嵐④


 小山おやまに向かう信幸軍は、いったん下野しもつけ鹿沼かぬまに陣をしいて落ち着いた。

 不安定な空に遊ばれて、歩は速くない。それは秀忠軍も同様らしく、天狗の知らせでは、彼らが小山に着くまで早くてもあと数日。どちらが先に着くかは微妙なところだ。


「曇ってきたな」


 西からやってきた雲は、厚い。それが雨をもたらすことは容易に知れる。


 信幸は床机(腰掛)に腰を下ろし、息をつく。陣の内も外も兵が忙しく行きかっているが、彼だけは落ち着き払っていた。

 そして痛いくらいに感じる視線に、苦笑をもらす。


葵亥あおい、言いたいことがあるなら言うといい。余計な遠慮は身体に毒だぞ」


 返ったのは、どこか釈然としない沈黙。姿は見せないものの、その不満げな表情が安易に想像できた。


「出てきたらどうだ? 誰にはばかる必要もないだろう」

「……あー」


 やはりブスッとした顔で、葵亥は信幸のすぐとなりに降り立った。


 突然影から姿を現した青年に、周りの若侍たちはヒッと悲鳴を上げた。腰を抜かした者もいる。

 信幸は顔をしかめた。


「こら、人をおどかすものじゃない」

「あのなぁ!」


 出て来いと言われて素直に出てきた葵亥は、カッとして怒鳴る。けれどすぐに冷えた。 

 冷えて、眼差しはいっそう鋭さを増す。


「なァ、右京うきょうはどこにいンだ?」

「ん? ……知らないよ」


 信幸はにっこりと、含みのある笑いを浮かべる。葵亥は目元をキッと険しくした。


「お前が知らないはずねぇだろ」

「いや、本当だ。でも最近姿を見かけないから、きっと上田の父上のところにでもいるんじゃないか」


 葵亥はじっと睨めつけていたが、さらに「多分な」と言われて諦めた。その一瞬の表情を見てか、信幸は楽しげに笑い出す。


 その様があまりに楽しげだったからこそ、葵亥は「本当に聞きたかったこと」をつい口にしてしまった。


「……お前、どういうつもりだ」


 腰を下ろした一軍の大将を前に、葵亥は仁王立ちしている。だが信幸はにこやかに返した。


「何が?」

「三成が挙兵した」

「らしいな」

昌幸まさゆき信仍のぶしげはどうするんだ」

「本人たちに聞いたらどうだ?」

「お前はどう思っているんだ!」


 また怒鳴る。今度は周りの兵たちがにわかに気色ばんだ。潜む草天狗たちも同様だ。


 しかし、信幸はあくまでも穏やかに受け答える。少しだけ困ったように。


「……どうやら、皆に聞かせる話ではないようだ。場所を変えようか」

「殿」


 止めるべく声がかかる。葵亥は無礼が過ぎるだけに、近習の将からは快く思われていなかった。有能な忍者と言っても所詮よそ者であるから、警戒されるのは当然だ。


「心配ない、これは弟だ」

「は」


 耳にした者全て、葵亥も含めた全員が固まった。


「外に出よう。誰もついて来なくていい」


 ぽかんとした男たちを尻目に、信幸は軽装で陣から出る。

「待てこらァ!」


 顔を赤くして、葵亥が追う。


「誰がてめェの弟だ、ボケッ」

「はっはっはー」

「何だその笑いはっ、人の話を聞けッ」

「於稲は、お前を弟のようだと言った。妻の弟はわたしの弟。違うか?」

「勝手に決めんな──ッ」


 取り残された兵たちに聞こえたのは、その雄叫びまでだった。





 二人が身を移したのは、小川のほとり。濁った水面に青空が映ることはない。


「……で、どうするつもりだ。本当に三成は挙兵したんだぞ。本当に、家康様と豊臣方で戦になるんだ」


 葵亥の声は荒い。信幸は変わらず平静だが、もう笑みはなかった。


「そうだな。そうなれば、真田が三成殿からの寝返りの誘いを受けることは間違いないだろう。信仍は喜び勇んでそちらに向かうはずだ」

「……向かうのか」

「向かう。あれは本当に秀吉公が好きだった。実の父上より父のようだと。豊臣姓を戴いた時はたいそう喜んでいたよ。そばに置いてもらった恩もあるだろうし」


 信幸は真顔だ。声も重く、低い。


「親父さんは」

「父上は家康殿が嫌いなんだ。兄上──わたしの伯父上たちを殺されたこともあってな。仇が天下を取るために協力などするものか」


 やけに淡々と、そして確信を持って信幸は言う。

 これでは、まるで。


「おねいを騙したのか」


 葵亥の瞳に殺意が走る。だが、信幸はたやすく否定した。


「まさか。わたしは別に、シゲや父上が裏切らないとは言っていない。わたしは裏切らないと言ったんだ。──それにしても、葵亥は全く野暮な真似をする。覗き趣味か」

「天狗飼いに言われたくねェよ! ……じゃあ、お前は本当に、信仍たちと戦うつもりなのか」

「そうだ」

「そうだ、って」


 葵亥はただ信じられなかった。見開かれた瞳に映るのは、どこまでも真剣な真田の嫡男。


「なんでだ。なんで……、おねいに惚れてるからか?」

「それはどうかな。合っているようだが、微妙に違うかもしれない」


 信幸は少しはにかむように笑む。その目は青年忍者を捉えた。


「わたしが生きているからかな」

「あぁ? ──お前、知って……!」

「草天狗を甘く見ないほうがいい」


 葵亥が小松姫に届けた密書。その内容を、知られていた。知っていた、この男は。


「何で……黙っていられたんだ。知らないフリなんかしてられたんだよ」


 信幸は答えようと口を開いたが、結局何も言えずに閉じた。


「そんでどうして、自分を殺そうとした徳川につこうなんて考えになるんだ。どうなってんだ、てめェの頭は!」

「殺せと言われて、於稲はわたしを殺さなかった。それだけだ。……人の心を縛るモノなんていうのは、結局そういうことなんじゃないか」

「………わかんねェ」

「若いな」


 噛みつくような表情の葵亥に、信幸はくつくつと笑う。兄貴ぶりやがって、と舌打ちし、葵亥は背を向けた。


「俺は徳川伊賀忍だ。でもお前にはちっとは愛着があるから……信じてやってもいいぜ」

「ありがたい」

「裏切ったら殺すからな!」


 言い放つと、葵亥は走り去っていった。「物騒なことを言う」と信幸は苦笑いで見送る。


「……若様」


 声は、高い緑葉の影から。よく見知っている草天狗だ。信幸は淡く笑んだまま、顔を上げることはせずに答える。


「ん、何だ望月もちづき

「本気でございますか」

「わたしは嘘をつかない主義だ」

「……では、本気で真田を裏切るおつもりですか」

「は?」


 信幸はこみ上げた笑いに肩を揺らす。思わず上を見た。


「裏切りはしないさ。敵対するだけだ」


 いぶかしむような沈黙が返る。信幸は笑いをかみ殺してさらに言う。


「お前の言う『真田』とは一体、誰のことだ。父上はな、周りが思っているよりもずっと打算好きな人間だぞ」

「は……それは、いかような?」

「家のためなら手段を選ばないということだ。……だが」


 スッと、笑みが消えた。目は伏せられる。


「シゲは……わたしを恨むかもしれない。裏切り者と罵るかもしれないな」


 それは、憂いをおびた笑み。寂しさを想う声音。

 天狗は言葉を失う。


 その沈黙を破るように、陣の方がにわかに騒がしくなった。


「何だ、どうした」


 殿、と叫ぶように呼ぶ声がする。


「若様」


 血相を変えてやってきたのは、やはり草天狗。常なら山伏の姿で全国を回っている者だ。


「何の騒ぎだ」

「は、──疲弊しきった伊賀忍らしき女が、若様を出せ、と喚いておりまして」

「伊賀忍」


 の、女。信幸は顔を曇らせた。考えられることは色々とあるが。


茜子あかねか?」


 言うなり、足早に陣へ戻る。


「信幸」


 その姿を見つけて叫んだのは葵亥だ。彼は、息も切れ切れにぐったりとした女に肩を貸し、こちらに向かおうとしていたところだった。女は彼の実姉──やはり茜子だった。


「茜子。どうしたんだ、こんなところまで……城で何かあったのか」


 見る限り、茜子は手傷などは負っていない。だが苦しそうに呼吸を乱し、あえぐ声に何かを訴えようとしている。


「姫、姫様……姫様が……ッ、あ、あ……!」

「於稲が? 於稲がどうしたのだ」


 茜子の着物は泥にまみれていた。なりふりかまわず、何かを伝えるためにここまでやってきたのだとすぐに想像がついた。


 葵亥は気づいて顔をしかめる。


「待て。茜子、お前たしか、家康様のところへ文を届けに行ってるはずじゃなかったのか」


 茜子は必死な様で頷く。それから、ぼろぼろに汚れた紙を差し出した。


「これは?」


 受け取った信幸はすぐさま目を通した。そして凍りつく。

 その筆跡は、見慣れた妻のもの。


「馬鹿な!」


 それは、家康宛の文。そこに並べられたのは、めいに背いたことへの謝罪の言葉たち。そして、自らの命をもって償う、と。そう書き記されていた。


 茜子は土に汚れた頬に涙を流した。そして呻くように、「右京様は……」と呟く。


 ──右京は、どこ。

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