嵐②


 七月を幾日か数えた。

 沼田城は出陣の準備に大忙しだ。信幸は当然のごとく家康の命を受けて、討伐軍に従い真田軍を挙げることにした。

 それは上田の昌幸と信仍も同じで、信濃真田軍と上野真田軍は下野(栃木県)の小山で落ち合い、そこから家康の嫡男・秀忠の軍の案内役を務める次第になっている。


 空は、今にも泣き出しそうな鈍色にびいろ。一度も姿を見せなかった太陽は、厚い雲の裏で沈もうとしている。


「……では、それでいいから。後は頼む」

「はっ」


 廊下で短く立ち話をした後、若い小姓は一礼して足早に去る。否、彼は小姓に身をやつした草天狗の一人だ。


(これで、準備は整ったか)


 信幸はふぅと息をつく。兵の支度は一通り揃った。軍議の意見もまとまった。


(さて、ゆっくり眠るとするか……)


 ここのところてんやわんやの大忙しで、まとまった睡眠など懐かしさを覚えるくらいだ。そして明日からは、睡眠不足などとは言っていられない。


 出立は、明朝。日が昇る時。


 柔らかな衾(掛け布)に包まれての安眠など、今日を逃せば当分得られそうにない。


「よし」


 寝所に向かいながら、信幸はまた考え込む。そういえば最近、妻にかまってあげられていなかったな、と。彼女も彼女で子供の面倒にかまけてばかりだったから、ゆっくり話をする時間もなかった。


(今夜は甘えさせてあげようか)


 思って、ふと苦笑する。「あげる」ふりをして、「もらう」のだ。自覚はある。そんな自分が嫌いではない。


 何にせよ、戦に出かければまたしばらく離れ離れになってしまう。最後の夜くらい夫婦水入らずも良いだろう。


(最近、元気がないようだしな……)


 近頃すれ違いが多いのは、故意的に避けられているからではないか、とも思う。思い返せば、ここ数日彼女の様子がおかしい。わざとらしいくらい元気に子供の相手をしていたり、ふとした時に眉を下げてぼうっとしていたり。

 ちょうど、嵐の夜の頃から。


 それは、きっと。


「―――ん」


 我知らず遠い目になっていた信幸に、清らかな琴の音が届いた。聞きなれた耳には、その微妙な癖だけで誰が弾いているのか容易に知れた。於稲だ。


 信幸は寝所に向かっていた足を、音の響く曹司の前で止めた。襖は開かれたまま、於稲は一人で琴を弾いていた。


「……美しいが、何やらもの悲しくなる音色だな」


 於稲は何も聞こえなかったかのように、まるで夫の存在を無視して弦に向かい続ける。


 別段その態度を咎めることもせず、信幸は部屋に歩み入り、壁を背にして胡坐をかいた。息をついてから、耳をすます。


 城主の妻たる者は感情の宿らない瞳で弦だけを見つめ、無言で弾き続けた。そうすることで何かに耐えているように。必死で感情を塞き止めているように。


 繰り返し繰り返し、音を紡ぐ。

 震えているのは弦であって、於稲の細い指や肩ではないはず。


 信幸はしばらく妻の伏しがちの顔を見つめ、それから瞳を閉じてじっと聴き入った。


 音色は、切ない。儚いようで、鬼気迫るような激情を秘める。たとえるならば、恋に囚われた女のそれ。

 追いかけるように、逃げるように。

 追いつかれて、捕われる。

 絡み合って、溶ける。

 彼方まで。


 突然琴の音が途切れる。信幸が目を上げたのと同時に、胸に於稲が飛び込んできた。


──」


 信幸は一瞬目を丸くする。だが不意に、妻の肩がいつになく頼りなさげに見えてしまって、言葉を呑み込んでその背に腕を回した。しっかりと。

 淡く笑んで顔を覗き込む。


「……於稲おいね?」


 驚いたことに、彼女は泣いていた。夫の胸に顔を埋め、彼の衣をきつく握りしめて。苦しそうに声を押し殺し、肩を震わせている。


「於稲、どうした」


 答えはなく、かすかな嗚咽がもれるのみ。


「於稲……?」


 信幸は抱きしめる腕に力を込めた。ほかにどうしてやれば良いのか全く分からなかった。思えば、於稲がこうして泣いているのを見るのは初めてであったから。


 仕方なく、幼子をあやすのと同じように、彼女の黒くしとやかな髪を撫でた。


 衣ごしに伝わる於稲の頬の熱。それに侵されてしまったのか、信幸の胸もじんわりと熱くなった。


 頬が、ほころぶ。

 泣いている妻を前に勝手かもしないが、信幸は満ち足りた心地であった。普段は勝気な彼女が不意に見せた弱い姿が、たまらなく愛しく思えた。


「於稲………」


 彼女の額に、頬を寄せる。

 本当はずっと、こうしたかったのかも知れない。もしかしたら出会った時から、もうずっと、長い間。いつも強くあろうとするこの女性を、この腕の中で泣かせてあげたかった。抱きしめて閉じ込めて、自分に甘えて欲しかった。


「行くな、信幸殿……ッ」


 やっと於稲が口を開いた。涙混じりの絞り出すような言葉に、信幸はわずかに顔を曇らせる。


「於稲? 何の話だ」

「……ッ…」


 於稲はまた胸を詰まらせた。その胸では、ただ「行かないで」と叫んでいた。


 だって。


(――殺せるはず、ない…!)


 無言のうちに涙だけが溢れる。


 信幸の出立は夜明け。何をするのもしないのも、今夜まで。

 時間がない。けれど今ならまだ、間に合う。


「行く、な……お願いじゃ、お願いだから…!」

「於稲」


 殺せない。殺せるはずがない。


「今度の戦は……罠じゃ。わらわの養父ちち、家康様の策略、天下を取るための……!」


 泣きながら、於稲は明かした。必死だった。


「今度こそ力ずくで天下をとるおつもりじゃ──逆らえば手加減はくれぬ。徳川に仇なそう者は、この機に一掃してしまおうというのじゃ。あのかたは、今回の挙兵で石田三成殿をおびき出し、諸国大名を巻き込んで豊臣の天下に決着をつけられる。……そうなれば、真田はどうなる? 信幸殿はどうされます」


 昌幸の正室、つまり信幸の生母である山之手と信仍の正室・利世姫は今、大坂に囚われている。その首に手を掛けることができる人間こそ、石田三成。真田はすでに人質を取られているのだ。しかももともと三成は昌幸の親友である。やはり、豊臣につくのが自然な流れのようであった。


「信仍殿も昌幸殿も、大坂に縁のあるおかた。特に信仍殿は秀吉公をあれほどに慕っておられた……その豊臣を裏切ってまで、徳川の天下のために戦うとは思えませぬ」


 叫ぶように言うと、於稲は泣き崩れた。信幸は厳しい面持ちで押し黙ったが、於稲を抱きしめる腕が解かれることはなかった。だからこそ、切ない。


 いっそ、殺してくれたら。今ここで、この身を切り捨ててくれたなら、楽になれるのに。


 信幸は何の気兼ねもなく親兄弟とともに戦えるし、自分は哀しみから解放される。

 それが一番正しいような気がした。

 けれど彼が決してそうしないのも、分かっている。


 ああどうして。いつの間に、こんなにも…


「わたしは徳川を裏切らない」


 低い声ははっきりと、そう告げた。


「なに、を……」


 瞳を震わせて、於稲は彼を見つめる。信幸は真摯な目でそれに応えていた。


「何を、馬鹿なことを。それがどういうことになるのか、分かっておられるのですか。それとも、昌幸殿も信仍殿も徳川につくとでも思っておられるのですか!」

「いや……それはわたしには判断できないよ。信仍は秀吉殿のことを実の父のように慕っていたし、確かにあれは豊臣に走るかもしれないな。父上も、徳川にどこまで尽くすかは計れない。もともと家康殿とは折り合いが良くないから」


 やけに冷静に語る信幸に、於稲は憤る。


「だったら!」

「それでも。わたしは徳川を裏切らない。……そなたを裏切ったりはしない、絶対に」


 於稲は言葉を失くす。まっすぐな夫の目を、ただ見つめる。


「信じてくれ」

「……それは……お父上や信仍殿と、戦うということですか。あんなに仲の良かった兄弟が、争うと……」


 呆然と、目を見開いたまま尋ねた。

 信幸は一度瞬いて、ゆっくりと言った。


「まだ信仍たちが裏切ると決まったわけではない。だが万一そうなったとしたら、わたしは徳川の家臣として彼らと戦うよ」

「昌幸殿は殿のお父上でありましょう? 信仍殿は血の繋がった兄弟なのでしょう。それなのに!」


 信幸は静かに俯く。


 予感はあった。自分の進む道は、いつまでも弟と同じところに繋がっているわけではない。


(いや……もしかしたら、もう)


 ずっと昔から、二人の道は完全に違えていたのだろうか。

 幼い頃、よく考えていた。なぜ自分たちは双子で生まれてきたのか。そして最近、よく思う。自分たちが二人で生まれてきたのは、きっと、別の道を――


 信幸が黙りこくってしまい、於稲は更に泣きじゃくった。


「行かないで下され、信幸殿。なぜ殿と信仍殿が争わねばならぬのじゃ……」


 戦となれば、命を懸けるのは武士として当然のこと。生き残るのに情など必要ない。それは於稲の父・本多忠勝も弟たちも、家康にとっても変わらない。


 だが、於稲には哀しいほど分かっていた。信幸が、肉親と争うことを戦国の世よと簡単に割り切れるような男でないことを。彼は優しい。けれど逃げ出すほど臆病でないから、余計に辛い。優しく誠実な人間こそ、傷つきながら戦っている。


(なぜ、信幸殿がこんなにも苦しまねばならぬのじゃ……こんな、優しいかたが)


 胸に問いかけながら、答えはもう分かっていた。 


 信幸が豊臣側に走れない理由。───妻である自分だ。徳川の娘、小松姫の存在だ。


「わらわは……わらわは何も考えていなかった。徳川の名を背負うわらわが、夫となる人間をどれだけ縛りつけるか……取り返しの、つかないことに」

「於稲、それは違う。わたしがそなたを望んだのだ。……それにな、わたしは家康殿が天下人になるに足りない人物だとは思っていないよ。今あのかたが天下を取るというのなら、それが最善のように思う。この国にとって」


 信幸はまた彼女の髪を撫ぜて言った。やはり優しい目だった。


「………どちらが勝つ?」


 泣きつかれた様子で夫に身体を預け、於稲が呟く。


「わからない。今のところ、豊臣派と徳川派はちょうど五分五分、互いの力は拮抗していると思うが……いつ誰が裏切るか」

「……信仍殿が徳川についてくれたら」


 於稲は哀しそうに眉を下げた。信幸は片手で彼女の頬の涙を拭ってやり、揺るぎない意志のもとに言う。


「信仍には信仍の、わたしにはわたしの信ずる道がある。生きるとはただその道を突き進むこと。誰にも邪魔はできないのだ」


 たとえ、親兄弟でも。

 信仍が自分の道に口を出すことは許さない。

 自分が信仍の道に口を出すこともできない。

 戦わねばならぬのなら、戦うまで。この命かけて。


「殿……どうか」


 於稲が声を震わせる。信幸はいつものように穏やかに微笑んで彼女に口づけ、強く抱きしめた。


「……死なないで、信幸……!」

「大丈夫だ」


 この女性を守ろう。可愛い子供たちを、城の人間たちを。大切な人を守るために、戦おう。…それは敵も同じことなのだろうけれど。──大丈夫。


「気持ちは決まっている」


 澄んだ笑みであった。


 けれど。於稲の瞳は涙で潤んで、そのまっすぐな眼差しを受け止められなかった。それが二人の距離。


(今なら、まだ間に合う)


 まだ、間に合うから。

 答えなど決まっていた。それしかなかったのだ、最初から……

 白い悪魔は、いまだ於稲の胸で眠っていた。

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