猫と初恋の話④
部屋についた頃には、さすがに於稲の頭も話の整理を完了した。
夕焼け色の障子を信幸が閉めると、於稲はつっ立ったまま、思い切って尋ねた。
「信幸殿、あの。どういうことでありましょう?」
「だから……そういうこと、だよ」
信幸は褥に腰を下ろす。その隣にしかれた褥をポンと叩いて、於稲に勧めた。
「そういうこと、では分かりませぬ」
於稲は素直に信幸の隣に膝をついて、上目遣いに彼を睨む。
「だって、おかしいでしょう。いつ、わらわの幼名をお知りになったのです。それにその猫が生まれたのだって、まだ上田のお城にいた頃なのでありましょう?」
信幸は無言で唸り、視線を逸らした。その煮え切らない態度に、於稲はむきになる。
「殿! お話し下さい、わらわは納得できませぬ」
「わ、わかったから、あまり顔を近づけないでくれ」
いつのまにか身を乗り出していた於稲は、黙って腰を落ち着けた。そして目で催促する。強気だ。
「……つまり、だな。わたしは結婚するより二年ほど前に、浜松でそなたを見かけたことがあったのだ」
於稲は驚きつつ、押し黙ったまま信幸をまっすぐ見つめた。
「あれは徳川との戦の直後……和議が成った祝いに呼ばれた時だったな。宴で酒を勧められてもちっとも酔えなくて、わたしはふらりと城の中を散歩していた」
気の赴くまま歩を進めていると、やがて厩についた。なかなかの駿馬揃いだと思って眺めていたら、後ろの方から蹄の音が近づいてくる。と、思った瞬間にはものすごい勢いで黒馬が突っ込んできた。
『うわっ』
信幸はなんとか避け、土に尻餅をついた。馬は目の前で急停止し、何事もなったかのように飄々とぶるん、と啼いた。
『どう、ようしよーし。ああ、気持ちよかった』
乗っていたのは、まだ年端もいかぬ少女。逆光で顔はよく見えない。太陽のまぶしさに、信幸は目を細めた。
『……ん、何だ、おぬし?』
少女は信幸に気づき、見下ろす。なかなか答えが返らぬので、馬から飛び降りた。
『城のおかたか?』
信幸は言葉もない。言葉を奪うほど、少女はまぶしかった。まだあどけなさが残る面立ちは随分と若かったが、それでも信幸は言葉も心も奪われた。
欲しいと思った。
『そのようなところに尻をついては、衣が泥まみれになるぞ』
少女はそれだけ言うと、興味が逸れたように馬の世話を始めた。信幸が声を掛けようかと思った瞬間に、今度は怒号が鳴り響いた。
『おねーいッ。お前はまた勝手に上様の馬を乗り回して!』
反射的に信幸は茂みの影に隠れた。そして現れた人物に目を見張る。徳川四天王が一人、本多忠勝。
『あー……すみませぬ、父上。この馬がどうしてもと申しますので』
『ええい、馬が言うか、そのようなこと! 今日は客人が来ておるのだ、おねい、お前は失礼のないうちに早く屋敷に戻っておれ』
『………えー』
その目はまだ遊び足りないという風だ。
『おねいッ』
『分かりましたよぅ』
少女は渋々ながら答え、そのまま立ち去った。さらさらと黒髪が鳴っていた。
「おねい」。それがあの子の名前。徳川の武将・本多忠勝の娘。
……叶う想いじゃない。わかっている。
だけど、忘れたくない。覚えているだけなら、許されるだろう? 生まれたての子猫を抱いて、信幸は焦がれた名を呟いた。
「─―と、いうわけだが。……まさか再会するとは……その上結婚することになろうとは、夢にも思わなかったな」
於稲は答えない。彼女は今、猛烈な勢いで記憶をさらっていた。だが、全く思い当たる節がない。
確かその頃は、毎日馬を乗り回していて、そして父に叱られるのが日課であった、ということだけは覚えている。その日々の中に、信幸がいたなど。にわかには信じがたかった。
うぅんと頭を悩ませている於稲の肩に、信幸は手を伸ばす。そして軽く胸に寄せた。
「再び浜松の城で出会ったときは、驚いた。目を疑い、耳を疑い、夢でも見ているのかと思ったよ」
「そんな風にはとても見えませんでした」
「そうか? だいぶ混乱していたのだが……」
疑うような於稲に、信幸は苦笑する。
「まぁ、いきなり扇で顎を持ち上げられて、そなたにじっと見つめられたら、どんな男でも何も言えなくなってしまうだろうがな」
「でも信幸殿は、わらわを叱って手を退かしたではないですか」
そう、あの瞬間だ。あの瞬間に、於稲の人生は揺り動かされた。
「ああ、あれは、」
信幸はまた照れたように笑って何かを言おうとしたのだが、ふと口を噤んでしまった。
「『あれは』、何です?」
「いや、……秘密にしておくよ」
「は、何です、気になります。話してくだされ」
「秘密だ」
ただ、一瞬でいいからその手に触れたかったなど。告白したらきっと呆れるだろう?
思いながら、信幸は笑う。
その笑みがあんまり嬉しそうだったので、於稲はしばし見惚れてしまった。ハッと我に返ったときには、頭の上に置かれた彼の手の心地よさも手伝って、食い下がる気になれなかった。
「それにしたって。……どうして今まで黙っておられたのです?」
於稲は瞼を下ろし、片耳を夫の胸に預けた。
「どうやらそなたは覚えてはいないようだったからな。わたし一人が覚えていたのでは、何か悔しいではないか」
言いながら、信幸は於稲の髪を撫でた。そして気づいたように「ああ」と呟く。
「そういうことだから、本当はそなたが家康殿の実の娘ではないこと、最初から知っていたのだ」
信幸ははにかむように苦笑する。
「再会した日に家康殿と二人で話す機会があって、あまり深く考えないで尋ねてしまったよ」
『姫はいつから家康殿の娘になられたのですか』。
家康はただ驚いていた。そして、嫁に貰わないか、と楽しげに言った。
その瞬間、曇天の世界が初めて彩られたのを、今でもよく覚えている。
「わたしは運が良かっただけかもしれない」
「……いいえ、そんなことはありませぬ。信幸殿であったからこそです。上様は殿の才気を見抜かれたのですもの」
「はは、そうなら嬉しいことだな。期待に応えなくては」
世界は夕闇に閉ざされる。
信幸は妻の首に手を回して、深く口づけた。それから柔らかな唇が首筋を撫ぜるので、於稲の胸は甘くとろけてしまう。
が。ハッと、やけに唐突に我に返った。
(流されておるッ!)
いつもこうだ。さっきもそう。こうして、はぐらかされたまま。だから駄目なのだ。
於稲はぐいっと身を離した。
「於稲?」
「もうその手には乗りませぬ」
於稲は決心していた。『思い切って本人に聞いてみたら』――背を押してくれた右京のためにも。
(よし)
今度こそくじけないように気合を入れる。その瞳は炎のように熱く燃えていた。
「はっきりおっしゃって下され。――信幸殿は、わらわのことを一体どう思っておられるのです?」
「ど、どうとは……」
突然の詰問に、信幸は面食らった。
「今、話したとおりだ」
「わかりませぬ」
「わかるだろう」
「わかりませぬ!」
一目惚れしたらしい、というのは確かに聞いた。だが、それはもう過去の話。過ぎた日のこと。
欲しいのは「今」だ。
信幸はただ怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたのだ、いきなり。変だよ」
「変? 夫の気持ちが知りたいと思う妻の、どこが変です」
「……今さらだよ」
「今聞きたいと申しておるのです」
たまらず大声になってしまった。だが逆に押し黙られて、於稲は癇癪を起こした子供のように顔を歪める。
「どうして何もおっしゃって下さらぬのです。信幸殿はいつも笑っておられるだけで、何を考えているのか、わらわにはわかりませぬ。ちっとも、わからない…! 後生です、何か、言って」
「於稲」
肩を震わせる妻を、夫の両袖がしっかりと包む。沈黙が下りた。
しばらくして口を開いたのは、信幸。
「……こういうことは、むやみに口にすると、安っぽいものになってしまうんだよ」
「言葉にしなければ分からぬこともあるでしょう」
「頼まれて言っても意味がない」
「いいから言って下され」
「稲」
信幸は苛立ったように、乱暴に彼女の輪郭をとらえて顔を上げさせた。出会った強い眼差しに、於稲は怯む。
「では言う。わたしの気持ちは言葉にできない」
そして、頬を包んだ手は優しくまつげを撫ぜた。
「それでも伝えたいと思うから、こうするのだ」
閉じた瞼に、軽く唇が触れた。離れると、今度はきつく抱きしめられる。本当に、体がきしむほど、きつく。
「於稲。……分かれ」
声は、絞り出すように。
彼の肩に頬を埋めて、於稲は小さく呟く。
「……自惚れてしまうやも知れませぬ」
「いいよ。いくら自惚れても、きっと足りない」
信幸は少し腕を緩め、於稲と額を合わせた。優しい、優しすぎる瞳。
胸が熱くなる。全身が熱情に侵されて、声にならない。
(ああ……)
本当だ。本当に、言葉にできない。
於稲は狂おしいまでの愛しさを込めて、夫の頬に口づける。
信幸の唇は、そのまま柔らかな妻の胸元へと落ちた。
「於稲……」
二人の間の、何かが、変わった。
於稲は初めて信幸に触れられた気がした。それは支えになる。
於稲は信幸の両袖をぎゅっと握り締め、問う。
「信じて、いいのですね」
「ああ。信じていてくれ、そなただけは……」
少しして、衣擦れの音の中にフッと苦笑が零された。だが、於稲は気づかない。
ようするに、信幸にも言葉が欲しくなる日があったということ。そして、見栄を捨てて幼子のようにそれを求めた於稲こそ、信幸に想いを言葉にして伝えたことはなかったということだ。本人はまるで気づいていないらしい。
けれど、責めないでおいてあげよう。何も言わずに信じよう、この女性を。気持ちなど、背に回された細い腕から、ちゃんと伝わってくるから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます