猫と初恋の話⑤



「父上の言ったことは、気にするな」


 灯台の灯りに照らされた信幸のぶゆきは、床に寝そべって頬杖をついた。表情に滲んでいるのは、この上なく甘い微笑み。無造作に背に掛けた単衣からは、引き締まった胸板が覗いている。


「わかっております。けれど…お世継ぎのことは、真面目にお考えになった方が良い」


 於稲おいねは小袖を頭から被り、そこから顔だけ出して言った。ややもすると裸の肩がさらされてしまう。


「真面目に? 考えているよ。だけど側室をとるつもりはない」

「わらわに遠慮する必要はありませぬ」


 信幸は目を据わらせた。


「そなたは、わたしが他の女といてもかまわないと?」

「………それは、本当は……嫌です」


 くす、と笑いがこぼれた。


「素直になったな、随分」

「言わないでおいて、後で後悔するようなことになっては悔やみきれませぬもの」


 於稲は開き直っていた。あれだけ駄々をこねた後でイイコぶっても仕方がない。


「だがのう、信幸殿、本当に男子が生まれなかったらどうするおつもりです? 真田の人間が皆困ってしまう」

「今からそんな心配をしなくてもいい。わたしたちはまだ若いのだし、時間はたっぷりある。たまたま一人目が女児だっただけの話だろう。そなたまでがそんな風に言っては、まんが可哀相だよ」

「……そうですね」


 まんはいまだ右京が預かったままだ。外はすっかり暗くなって、皆ももう床に就く頃。それでも誰一人城主とその正室を探しに来ないあたりは、やはり右京の取り計らいなのだろう。


「右京とのことも、今日初めて知りました」

「ん? ……ああ。婚約など形だけのものだ、頼むから妙なことを考えないでくれよ」

「妙なこととは何です、余計に怪しい……なんて、右京にちゃんと説明してもらったから、たいして気にしておりませぬ。隠されていたことには、少々腹が立っていますが」


 身じろぐと、白い足先が衣からはみ出た。冷ややかな空気に触れて、慌てて引っ込める。


「隠していた、というか……そんな意識がなかっただけだ。浜松で家康殿にそなたとの結婚を勧められてから、わたしはそなた以外を妻にする気はなかった」


 さらりと言われた言葉に、於稲は照れて俯く。

 その肩から、黒髪がさら…と流れた。


「わらわは右京が殿の側室になるのは、嫌です。許せませぬ。けれど、他のかたであれば……我慢、し」

「側室はとらないと言っている」


 於稲の言葉を遮って、信幸がきっぱりと言い切った。


「そなたも父上も、焦りすぎだ。──いや、そなたがそうなったのは、父上のせいか」


 少し考えるように視線を落として、それから於稲に笑いかける。


「父上は、少し神経質になっているだけだ。ご自分が三男で家督を継いで苦労したのもあるだろうし、わたしと信仍が生まれたときも揉めたから」

「えっ?」


 信幸と信仍が生まれたときに、揉めた、とは?


「なぜです。信幸殿は長男なのだから、皆に喜ばれたのではないのですか」


 今度は信幸が目を丸くする。そして、何か気づいたように一層見開いた。


「……すまない」


 突然謝られても、於稲は困ってしまう。


「何がです」

「そなたにはもっと早く話しておくべきだった」

「だから、何が? もう何を聞いても驚きませぬぞ」


 内心、まだ隠し事があったのかと呆れた。けれど今話してくれると言うのだから、大目に見てやろうという気になっていた。


 うん、と信幸は真面目な顔をして頷く。


「そなたが幼い頃『おねい』と呼ばれていたように、わたしの通称は源三郎といった」


 知っております、と於稲は瞬く。


「信仍は、源次郎というんだ」


 それも、於稲は知っていた。

 この時代、武将というものは名を二つ持っていた。一つは通常その人を呼ぶ時に使う通称。もう一つは実名である忌み名=諱である。例えを上げれば、かの織田信長の前者は三郎、後者が信長ということになる。


 通称には数字がつくことが多い。だがその数字が生まれた順にそのまま比例するかというと、必ずしもそうとは言い切れなかった。やはり信長で言えば、彼は三郎であるが次男だ。


 だから、信幸と信仍の通称の数字についても深く考えたことはなかった。けれど、ここで彼がわざわざそれを口にするということは。


「一つ下の弟だと、周囲には言ってあるのだが。本当は、わたしたちは同じ年、同じ日に生まれた」


 それは、真田家の闇に葬られた秘密。


「双子なんだ」


 信幸は至極穏やかに告げた。





 雪が降っていた。年の瀬も迫った、本当に寒い日。


 甲斐国かいのくに躑躅ヶ崎つつじがざきで産声が上がった。生まれた赤ん坊は二人。ともに男子。けれど、賑やかな泣き声は、一つ。


 先に世に出た子は、それは健やか。産まれてすぐにわんさか泣き、それに飽きると乳を求めた。


 後に世に出た子は、仮死に近かった。それでも何とか息をつなぎ、命を繋ぎとめた。


 しかし父親は、弱い我が子を殺そうとした。双子は不吉、しかも使いものにならぬと切り捨てようとした。泣きすがってその子を守ったのは、母親。昌幸の正室・山之手であった。


『どうか、どうか! この子には何の罪もありません。死にかけて生まれながら、まだ何とか生きているのです。きっとこれこそ天の思し召し。この子は生かされるべきです』

『双子など、家に禍しか呼ばぬ。二人で争いあって真田の家を潰すことになるのなら、今のうちに絶っておくべきぞ』

『いいえ。ならば、この子たちを双子でなくしてしまわれればよろしいだけのこと。命まで奪う必要が何処にありましょうか』


 振り上げた刃を止めた昌幸に、草天狗の一人が言った。戸隠山で修行した巫女だった。


『占に寄れば、二つの魂はどちらも健全。生かしておいて損はありません。……世継ぎは二人要らぬと申されるのならば、昌幸様。どちらか一人を影にしてしまわれればよろしいのです。生まれた子は、一人。影は二つ。真田の命運をかけた戦になれば、最高の駒となるでしょう』


 なるほど、と昌幸は頷いた。ならば健やかなる方を我が嫡男とし、いつ息絶えるやも知れぬ方を影としよう、と。


 真田の家は、代々の長子が不運にも夭折することが続いていた。ゆえに昌幸は、その禍を避けるため長男には「源次郎」と名付けることにした。


 待って下さい、と山之手が言う。


『せめて、その名だけでも。双子は本来、後に生まれた子が兄であるもの。表の世に出ずに一生を終えるやも知れないからこそ、この子に兄たる名をお与え下さいませんか』

   



「──けれど、しばらくして。真田は同盟の証として上杉家に子を人質に出さなくてはならなくなった。だけど嫡男は手放したくない。父上は仕方なく、影の方を次男に仕立て上げて送り出したのだ」

「それが……信仍殿?」


 信幸はやはり、どこまでも温和な様で頷く。


「諱の方は、祖父上・幸隆、父上・昌幸と受け継がれた『幸』の一字を、真田家の嫡男として信幸わたしが継いだ。代わりに、長男としての源次郎の名は信仍が戴いた」


 於稲は俯いて黙る。その肩がわなわなと震えていることに、夫は気づかない。


「今でこそうるさいほど元気になったけれど。幼い頃のシゲは本当に病弱で、よく寝込んでいた。……うーん、ちょっと信じられないかもな、それは」


 苦笑いに返ったのは、低い声。


「……信じられませぬ」

「やはりか? でも昔はよく、わたしが付き切りで看病したりして」

「信じられませぬっ!」


 於稲はいきなり大噴火した。


「なぜそのような大事なことを、今まで黙っておられたのですかっ。わらわは信幸殿が信じられませぬ。右京のことは過ぎたことといえども、言い忘れたにもほどがありますっ」


 於稲は小袖一枚のまま、スパンッと勢いよく襖を開け放つ。


「ま、待て、於稲。そのような格好でどこへ行く」

「今夜は茜子あかねの部屋にでも泊めてもらいます。殿は独り寝で頭をお冷やし下さいッ」


 パァンと乱暴に戸は閉じられた。怒れる足音はドタドタと遠ざかっていく。


「…………」


 言われたとおりにしようかとその場に腰を落として、信幸はふぅと息をついた。




「茜子ェ」


 住み込みの侍女が寝泊りする部屋に押しかけ、於稲は茜子に泣き付いた。まさか本当に涙を流していたわけではないが。


「まっ、まあ姫様──って! そ、そそそそそのお姿は一体どう……」


 あらぬ勘違いをした茜子は、顔面蒼白になる。於稲はぷんすかと鼻息を荒くして首を振った。


「別にどうしたもないわッ。茜子、わらわは今夜ここで眠る。狭くしてすまぬなっ」

「は、はぁ? 何です、それは。殿と喧嘩でもされたのですか」

「知らぬッ」


 ばさ、と於稲は衣の海の中に横になった。


「寝る!」

「………お休みなさいませ」


 もうそう言うしかない。

 茜子は灯りの下で針仕事を続けた。その温かな衣擦れの音を聞きながら、於稲はまどろむ。

 荒々しい呼吸は、やがて安らかな寝息に。


 夢路に降りた瞼裏で、少年が振り向いた。


『なんで、俺が兄貴じゃなかったんだろう』


(……ああ…)


 その言葉の本当の哀切を知った。






 ともすると、城の皆がまだ夢から醒めきれぬ早朝。


 朝日に白んだ空を、鋭い切っ先が裂く。


 庭先で一人、薙刀の稽古に励んでいるのは、城主の妻。於稲はどんな日でも毎朝の稽古を欠かさなかった。素振りをし汗を流さなくては、一日が始まらない。


 けれど、今朝は珍しく見物人がいた。


 於稲は素振りを止めることなく、彼の姿を横目で捉えて、またすぐ視線を戻す。


「何かご用ですか」

「おはよう。朝から精が出るな」


 信幸はあくまでものほほんと笑う。だから於稲はきつく睨んだ。薙刀を振り回す腕も止まる。


「どうして殿は、そう──、………はぁ」


 また説教しようとしたのだが、何だかどっと疲れた。怒りの言葉はため息となって、信幸に届く前に地に落ちる。


「於稲」


 信幸は裸足のまま土を踏む。薙刀を片手にした妻に歩み寄ると、首筋の髪をさら、と撫でた。


「何です?」


 つれなく返して、於稲は目を据わらせた。


 にこり、と青年が微笑む。そしてひどく穏やかに少女を抱きしめた。


「あのな、……」


 耳元で、そっとささやく。それは、少女がずっと欲していた言葉。恋うていた睦言の葉。蜜なる耳打ちは、どこまでもひそやかに。


 少女はただ、言葉を失う。


 信幸は少し身を離し、微笑して妻の顔を覗いた。


「どうやらわたしは、そなた無しでは夢も見られないらしいよ」


 だからもう離れるな、と言う。


「……阿呆…」


 少女はわずかに潤んだ瞳を隠すように、愛しい青年の胸に頬を埋めた。


 明けゆく春の空は、晴れ。


 信幸は少女を腕に抱いたまま、満開の桜を眺めた。

 柔らかな風が吹くと、薄紅の花びらが一つ二つ舞った。

 それは、雪にも似て。




 於稲が二人目の子をはらに授かっていることに気づいたのは、それからほどなくしてのこと。

 翌年生まれたのは、父親に似て健やかな、男児。仙千代せんちよ(後の信吉のぶよし)、真田家の新しい嫡男の誕生である。この報が昌幸を狂喜させたことは言うまでもない。


 その後、二人は更に次女・まさ、次男・百助ももすけ(後の信政のぶまさ)に恵まれ、沼田城は賑やかになっていった。


 また文禄三年(一五九四)、信幸は従五位下伊豆守に叙せられ、懇意にされていた秀吉から豊臣姓を下賜された。この時、信仍も同時に従五位左衛門佐に叙せられ、同じく豊臣姓を許されている。

 その時の誇らしげな弟の顔は、信幸に印象深かった。


 穏やかな日々が続いた。本当に、穏やかすぎる日々。

 まるで、夢のような。

 そんな毎日がずっと続くような気がしていた。

 けれどそれは錯覚。夢は夢。

 時は止まることを知らない。残酷なまでに。


 慶長三年八月。蝉がやかましく啼いていた。それは、夢の終わりを告げるように。

 その訃報は瞬く間に大八洲を駆け抜けた。

 天下人・豊臣秀吉の死に、日出づる国が揺らいだ。


 くるくる、からから。 

 歯車は回る。

 くる、くる。から、から…

 時を巻き取り、運命を紡ぎながら。

 歪んだ。

 その音は、ぎしぎしと。

 歪みながらなお回って、そう笑っていた。


 そして、加速する。

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