猫と初恋の話③
「………どういういうことじゃ」
母屋の縁側に着いたところで、
於稲が軽く息を切らせながら問うと、右京はまんを抱きなおして縁に腰掛ける。そして小さく笑った。
「……怒ってしまった? 於稲」
「怒っているわけではない。だが……説明して欲しい」
それは本音。於稲も右京の隣に腰掛け、預けていたまんを受け取った。
右京は胸に手を重ねて小さく息をつくと、いつものゆっくりとした口調で語りだした。
「叔父様の話は、本当。確かに、わたくしは
それは、信幸と於稲が浜松で出会うより二年ほど前の話。
「だけど婚儀の直前になって、信幸様が徳川の姫と結婚したいと言い出して。叔父様と大喧嘩になったのよ。
語る右京に、哀愁などはない。まして憤怒の念など微塵もない。だからこそ、於稲は戸惑う。
「知らなかった……」
「黙っていてごめんなさい。だけど、知る必要のないことだと思っていたの」
ピク、と於稲の眉がつり上がる。
「なぜ? 右京は……信幸殿を恨んだりしなかったのか。わらわを恨めしいとは思わなかったのか」
「え? ……どうして? そんなこと、思うはずないじゃない。ふふふ、嫌だわ、もう」
おかしくてたまらないと言う風に、右京は明るく笑う。於稲はますます眉根を寄せた。
「笑い事ではないであろう」
そうだ、笑い事で済むはずがない。
於稲は突然横から現れて、それも徳川という権力を着て、婚約者を横取りしていったのだ。捨てられた、という昌幸の言葉は間違っていないはず。
なのに、なぜ右京はこんなにも呑気に笑っていられるのか。
「だって。わたくし、信幸様と結婚したいなんて思ったこと、一度もないんですもの。信幸様は優しいしお強いし、従兄としては仲良くやっているけれど。……そうね、信幸様に限らず、わたくしは誰とも結婚なんてしたくないんだわ」
「そう、なのか?」
於稲が目を丸くすると、右京はこっくりと頷いた。
「わたくしはね、誰かの妻なるなんて性に合わないのよ。忍びだもの。子供を産んで育てて、屋敷の奥に籠もることなんて考えられないわ」
「……忍びだから?」
「そう。小さい頃から、わたくしは真田のためにと言われて修行してきたの。そして、真田のために影で戦うことがとても好き。生きてるって、思うの」
真田のために、と言われて、於稲の耳奥に甦ったのは「徳川のため。そして本多の家のために」という声。
記憶の底の、幼い自分の声だった。
「わたくしは戦から離れたくないのよ。離れては生きていけないの。だから、結婚なんてできないわ。たとえ真田の男とでも」
「なら……どうして右京が信幸殿の
「従妹だから、じゃないかしら。真田の当主はもともとわたくしの父だったから、後釜の叔父様に不満をもつ家臣も多かったの。そこで、わたくしと信幸様が結婚して、生まれた子供が真田を継ぐことになれば、正統な血筋に戻ることになるし。家を一つにまとめたかったのね、きっと」
聞いていて、ふと不思議に思った。
「のう、右京は当主の子であったのに、なぜ忍びなどをしておるのじゃ」
単純かつ、純粋な質問。そして、その答えも随分と簡単なものだった。
「わたくしは『天狗』の子だから。母は草天狗のくノ一だったの」
右京はにっこりと笑って言った。
「父も母も、幼い頃に死んでしまったわ。だから、お姫様になる後ろ盾なんてなかったのよ」
右京の父は、昌幸の長兄・信綱。彼は十六年前、長篠の合戦で武田軍につき戦死した。そして兄に代わり家督を継いだのが、昌幸である。
「でも、不幸だなんて思わないわ。やっぱりわたくしは天狗の子。闇の中を飛び回ってるのが本来の姿なの」
だからね、と右京は可愛らしく首を傾げる。
「信幸様と結婚せずに済んで、実はホッとしたの。『小松姫』に感謝もしたわ」
「……そうか」
そういう生き方もあるのだな、と於稲は妙に納得した。お家のために嫁ぐ女があれば、お家のため、戦うために嫁がない女もいる。どこか理不尽で、当然のこと。
「ずっと言われてきたわ。わたくしは信幸様と
於稲は右京が頼もしく見えて、そしてほんの少し羨ましくなって、微笑んだ。その笑顔が、右京にはどう映ったのか。
「あ、でも、於稲と一緒にいるときの方が幸せよ。於稲が幸せそうにしていると、わたくしも幸せ」
於稲は愛の告白にも似た言葉にきょとんとして、それから苦笑をもらす。
「ふ、あははは、おかしいな、右京は」
「まぁ。わたくし、真剣なのに」
右京は拗ねたように唇を尖らせてみせたが、やがて大人びた顔で庭を眺めた。
「だからね、於稲。いつも幸せでいてね。……なんて、お願いしなくても大丈夫なのでしょうけど」
於稲はほのかに微笑んで俯く。どこか哀切の滲む表情で、幼い娘の頬を撫でた。
「のう、右京。わらわは本当に幸せじゃ。……なのに、なぜかな。自信がない……」
「何の自信?」
於稲は答えようと口を開いたが、その答えは自分でも情けなさ過ぎて声にしたくなかった。仕方なく、言葉を変える。
「……さっきの……、信幸殿の言葉、わらわは嬉しかった」
『わたしは側室をとる気はありません』
『於稲を傷つけるようなことはしたくないんです。わたしには…あの
胸がいっぱいになった。もうその言葉だけで充分だと思った。
「けれどな。信幸殿は優しすぎるから、本音なのか気を遣ってくれておられるのか、わらわにはわからぬのじゃ」
結婚して二年。けれど北条氏との長引く戦で、ともに過ごせたのは実質一年ほど。
その間、於稲は信幸からはっきりとした「言葉」をもらっていない。優しさは充分すぎるほどもらった。温もりも、心休まる笑顔も、溢れるほど。
けれど、言葉だけが、ない。
もしも、彼の愛情が全て徳川への遠慮であったとしたら――
「怖いのね」
於稲は素直に頷いた。
「でも……わたくし、信幸様はそんなにできた人間ではないと思うわ」
「へ?」
思わず間抜けな声を上げた。於稲が知る中で、信幸ほど大人びた人間はいない。しかし右京はたやすくそれを否定する。
「信幸様は権力への遠慮なんかで人を愛したりなさらないわよ。フリだってしないわ、そんな面倒くさいこと。疲れてしまうもの」
「……信幸殿は優しいから……」
「馬鹿ね、於稲」
右京はきっぱりと言い切った。そして「でも、そこが可愛いわ」と笑う。
「信幸様が優しい、なんて。それは確かに、人一倍物言いの柔らかいかただけれど……本当に優しくしているのなんて、身内だけよ。於稲は自分が誰より優しくされているから、気づかなかったのね」
於稲はぽかんとした。右京はくすくすと笑う。
「だって、ねぇ。さっきだって、信幸様は於稲が聞いているとは思わずに、父親にあそこまで言ったのよ? それのどこに気遣いや遠慮なんてする必要があるというの」
「それは、……でも」
頬杖をつき、於稲はむぅと難しい顔をしてこぼす。
「わらわは何か、ずっと一人で空回っておる気がするのじゃ」
「信じてさし上げたら。――なんて、口で言うのは簡単よね」
右京も顎に手を当てて困ったように頷く。それから、閃いたようにパンと手を叩いた。
「こうなったら一度、思い切って本人に聞いてみたらどうかしら」
「えっ、信幸殿にか?」
「人間はせっかく言葉を持っているのだもの。勇気を出せば、信幸様だって、ちゃんと答えて下さると思うわ」
右京は名案とばかりに得意げに言った。その果てなしに明るい笑顔にこそ、於稲は勇気づけられた。
「……そうじゃな」
自分たちには、言葉が足りなかったのかもしれない。きっと、そうだ。
「ありがとう、右京。何か元気が出てきたぞ」
さあっと於稲の心に夏の陽に似た光が差した。彼女のからっとした表情に、右京も微笑む。いや、ニヤける。
「あのね。わたくし、信幸様は実は於稲に一目ぼれしてしまったのだと思うの」
「………はあ」
また何を根拠に。
於稲の疑わしそうな目にもめげず、右京は陶酔したように力説する。
「於稲は結婚の前に、浜松のお城で信幸様と会ったのでしょう? きっとそのときよ。だってね、それまでは、わたくしと結婚するのもしょうがないみたいなことをおっしゃっていたのに、お城から帰るなり嫌だ嫌だの一点張り。あんなに頑なな信幸様、初めて見たわ。お屋敷のみんなも驚いていた」
(そういえば……)
あの時、家康は「
「それにしても、信幸様が話の分かるかたで助かったわ。もし側室になんてされて於稲に嫌われてしまったら、わたくし、泣いてしまう」
「……わらわも、泣いてしまうな」
二人は一瞬見つめ合って、今度は小さく笑いあった。
まんの寝顔は、健やか。落ちゆく春の日差しは、柔らかく暖か。幸せだ、と思った。
「………なに二人してニヤニヤしてんだ?」
不審をあらわにした顔でやってきたのは、
ノノイは小さく鳴き、葵亥の手から飛び降りて、右京の足へ擦り寄った。
「あらあら」
「ふん。──おねい、信幸が呼んでた。親父さん帰るって」
「そうか。見送らねばな」
於稲は眠ったまんを抱いたまま庭に下り、門へ向かった。
ノノイを抱き上げ、右京もその後につく。それからふと、そういえば、と首を傾げた。
「ねぇ。葵亥はどうして於稲のこと『オネエ』って呼んで、
「あン?」
「右京、それは」
葵亥は問いの意味をつかみ損ねたらしく、怪訝そうに眉を歪める。代わりに於稲が訂正を加えて答えた。
「お姉、ではなくて、おねい。わらわの幼名じゃ」
「え? おねい?」
「舌足らずで悪かったな」
葵亥はさらに機嫌を損ねたようだった。そんな彼など眼中にないように、右京は瞬きを繰り返しながら「おねい?」と何度も呟く。
「どうかしたか、右京」
「また羨ましいだのズルイだの言って、今度はおねいって呼び出すんじゃねーか?」
違うわ、と右京は少しムッとした。
「おねい。於稲は、そう呼ばれていたの?」
「うむ、いつ頃までだったか……於稲と呼ばれるようになったのは、まだ最近のような気がするのう」
「於稲が、おねい。小松姫が、おねいなのね」
得心したように頷くと、右京は頬を染めて嬉しそうに笑い出した。
わけの分からないその笑顔は、於稲と葵亥にはどうにも不気味だ。右京の突飛な言動には、なかなか慣れることができない。
「どっ……どうしたのじゃ、右京。何か変な物でも食べおったか」
「うふふ、え? やぁね、何も食べてないわよぉ。──ねぇ、わたくし、少し間違っていたみたい」
「は?」
「ふふふっ」
右京は夢見る少女のように瞳を輝かせて、軽い足取りで昌幸と信幸のいる門に走った。ノノイの鈴がりんりんと鳴った。
「叔父さま、お帰りですか」
「おお、右京」
昌幸はどこか右京に甘い。けれど視界に於稲が入った瞬間、表情が強張る。
「ああ、わしはもう帰るでな。右京、信幸のことはお前に任せた」
「はい」
答える右京の笑顔が、静かに温度を下げた。もっとも、昌幸は気づいていなかったのだが。――はっきりと表には出さないものの、昌幸が於稲を嫌う分、右京は昌幸を嫌っていた。気づいているのは信幸くらいだ。
「お気をつけて」
まんを抱えた於稲が挨拶すると、昌幸は目を逸らして、何か聞き取れないくらいの小声で返した。そして従者に手を借りながら、馬に乗る。
「ではな。信幸、男児が生まれたら知らせろ。本妻の子でなくていい」
於稲は顔を伏せた。信幸は無言で睨み返す。
一人、右京は、思い出したように明るく言った。
「ああ、そうだわ、叔父さま。ねぇ、おねいは元気かしら?」
え、と於稲は目を丸くする。後ろで葵亥も首を傾げた。だが信幸だけは、ギクッと激しく顔色を変えた。
「う、右京……ッ?」
青くなった信幸に、右京はにっっっこりときらきらしい笑顔を向ける。すると信幸は、今度は突然カッと赤くなった。青くなったり赤くなったりと忙しい。
昌幸はかわいい姪に呑気に答えた。
「ああ、おねいか。変わらず山之手が可愛がっておるぞ。最近ちと太ったかのぉ。まぁ、元気にしておるわい」
「そうですの、良かった。ねぇ、信幸様?」
「……そう、だな」
信幸はわななく頬と声で答える。その笑顔は恐ろしくぎこちない。対する右京は至上の微笑みだ。
「のう、右京、何の話じゃ」
真田の家にもおねいなる人物がいたとは初耳だ。
右京はノノイを両手で前にぶら下げて言った。
「うふふ、上田のお城で飼っている猫の話よ。おねいっていうの。ノノイのお姉ちゃんなのにゃー」
「……ネコ?」
於稲は瞬く。右京はただ楽しそうに笑った。
「右京」
信幸は懇願するようにその名を呼ぶ。こんなにも落ち着きをなくしている彼は珍しい。
はぁい、と右京は答えて口を閉じ、ノノイを放す。だが信幸がホッとしたのもつかの間、追い討ちは馬上の昌幸からあった。
「そういえば、あれの名付け親は信幸だったか。懐かしい」
信幸はぎこちない笑顔のまま固まった。於稲が長いまつげを瞬かせる横で、右京は声なく笑っている。
葵亥は何となく察しがついて、下らねぇと唇だけで呟いた。
そんな若者たちの異様な空気にはまるで気づかず、昌幸は手綱を引く。
「では、さらばだ」
「また遊びにいらして下さいませね」
右京は上機嫌で手を振る。
供の草天狗たちが一様に頭を下げ、昌幸一行は遠ざかっていった。
砂煙が薄れた後に残る沈黙。信幸はまだ固まっている。ちなみに葵亥はさっさと退場していた。
しばらくの静寂ののち、於稲がつぶやく。
「偶然……じゃな」
至極平坦な感想。右京はうふふと、にこやかに笑う。
「偶然じゃないのよ? そうでしょう、信幸様」
「右京」
信幸が悲鳴に近い声を上げる。だが右京は怯まない。
「生まれた子猫に『おねい』と名づけて、わたくし、酔った信幸様に何からとったのと聞いたことがあるの」
「右京、やめろ、いい加減に……ッ」
信幸が彼女の口を塞ごうとするが、相手は忍び。右京はたやすく身をかわす。
「そうしたらね、『初恋の人の名前』ですって」
「右京ーッ」
絶叫しながら、信幸はやはり青くなったり赤くなったりしている。器用な体だ。
信幸はめったに酔わない体質であった。けれど、あの日は異様に気分が良かった。口元が緩くなっていた。それゆえにポロッとこぼしてしまった告白に、信幸は実はずっと爆弾を抱えた気持ちでいた。
そして今、爆弾は見事に大爆発を果たした。
「於稲、ほら」
右京は両手を於稲に差し出す。於稲は頭が回らず、促されるまま、眠るまんを彼女に預けた。受け取った右京はいたく満足げに「うん」と頷く。
「うふふふ、じゃあわたくしたち、お邪魔だから先にお屋敷に戻っているわ。あとはお二人でどうぞ」
言って、「於稲、頑張って」とこそっと耳打ちし、右京は天使とも悪魔とも見える笑顔で実に楽しそうに屋敷に戻っていった。
再び、沈黙。
信幸はだらだらと嫌な汗を流している。於稲はしばらく無表情で呆然としていたが、のろのろと俯いた。
「偶然……じゃな」
やがてこぼれ落ちたのは、同じ言葉。
まさかその「初恋の君」と自分が同一人物だとは思っていない。それは自惚れと言うものだ。そこまで堕ちたくはなかった。そもそも於稲と信幸が出会ったとき、於稲は小松と呼ばれる身であった。あの頃おねいと呼んでいたのは、やはり葵亥くらいなもの。
そう、どちらかといえば、信幸にもやはり恋い慕う女性がいたのだということに軽く衝撃を受けていた。それは不思議なことではないし、嫉妬する気もないが、動揺しているのが自分でもわかる。
それゆえに、頭の中がどろどろと混ざり合っていたのか。次に飛び出したのは、自分でも思ってもみなかった言葉だった。
「そうだ、そのかたを側室に迎えては?」
「稲? 何を」
信幸は驚いて、於稲の肩を掴む。そして彼女の壊れそうな表情にハッとした。
「……まさか、聞いていたのか」
於稲は迷いつつ、頷いた。
信幸は渋面で唸る。その顔は、綺麗に朱に染まっていた。
「いや………心配しなくていい。『そのかた』はもう、わたしの正室になっている」
於稲は顔を上げて、丸くした目で信幸を見た。表情をなくして、瞬きもせずに。
無言でじっと見つめられた信幸は、さらに赤くなる。
「つまり……そういうことだ」
信幸が照れたように口元を手で覆うので、於稲も急に恥ずかしくなってきて、また俯いた。その手を信幸が掴む。
「戻ろう」
「……はい」
於稲は彼に手を引かれて、顔を上げられないまま部屋に向かった。
夫婦、更には一児の親にさえなった二人は、夕日に照らされて真っ赤になっていた。
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