嵐③
《のう茜子。これを、家康様に届けてきてくれぬか》
《文、ですか? ………あの、姫様。姫様は…》
《答えなど、城主殿を見れば分かるであろう? ピンピンしておられるぞ》
《は。……これで良いのですね。そう、これで良いんですよね、姫様》
城主の妻は、ほのかな光のように微笑んで頷いた。
ようよう、夜が明ける。やがて顔を出した朝日は、青い天を差した。
心をすくわれそうな晴天の下、
「お気をつけて」
「ああ」
「どうか……ご武運を」
城主の妻は静かに微笑んでいる。けれど、その目は少し伏せられていて、信幸の顔を見られずにいた。
「於稲」
信幸は彼女の白い手の先を軽く取った。周りの兵士たちは息を呑んですぐさま目をそらす。城主が自分たちの前で小松姫に触れることなど、全く珍しいことだった。
それでも信幸は、武士としての恥よりも、男として女に「伝える」ことを優先した。今、この時だけは。
「わたしは帰って来る。そなたと子供たちの元に、必ず帰ってくるよ」
「信幸殿」
そのひたむきな目を、於稲は見つめ返すしかできない。
「だから、信じて待っていてくれ」
淡く微笑む。そして手を離した。
温かな手が、離れた。
「出陣!」
馬に乗り、信幸自らが号令をかけた。その手が掲げたのは、赤漆の軍扇。青天に高く翻る、黒地の軍旗。そのどちらにも描かれた金文字は、真田六文銭。
それは、一文銭を三個ずつ横二列に並べた紋。合計六個の銭は、
覚悟。すべてを覚悟した、遠い背中。振り返らない。
「──……っ」
信幸殿、と。叫べずに、震える唇だけでその名を呟く。そして涙を堪えて俯いた。
「母上様?」
「母上、どうしたの?」
膝元で、子供たちが心配げに於稲の顔を覗き込んだ。
「何でも、ないんじゃ。何でも……」
たまらず、於稲はかがんで子供たちを両腕に抱きしめた。
ぱた、と静かに涙がこぼれた。
慰めてくれる手などない。
信幸の温かな手は、もう手放してしまった。
一六○○年七月十七日。石田三成を筆頭とする豊臣家五奉行から、徳川家康討つべしとの連署状が出された。その報はただちに家康のもとへ届けられた。
「よう食らいついてきたわ、若僧め」
家康は薄い笑みを絶やさない。
「上様。果たして、決戦の場は
膝をついた忠勝が、緊張した面持ちで尋ねる。
「さァて。全国を巻き込んだ大戦だ。どこでサルの子分と出会うかわからんが、天下を分ける大決戦なのだから、合戦場も
「と、おっしゃられますと。……美濃あたりに?」
家康は瞼を下ろして悩む仕草を取った。だが口元は緩い。
「んん……琵琶湖と名護屋(名古屋)の間など、広くて良いな。戦は祭りだ。盛大にいかなくてはならん」
「それでは……関ヶ原の辺りでありますね。あとは西軍(豊臣)の進軍速度にもよりましょうが」
「遅刻厳禁だ」
悠然と笑う姿に、忠勝は徳川の勝利を確信した。
そこに、ふっと影の匂いがかすめる。
「──半蔵か」
家康は徳川伊賀忍の頭たる者の名を口にする。忠勝は顔を強張らせた。
どこからとも知れぬ声は低く、ひそやか。
「は。上様、沼田より茜子が参りました。小松姫様からのお文を携えております」
「なに……」
家康の笑みが曇った。
三成挙兵の報せは、前線からやや遅れたが、草天狗を通じて沼田城にも届いた。
城に残った留守部隊は息を呑んだが、だからと言って別段何かことを起こすわけでもない。留守として残ったからには、城を守り、城主の帰還を待つことのみに神経を使うだけだ。
幼すぎる子供たちは、変わらず元気。人の減った城は、子供の笑い声をのぞいてはすっかり静かになってしまった。
夕方になると、雨が降り出した。遊びつかれた仙千代などは、夕餉を食べて少しもしないうちに眠りこけている。
その枕元に膝をついた母親は、いとし子の寝顔に素直に笑みをこぼした。自分に似ているかどうかは分からないが、長男である仙千代の容貌はその父親をよく写していた。だからこそ、彼のあどけない寝顔に心が安らぐ。そして切なさに疼く。
柔らかな頬にかかった髪を指先で退けてやって、一度だけゆっくりと瞬いて立ち上がった。
世界は静けさに抱かれた。
於稲は一人、自室に戻る。その手には、水の入った一杯の小さな椀。
(まだ、間に合う)
信幸殿、まだ間に合うでしょう?
日が沈み、泣き続ける空は暗い。けれど、あの嵐の夜ほどではない。
風はないが、雨はだんだんと強くなっていた。途切れることのない雨音が空間を埋めつくす。塞いでいく。
涼しく、空虚な静寂。
於稲は襖を閉め、障子戸も閉めた。
(答え、など)
三成は挙兵した。戦は止められない。
(一つしかない)
迷いなどない。
於稲は褥ではなく、部屋の角にもたれるようにして腰を下ろした。そして懐から薬包みを取り出す。中には、白い粉。曇天よりまっさらで、雪よりよどんだ白色。
その白を、さらさらと椀の水に溶かす。水は一度濁ったが、すぐにもとの「水」になった。何の匂いもない。さすが家康が寄こした薬だと、感心しつつ妙に納得する。
これが、一番正しい。黙っていくことは、許して欲しい。幼い子供たちをおいていくことも。
(わらわの死が、信幸殿に届いて)
そうしたら。彼は迷わず、豊臣についてくれる。
徳川方が勝つか、豊臣方が勝つか。それは分からないけれど。
(どうか)
この命が神仏のもとに届くなら、それが信幸の加護となりますよう。
於稲は強く祈って、椀のふちに口を付ける。
瞼を閉じ、味のないそれをくいっと飲みほした。
その瞬間、急に雨音が耳に近くなった。サッと開かれた障子戸に、雨闇を背にして草天狗が立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます