾風のごとく部屋に駆け込んだ。
『……右京』
いつも花のように笑っている右京が、泣いていた。悲鳴を上げながら、激しく泣きじゃくっていた。そうして泣きながら、於稲の首を絞めていた。
『何して……ッ、放せ!』
力任せに彼女の肩を引き、ぐったりとしている於稲から剥がす。右京の背は壁が受け止めた。彼女はもう立ち上がらず、手をついて泣き続けた。
ゴホゴホと於稲は激しく咳き込む。そしてわずかに、水を吐いた。
『おねい。おねい、しっかりしろ!』
色を失くした頬を軽く叩く。けれど、返されるのはか細い息だけだ。目は開かれない。
『おねい!』
叫ぶ。だがいくら叫んでも、大声は豪雨に遮られて響かない。
涙混じりに右京が喚いた。
『ッ、飲んだわ。毒を飲んだわ。だから、わたくし……ッ』
『――くそッ』
葵亥が懐から取り出したのは、小さな竹筒。茜子から預かってきた、白い毒の解毒薬だった。急いたさまで、キュポンと栓を抜く。
『飲め』
荒々しく於稲の口を開かせ、筒の中のとろりとした液体を注ぐ。
『……ん、ぐっ』
苦しいのか、意識のない身体はそれから逃げようとした。
『吐くな、飲むんだ!』
とっさに、葵亥は彼女の口を己の口で塞ぐ。
『葵亥──……』
雨にびしょぬれになった信幸が駆けつけたのは、その一瞬の静寂。
ゴクン、と薬は於稲の喉を落ちていった。
ほ…と息を吐きながら、葵亥は彼女の口から離れる。呆然としていた信幸も我に返り、急いで部屋の中に入った。
『葵亥、於稲は』
『信幸』
声をかけられて、葵亥は彼に振り向く。
『やっぱり毒を飲んだらしい。今、薬を飲ませた。息はしてる、けど』
その顔に安堵の色はない。信幸も顔を険しくして倒れた妻に駆け寄る。
『於稲!』
夫に場を譲るように、葵亥は於稲から離れる。その視界の端に映ったのは、気抜けしたように静かな右京。大きな瞳から、涙は途切れていた。
葵亥はその前に無言で立ち、感情のない――感情を忍ばせた表情で、右京の頬を打った。きれいだなと彼がいつも思っていたその瞳から、また涙が溢れた。
「それからそなたは、高熱を出して寝込んでいたのだ。今まで、ずっと」
「……助かったのか、わらわは。助かって……」
助かって、しまったのか。無言で呟く。
そしてまず、親友の身を案じた。
「右京は。右京はどうしております?」
信幸は少し渋い顔をした。
「今は部屋で眠っている。そばには葵亥と、茜子もついているから心配はいらない」
「そうですか……」
ほっと息をつくと、信幸はさらに訝しがるように顔をしかめた。於稲はそれに気づかない。
「のう、信幸殿。右京は悪くないのです。あの子を責めないでやってくれませぬか」
「話は聞いたよ」
氷のような声音。
思いがけない低い声に、於稲は彼を見た。切っ先のように光る彼の目と視線がぶつかった。
「そなたが自ら、毒を飲んだらしいな」
怒っている。怒鳴りたいのを必死で抑えているのが、空気から直接伝わってくる。
沈黙は当然、肯定にとられた。
「そなたが家康殿へ送った書も、見た」
決定的だ。於稲は息を呑んで身を強張らせる。
「………なぜだ。なにゆえそなたは、このような」
肩に置かれた手がかすかに震えた。信幸は空いている方の手で眉間を押さえ、口で深く息をした。
「なぜ……馬鹿な、真似を」
「いいえ。いいえ、殿。わらわは間違っておりませぬ」
真顔で言い放った於稲に、信幸の目がキッと光る。それでも於稲は怯まない。
「わらわさえいなくなれば、殿は真田に刃を向ける必要などないでありましょう。真田の嫡男として、次期当主として、堂々と戦えるでしょう? わらわが生きていては、真田の家がまとまりませぬ。だからわらわさえ、いなくなれば」
「ふざけるな!」
堪えきれず、信幸は激昂した。
「誰がそのようなことを望んだ。そなたに死ねと言った」
「と──」
「わたしは信じて待っていろと、そう言ったのだ! なのに、よくもそなたは……! このわたしが、そんなにも信じられなかったか」
違う、と於稲は必死で首を振る。
「信じておるからです。殿は裏切りませぬ。けれど、それは、殿が真田の家を離れるということでしょう。……だから、わらわは」
「わたしがそれを選んだのだ。なのになぜ、そなたが否定する」
彼の声はもう荒くなかったが、変わらず低いまま。
「お二人の争う姿など見たくないのです。殿は本気で、信仍殿と戦うおつもりですか。あのかたとの絆を分かつおつもりですか」
声を張り上げると、くらっと目が回った。すると耳元で、大丈夫か、と心配した声がささやかれる。肩に回された手がいっそう強くなった。
不意に、於稲は泣きたくなった。
(だから、このかたは……)
優しすぎるというのだ。
連れ添って、もう随分経った。その間、信幸が自分に声を荒げたことなどなかった。けれど今、初めてそれをされた。だから、さすがに見切りをつけられたかと、そう思ったのに。
「やはり、横になるか? ……そうだ、腹は空いていないか。粥なら食べられるだろうか」
弱った妻に、甘やかすような声音で問う。先ほどまで怒鳴っていたことなど忘れたように、熱に浮かされた体の具合を案じている。
於稲が目を伏せて瞼を震わせると、さらに「気分が悪くなったか」と眉を下げた。
「殿」
「ん?」
「わらわは、……」
思いは言葉ではなく、涙となって転がり落ちた。
信幸は静かに彼女を胸に抱き寄せる。温めてあげたいと、思う。心身ともに弱りきった妻は、あまりにも頼りない。
声はなく、涙だけがこぼれる。信幸の胸は、腕は、温かい。自分は多分、ここが一番好きだった。彼の腕に抱かれているときが、一番幸せだった。
「於稲」
信幸は抱きしめたまま、ひどく穏やかに問いかける。
「そなたは、何を望んでいる」
「……消えて、なくなることを」
素直に答えた。信幸は少し押し黙り、変わらぬ声でさらに問う。
「なぜ、それを望む」
「殿を、徳川から解放してさしあげたい」
「なぜ?」
「……信仍殿と、争わせたくないからです」
「それは、なぜ」
於稲は眉をひそめて顔を上げた。目が合った信幸は微笑んでいた。
「……弟君と戦うことになれば、信幸殿が苦しむ」
「わたしを苦しませたくないということか。なぜだ?」
於稲はさらに眉根をきつくする。何を言わせたいのか。
「殿の苦しんでいる姿を見ると、わらわまで苦しくなってしまうから」
「そうか、では」
また、なぜか、と訊かれるのかと思った。
「そなたを失うことが、わたしを苦しめないとでも思ったか?」
微笑んではいるが、目は本気だ。憤りをおびている。
「それとも、自分はもう死んでいるのだから関係ないと言うか。薄情だな」
「ちが……っ」
「違うか。ならば、もう一度問う。於稲、そなたが本当に望んでいることは何だ。本当に、わたしをおいて死にたいか? 本心からそれを望むか」
言いながら、信幸は妻をまた抱きしめる。逃がさないように。嘘など、つけないように。於稲を捕らえる。
何を望んでいる?
この腕以外の、何を求めるというのか。この愛しい温もりから離れることを乞うというのか。それが、本心か。
(わらわが、本当に望むこと)
「ずるい」
思わず口にした。
こんな風に強く抱きしめて。そんな風に優しく問うなんて。ずるい、卑怯だ。
瞬くと、ぱた、と涙が落ちて信幸の衣に滲んだ。
「わらわは……信幸殿の、傍にいたい。この腕を離したくない。ずっと、ここにいたい」
本音の、本音。それは子供が駄々をこねるのと同じくらいにつたなく、必死だ。
信幸の頬が甘く溶けた。
「死んでしまっては傍にいられないよ」
死魂となっては温かな腕に触れられない。温めることも、想いを伝えることも、何もできない。
於稲は潤みきった瞳で信幸を睨む。そして拗ねたように短く吐く。
「……阿呆」
「阿呆はそなただ。どれだけ皆を心配させたと思っている」
咎めの言葉に呆れの色が混じる。
於稲はしおらしく謝った。
「……すみませぬ」
「あのような心臓に悪い思いは二度とごめんだ。気が気でなかったせいか、鹿沼からここまで馬で駈けてきたときの記憶がないくらいだよ」
信幸は長く息をついた。
本当に、何も覚えていない。記憶が飛んでしまっている。かすかに、黒い闇と雨の音が耳に残っているだけだ。そして、於稲が寝込んでから目を醒ます間の記憶も、ない。それはつい先ほどのことだったというのに。二日間、力を失った手を握り、じっと妻の顔を見ていた。それだけだった。
「……あ、れ?」
於稲は怪訝そうに首を傾げた。
「どうした」
「信幸、殿。なにゆえ…ここにおられるのです?」
「何が」
「ここは、沼田ですね。なぜ、小山に向かったはずの殿が、ここに」
「ああ。………ははっ」
笑いは哀しいほど乾いて響いた。
把握した瞬間には、於稲の目が点になった。
「ばっ……馬鹿者ですか、殿はッ。軍を、兵士たちを放り出してきたのですか!」
「こらこら、夫を馬鹿呼ばわりするものではない。きちんと影武者を置いてきたよ。晴れたら宇都宮に向かい、そこで待機するようにと言ってある」
信幸はのんびりと呑気に答える。
「影武者? それにしたって、いくらなんでも気安過ぎます。さっさとお戻り下され。さぁ、さぁさぁさぁ!」
「つれないな」
残念がる台詞を吐きながら、信幸は朗らかに笑む。笑ってしまうくらい、いつもの於稲だ。信幸は初めて心から安堵した。
「こんな、女とひっついておる場合ではないでしょう。殿は一軍を統率する武将なのですよ。一刻も早く戻らなくては、皆が困る」
「ん、そうだな」
頷くが、信幸は於稲を離さない。微笑んだまま、妻の顔を覗き込む。
「於稲。一つだけ言っておく」
「は? 何です」
「敵対したところで、わたしと信仍との絆は切れたりしない。細く、脆くなるかも知れないが、切れることは決してないよ」
於稲は目を見張った。
「だからこそ、わたしは安心して徳川につける。真田をシゲに預けられるんだ」
声はよどみなく、熱をもった目は優しい。
「それに、こんなことを言っては、そなたは怒るかもしれないが。……わたしは実を言うと、徳川のことより真田のことを考えて動いているのだ。何より真田の家と、民のことを──そなたを含めてな。そなたはもう徳川の姫ではなく、立派な真田の女だ。少なくとも、わたしにとっては」
「殿……」
見つめあう二人に、廊下から走り来る気配が近づいた。
「信幸様──あ…っ」
開け放たれたままの障子から覗いたのは、茜子であった。
「姫様、お目覚めに」
その瞳はたちまち狂喜に潤む。
「茜子」
「姫様ぁ、よ、よろしゅうございました。本当に、本当に……!」
駆け寄り、その膝元で泣き伏せる。
「やっと起きたか、寝ぼすけ」
現れるなり腕を組んで悪態をついたのは、葵亥。於稲はにこっと晴れ晴れとした顔で微笑む。
「心配かけたな。ありがとう、二人とも」
葵亥は少し照れたように「おう」と短く返し、茜子は感涙してむせび泣いた。弟は姉にうんざりしたような視線を投げてから、その目を信幸に向けた。
「おい、信幸」
「何かあったか」
承知したように、信幸は於稲から離れた。すかさず茜子が彼女に抱きつく。
ああ、と葵亥は頷いた。その顔は、常よりも厳しい。
「宇都宮に着いた陣の方に、昌幸から遣いが来たらしい。天狗だ」
「父上から?」
夫婦の顔が曇った。
「『急ぎ犬伏に来られたし。米山薬師堂にて待つ』だってよ」
「犬伏か……一日で着くだろうか、急がねばな」
「殿」
於稲は思わず彼の袖を掴んだ。信幸は一瞬きょとんとした顔で振り返り、すがるような妻の目に微笑む。
「今度こそ、信じて待っていられるな? ……わたしも、生きてそなたと共にいたい」
於稲はゆっくりと頷く。けれど、掴んだ手を離せない。
「それに、わたしのいないこの城を頼めるのはそなたくらいだ。留守を任せた」
於稲は大きく息を吸い、手をほどいた。
「……わかりました」
うん、と信幸は満足したように笑う。そして真面目な顔で葵亥に振り返った。
「右京は?」
青年忍者は目を閉じて首を横に振った。
「そうか。──茜子、あとはよろしく頼む」
「はい」
茜子はやっと涙を拭った。
「よし。では行こうか、葵亥」
空は青い。どこまでも、青い。その眩しさに、仰いだ信幸はわずかに目を細める。
『兄ちゃんがついてるからな』
『な、元気になったら一緒に遊ぼう。朝から晩まで、ずうっと一緒に遊ぼう。だから早く、元気になれ』
『うん。約束だよ、兄ちゃん』
眩しすぎて、瞼を閉じた。
(──大丈夫だ)
気持ちは、決まっている。
『約束だよ……』
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