嵐⑤
「……何をしているの」
草天狗は椀を持った於稲を見るなり、彼女に走り寄った。床に落ちた白い包み紙を見咎めると、さっと拾い上げて匂いを嗅ぐ。それからわずかに残っていた粉末をぺろ、と舐めた。
美しい顔が険しく歪む。
「これを呑んだの──吐いて、早く!」
草天狗は──右京は、悲鳴のごとく叫んだ。於稲は驚いた様子もなく、首を振る。
「いいんじゃ」
「どうして。毒よ、これは──知っていて、呑んだのね……!」
低くなった声に、於稲が淡く微笑んで頷く。右京は声を空回せながら言った。
「於稲、どうして……死にたいの」
「わらわは……消えて、なくなってしまいたい」
瞼を伏せて、於稲は告白した。毒がまだ回りきっていないのか、身体は常のままだ。
「このままでは、わらわの存在は信幸殿を苛むだけ。あのかたのしがらみとなるくらいならば、この身などいらぬ。殿の足枷になるなどごめんじゃ」
「於稲……」
「わらわが死ねば、信幸殿は徳川から解放される。真田に還れる。これが一番正しいのじゃ。おぬしもそう思うであろう、右京? だからおぬしは、わらわを殺めに来てくれたのであろう」
微笑みかけられて、右京は目を丸くする。けれどやがて、少し眠たげに瞼を半分下ろした。その目がわずかに揺れて明るくなったのを、於稲は見た。
「……そう、よ。於稲は……いらない。あなたがいると、信幸様は徳川から離れられない。けれど真田は豊臣を裏切れない。だから」
口調は、いつもの彼女と同じ。ふわふわと、どこか現実から隔たれたところを見ているような。
「逃げて、と言うつもりだった」
右京は少しだけ首を傾げて、寂しそうに言う。けれど歌っているようにも聞こえた。
答えるように於稲は笑む。
「それでは足りぬ。ただ離れるだけでは。それこそ、信幸殿はわらわを見捨てきれずに苦しむよ」
優しいかただから。だから、あのかたの決して手の届かないところへ、いきたい。
そうね、と右京は小さく笑った。
「ねぇ。『逃げて』と言って、それでもあなたが行ってくれなかったら……ちゃんと殺そうと思った。わたくし、天狗だから」
ゆっくりと、夢見るような瞳で、女は語る。
「そうか」
「怒らないの?」
うふふ、と笑う右京はどこか艶っぽい。だが嘲っているわけではない。人懐こい笑みだ。そしてどこか壊れた笑みだ。
「怒らぬよ。逆の立場であったなら、わらわも同じことをする。どんな残酷なことでも──」
くらりと一瞬、眩暈がした。暑くも苦しくもなかったが、汗がこめかみを伝った。だが、そのまま言葉をつなげる。
「愛しい人の哀しそうな顔など、見たくないから。……のう?」
ピク、と右京が表情を消した。本当に、人形のように。
「……なに、それ。分からない」
その声は無機質に響いた。
於稲は笑う。
「恋する女は無敵という」
「恋? ……そんなもの、知らない。わたくしは知らない」
「知らない、か?」
微笑は、母親のように。
「──やめて」
右京は突然叫んだ。そして激しく於稲を睨む。怯えているようにさえ見えた。
「嫌い。大嫌い、あんたなんか。早く死んじゃえばいい。あんたは
声音も口調も、全く違う。感情を言霊にして叩きつけるような、激しい声。
「消えて。早く消えて。早くッ、死んじゃえ!」
(右京)
初めて見た、本物の右京だ。いや、初めて見た、というのは少し違う。初めてはっきりと、封じられていた右京と向き合った。
「……そう、わらわは禍じゃな。心配しなくとも、もう消えるよ。けれど、わらわはおぬしが心配じゃ」
かすかな息苦しさ。それでも於稲は、右京に問いかけた。
「右京。そうやって生きる右京は……幸せ?」
漆黒の瞳が大きく見開かれる。
右京は、闇に生きる者。物心つく前よりそう繰り返し繰り返し言われ続けて、闇でしか生きられなくなった。そして、光がなくては闇として存在できなくなった。闇は光がなくては闇でいられないのだ。
きっと、そう。
右京が「於稲」を慕うのは、『光』が彼女を慕ったから。右京が沼田に暮らしたのは、遠く離れた『光』に代わって兄のそばにいるため。『光』を補い、満たすため。
───どうして?
あたしのお父上様は、真田の当主だったんでしょ?
なのに、どうして。あたしはこんな暗がりで生きなくちゃならないの。
ねぇ。どうして……
叫び続けた右京は、知る。当主の子でありながら、影としての人生を宿命づけられた男児がいたこと。
けれど彼は、表の世界へと出た。闇から飛び出した。
いまだ闇に浸っている少女にとって、それはまさに『光』。
「右京、おぬしは」
あの人が、苦しむから。彼を、彼の最愛の兄と争わせたくないから。だから、わらわを殺めてしまいたいのではないか?
言いたいことは、まだあったのだけれど。
「──あぁ、あ…ッ」
突然、於稲は全身を激しく震わせながら倒れこんだ。椀が床を転がる。
息ができない。声も出せない。喉がヒューヒューと不気味に鳴った。
右京はまた一つ、瞬きをする。そして思い出したように笑った。
「於稲、苦しいの?」
ほんの少し眉を下げて、倒れ伏した於稲の顔を覗き込む。
於稲は重い胸を押さえて、やはり全身を強く震わせる。だが、目だけはしっかりと右京を見ていた。
「かわいそうな於稲」
それは、どんな酷いことも罪悪感の欠片も持たずにやってのける、真白な赤ん坊と同じ。
「わたくしが、楽にしてあげる」
にっこりと微笑む。そして冷たい手を、於稲の首に絡ませた。
「於稲のこと、大好きだから。あなたのそんな苦しそうな姿、見ていたくないもの」
右京、とわななく唇で呼ぶ。けれど恐怖などはない。
なんてあやうい女性だろう。崩れそうに笑うのだろう。
「於稲、好きよ。愛してる」
ぐっと、右京は恍惚とした瞳で手に力を込めた。
暗闇の中で歪んでしまった少女の思い。光を求め、焦がれ、叶えようとする。それは、恋と呼ぶにはあまりに狂気に溶けてしまっているけれど。
「ねぇ、わたくしが殺してあげる。だって、いつも信幸様ばっかり……。於稲を妻になさって、子供を産ませて。だから、あなたの最期くらい、わたくしにちょうだい」
甘い瞳から、涙がこぼれていた。けれど笑っていた。
「ね、いいでしょう?」
だって、愛しているんだもの。
右京はさらにきつく締めつける。その手はかすかに震えていた。
「……う、きょ……」
於稲は苦痛に顔を歪めたが、何の抵抗もしなかった。
ただ、闇に冒されてしまったこの少女を、解放してあげたい。
『なんで、俺が兄貴じゃなかったんだろう』
あの言霊に縛られたままだというのなら。叶わなかった彼の恋心を、己の狂おしい愛しさに包めて成就させようというのなら。まだ、間に合うなら。
「……ッ、わらわ、を殺め……その想いを遂げよ。右京……!」
「於稲」
右京はもう笑ってなどいなかった。子供のように、ただ泣きじゃくっていた。
(のう、右京……)
自分に素直なふりをして。どこまでも押し殺してきた本心は、悲鳴を上げているだろう?
「そうしたら。もう……目を、醒ませ」
右京は泣き喚いた。泣きながら、於稲の首を絞める。扉を開くように。
目が霞んだ。意識が徐々に剥がされていく。そうして、於稲は静かに瞳を閉じた。まつげに弾かれた涙がつう、とこめかみを伝う。
これでいい。これが正しい。
(わらわはもう、良いから)
もう充分幸せをもらった。子供にも恵まれたし、安穏で楽しい日々を過ごせた。
信幸と、会えた。
本当はそれだけで。
(……ああ、なんて)
なんて幸せ。でも……だから。もう消える。消えて、なくなる。
「のぶ……ゆき、ど…」
どうか。どうか幸せに。あなたこそ、どうか。
生きて、幸せになって。
この命のことなど、忘れてしまって構わないから。覚えていてなんて、贅沢は言わないから。
どうか。どうか……
白い手が力なく、板床の上に落ちた。
真白な意識の最後に
信幸の優しい笑顔だった。
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