猫と初恋の話②
先に述べたとおり、
信仍はこのまま供の者たちを連れ、一路、大坂に向かうという。
見送りに出た
「ずいぶん急な話だな」
「ううん、大坂に来いとは前から言われてたんだ。俺も行くつもりだったし」
荷物を手に、信仍はニコッと笑む。
「秀吉様やねね様は、俺なんかにも良くしてくれる、優しくて明るい人だよ。お世話になってばっかりだから、いつか恩を返さないとバチが当たっちゃうな」
「そうか」
信幸は安堵したように頷く。一癖ある性格の弟ゆえに、彼は彼なりに信仍の暮らし向きを心配していたのだった。
昌幸は扇いでいた扇をパシンと閉じた。その顔に笑みなど微塵も無い。
「信仍。祝言をあげたら、お前も嫁に早く男児を生ませろ。信幸に万一のことがあれば、今度はお前が真田の家督を継ぐことになるのだからな」
それは於稲に対する脅迫のようでもあった。少なくとも於稲はそう思った。
けれど、信仍たちには全く違うものに聞こえた。
「父上は……勝手ですね」
返されたのは、冷たく澄んだ笑み。
そのように冷ややかに笑った信仍など、於稲は今まで見たことがなかった。
昌幸はぐっと唇を引き結び、息子を睨み据える。信幸は誰と目を合わせるでもなく俯いていたが、その瞳に宿る光は弟と同じに冷えきっている。
於稲は、兄弟と父親の間に流れる冷気に、初めて触れた気がした。
隣の右京は、常と変わらず微笑んだまま。
「……わしは庭でも見ておる。さっさと行ってしまえ、信仍」
昌幸は踵を返し、吐き捨てるように言った。
「はい、父上もお達者で。戦の折にはまた世話になるでしょう、ご指導よろしくお願いします」
「ふん、せいぜい体に気をつけておくことだな」
本当に一度も振り返らず、昌幸は庭園の方へ行ってしまった。
「シゲ、むやみに父上の癇に障るようなことを言うな。子供じゃあるまいし」
「うん……悪かった、ごめん」
信幸がため息混じりに言うと、信仍は素直に謝った。
「もう少し大人になれ。でないと、周りの人間が傷つくことになる」
「……うん」
「お前の素直なところはいいところだ。短所にしてしまってはもったいないぞ」
「うん」
しゅんとしていた信仍の顔がにわかに明るくなる。それから、荷物を馬の背に掛けると、自分も飛び乗った。
「じゃあ行って来るよ、兄貴」
馬に跨った信仍は、巣立ちする若鳥のようにたくましく見えた。
「ああ、道中気をつけてな。拾い食いはするなよ」
「しないよ。……それにしてもさ、兄貴はどうでもいいとして、
信仍はにこにこと、軽く頬を染めて言った。
「どうでもいい」と言われた信幸は、頬を引きつらせつつ、あごをしゃくる。
「まったく……お前のような奴と結婚するはめになった嫁殿に同情してしまうよ、わたしは」
「へーんだ、もしかして羨ましい? 羨ましい?」
「阿呆。この
ポン、と。信幸は於稲の頭に手を置いた。置かれた方の於稲は目を剥いて夫を凝視する。すぐ横の右京も「まぁ」と驚いたような声をこぼした。それほどまでに、信幸にしては珍しく情熱的な行動だった。
「そっか」
信仍はやけに納得したように頷く。
「アツアツなんだね、二人は」
「お前の方こそ羨ましいのではないか?」
信幸はちょっとした仕返しのつもりで言っただけだった。が。
「うん」
ほのかに笑んだ口元からの、どこまでも偽りのない声。瞳は、置いてきぼりをくらった子供のように寂しそうに見えた。
信幸は己の失言に気づき、口を噤む。どっちが子供かと後悔した。
「信仍殿」
黙り込んでしまった夫に代わって、於稲は微笑んで声を掛けた。
「大坂に着いたら、奥方殿を大切になされ。おぬしなら必ず女子を幸せにできるであろう。子が生まれれば、まんのいとこじゃ。仲良くできると良いな」
「……義姉さんは、幸せなんだね」
まんを抱いた於稲はにっこりと頷く。つられたように、信仍も笑った。
「良かった。じゃあ、今度はいつ会えるか分からないけど、元気で」
「信仍殿も」
「子供ができたらすぐに知らせろよ」
兄の言葉に、もちろん、と信仍は明るく答える。馬が高く嘶いた。
ふと、於稲は右京がずいぶんと無口であることに気づく。
「右京もほら、従兄に挨拶しなくて良いのか?」
「え……」
右京は少し驚いたように、控えめに微笑んだ。三人の視線が集まる。目が合った信仍は、彼らしくにこにこと笑う。
「右京、お前も元気でな。戦になったらまた会えるだろ、その時はよろしく」
「……はい、信仍様」
美しく、どこか儚げな右京の笑顔。それが一段と艶やかに見えたのは、長いまつげにかかる憂いのせいだったのかもしれない。
そんなふうに、於稲は思った。
「わたしは父上を呼びに行くから、そなたたちは先に中に戻っていてくれ」
信仍一行が旅立つと、信幸はそう言って昌幸のいる中庭へと向かった。
はい、と答えた於稲が落ちた扇を見つけたのは、そのすぐ後。
「む? これは……」
於稲は親骨に六文銭の描かれたその扇を拾い上げた。見覚えがある。
「確か、昌幸殿の」
「どうかなさった? 於稲」
右京が肩越しに覗いて、「ああ」と呟いた。
「それ、叔父様のよ。落としてしまわれたのかしら」
「やはりか。――右京、おぬしは先に行っていてくれぬか。わらわはこれをお届けしてくる」
「ええ? ……あとでお渡ししたら?」
右京は眉を曇らせて、於稲の袖を引いた。
「だが、なくしたと思っておられるかも知れぬし」
「でも……今は」
「大丈夫。すぐに行ってくる」
渋る右京にまんを預け、於稲は中庭へと足早に向かう。まんはすっかり夢の中だ。
「もう、於稲ったら、落ち着きのない人」
呆れたような台詞と裏腹に、声音は蜜のように甘い。だから好きよ、と歌うように呟いて、右京は於稲を追った。
於稲はすぐに気づいて振り返る。
「――あれ、右京。結局来たのか」
「於稲は目を離すと、何をしでかすか分からないんだもの」
右京は悪戯っぽく笑んで言った。
「失礼な。それではまるで、わらわが問題児のようではないか」
「まるで、じゃなくて、そう言っているの」
「右京に言われたくないぞ」
於稲は、一児の母とは思えないほど子供っぽくむくれた。
その後ろから。
「父上!」
憤りに満ちた怒声は、信幸のもの。
於稲は驚いて身を竦めた。普段はのほほんと呑気な彼のそばにいる分、信幸がこんなふうに怒鳴るなんて想像したこともなかった。
見つからないように、蔵の影からこそっと中庭を覗く。そこにいるのは、昌幸と信幸。父子は激しく睨み合っていた。
「なぜそんなにも於稲を敵のように言うのですか。あれは良い妻です。わたしは自分が間違ったとは思いません」
「そうか、なら何度でも言うぞ。今からでも遅くはない、あの娘とは離縁しろ」
ドクン、と於稲の心臓が跳ねた。
(……離縁?)
そこまで嫌われていたのか。そんなにも邪魔者なのか、自分は。
「於稲」
ひそりと右京がささやく。この場を離れようと言っているのだろうが、於稲は弱々しく頭を振った。離れたくても、足が凍りついたように動かなかった。
「徳川の力など、真田には必要ない」
「於稲と離縁する必要もないでしょう」
「真田の世継ぎも産めぬような女を、次期当主の正室にしておけと言うか!」
声を荒げた父親に、信幸は逆に少し落ち着いて言った。
「父上。父上は性急過ぎます。わたしたちは結婚してまだ二年と少しなのですよ。焦らずとも、そのうちきっと男児は生まれます」
「一年待たせて孕んで、十月十日待たせて産んで、産まれたのは女」
昌幸は唸るように、忌々しそうに顔を歪めた。信幸は呆れたようだった。
「一年で身ごもるのは遅くはないと思いますが。わたしはしばらく戦に出ていた時期もありましたし……。それに、初めに女子が生まれることなんて別に珍しくないでしょう。嫡男であるわたしにも、村松姉がいるではありませんか」
それは正論で、昌幸は眉間に深くしわを刻んで押し黙った。そして、独り言のように呟く。
「……あの娘は、不吉だ」
「父上?」
昌幸は射るように信幸を睨みつける。
「どうしても徳川の娘を手放したくないというのならな、信幸。せめて側室をとれ。このままでは、本当に真田が滅びてしまう」
於稲は声にならない悲鳴を上げた。
側室とは、いわば妾。平たく言ってしまえば認められた愛人だ。
この戦国の世、名のある家は、何より跡継ぎを作ることに死に物狂いになる。一夫多妻は古来より認められてきたこと。元気な男児を多く確保するために、城主ともなると側室の一人や二人……どころか、二桁いることもざらにある。家康や秀吉などはその典型だ。
だから、信幸がこれまで正室しか置かなかったことの方が、不思議といえば不思議だった。於稲がそれについて本人に尋ねたことなどないが、徳川に遠慮しているのだろうかと胸の片隅で思っていた。思いながら、ずっと不安だった。
信幸は沼田城主。真田家の嫡男。彼が側室を取るというのなら、それは仕方のないこと。於稲に口を出す権利などない。
ただ、嫌だ、と心で叫ぶ。
本当は出て行って大声で叫びたかった。信幸の胸にすがって泣き喚いてしまいたかった。けれど、動けなかった。
「於稲、行きましょう」
今にも泣き出しそうな於稲の肩に、右京が優しく手を置く。於稲はまんの安らかな寝顔を見て、うん、と頷いた。
その耳に聞こえた、静かではっきりとした信幸の答え。
「……わたしは側室をとる気はありません」
「信幸」
昌幸と同様に、於稲も耳を疑った。だが、信幸の表情も声音も、真剣そのもの。
「於稲を傷つけるようなことはしたくないんです。わたしには……あの
「下らん色恋に酔ったか、愚か者。あんな小娘に溺れて、いつか後悔するのはお前なのだぞ」
「後悔なんてしません。するはずがない。わたしは何も間違ってはいないのですから」
若く澄んだ目にまっすぐに見つめられて、昌幸は無言で睨み返す。そしていたく不快気に頭をかきむしった。
「ああそうか、好きに言っていろ。……こんなことなら、あの時何としてでもこの婚姻に反対しておくべきだった。お前は右京が哀れとは思わんか。結婚直前になって許婚に見捨てられた従妹に、憐憫の情の欠片もないか」
於稲は今度こそ思考が停止した。真っ白になった。
見捨てられた許婚。いとこ。……右京?
「捨てられて、それでもお前の傍で中途半端に生殺しにされているあれが、可哀相だとは思んか。……わしはな、せめて、そのうちお前が側室にするかと思って、わざわざ右京を沼田においたのだ」
「そんなことだろうと思いました」
気の無い返事に、昌幸が苛立つ。
「わかっているなら、なぜ右京を妻にしてやらん」
「側室をとる気はないと、先ほども申しましたでしょう。……それに」
なんとか昌幸の言葉を理解した瞬間には、於稲はぐいっと手を引かれて走り出していた。呆けた於稲を連れ出すのは、右京。
右京だ。
「……う、きょう。……待て、右京!」
まんを片手に抱いた右京は、足を止めずに、振り返る。
父に向かう信幸は軽く苦笑していた。
「それに、右京もわたしの妻となることなど望んでいませんよ」
於稲に振り返った右京は、常のとおりにふわりと笑んでいた。ほんの少し眉を下げて。だから於稲は何も言えなくなって、手を引かれたまま、大人しく走ってその場を離れた。
昌幸は呆れ返った風に、やれやれとため息をついた。
「本当に、信仍が家督を継ぐこともありえん話ではなくなってきたな」
「男児が生まれぬままこの信幸が死したのなら、お好きなように。けれどわたしは、於稲こそ真田の妻にふさわしい娘だと信じています」
眉を寄せて訝る父に、信幸は含み笑いで挑むように返す。
「いずれ、父上にも分かる日が来ますよ」
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