薙刀姫のお嫁入り⑤
先人曰く、ゆく川の流れは絶えず。
時間というものは、人がどれほど切望しても止まってくれるものではない。
冬の夜は、冷える。外は暗闇が支配する無音と無温の世界。
「では、茜子はこれにて失礼します」
「まっ、待て、茜子。まだ……」
弾かれたように
その心は茜子にも伝わってくるが、侍女がいつまでもこの部屋に留まっているわけにはいかない。野暮もいいところだ。
「いいえ、そろそろ殿がお見えになります。お二人の邪魔をするわけには」
「う……で、でも、もう少しだけ」
「なりません」
きっぱり言い、茜子は障子戸を開ける。そして振り返った。
「大丈夫ですよ、姫様。……信幸様がお嫌いなわけではないのでしょう?」
改めて、しかも静かにそう問われると、於稲は口を噤むしかない。
その頬が赤らんでいるのは揺れる灯火のせいだけではないと、茜子には分かる。たぶん、於稲も自分で分かっているのだと思う。認めようとしていないだけで。
「なら、殿を信じておられれば良いのだと思います。……お休みなさいませ」
茜子は一度頭を下げて、障子戸を閉めていった。
彼女の気配が去ると、於稲の周りは本当に静かになった。昼間の宴会の大騒ぎが嘘のように、屋敷は静寂に包まれている。その息を詰めたような静けさが、余計に於稲の緊張を煽る。
(ああ……そうだ、
だが結局、右京はまだ帰ってきていない。また雪が降り始めてしまったから、帰りは明日になるだろうと
(うう……)
いっそ、泣くか、逃げ出すか、してしまいたい。だが、ここで逃げては女が廃る。
(そうじゃ。これもそれも、全ては徳川のため。家康様と父上のため!)
来るなら来い、と於稲は胸のうちで啖呵を切り、グッと拳を握る。
それに答えるように。
「──姫、信幸です。入っても良ろしいですか」
「は、はぁいッ」
絶妙の頃合でやってきた信幸に、於稲は思いきり怖気づいて妙な返事をしてしまった。
「今夜は冷えますね」
スッと戸を開けて入ってくる信幸の立ち振る舞いは、どこまでも物柔らか。
「雪が小降りになってきたようですよ。朝にはやんでいるかもしれません」
パシン、と空間を塞ぐ音。近づいてくる足音は、不思議と薄い。
「
頬をかいて、寝間着姿の信幸は腰を下ろした。
向き合う於稲は、顔を逸らしたら負けだと思い、夫となる男の顔をじいっと食い入るように見つめる。
信幸は苦笑した。
「……そんなに睨まないで下さい」
「あ、えっ? い、いえ、睨んでなど」
いたのだろうか。於稲は確かめるように手のひらで頬を覆い、とっさに視線を伏せてしまった。
しまった、と思ったが、もう顔を上げられない。
「いえ……あの。信幸どのと信仍どのは、仲がよろしいんですね」
「まぁ、年が近いもので。母も同じですし。姫は、ご兄弟は?」
「上はおりませぬが、妹や弟はたくさん。でも乳母に育てられましたので、乳兄弟の方が親しみがあるんです。どちらにしろ妹と弟みたいな存在ですが」
「ああ……では、あなたを姉として慕っているのですね」
困ったように微笑んで、信幸は人差し指を立てた。
なんだろう、と於稲は瞬く。
「できれば今夜くらい、二人きりになりたいのですが」
信幸はほんの少し首を傾げる。
於稲は何のことか分からずに目をぱちくりさせていたが、やっと思い至って天井を見上げた。
信幸の指は、天井裏に潜んでいる彼を指しているのだ。
「あ……
極度に緊張していたせいか、その存在に全く気づいていなかった。
天井裏から返事はない。
「葵亥、おぬしも部屋に戻ってもう休め。わらわなら大丈夫じゃから」
やはり返事はなく、気配は動かない。於稲の声が尖る。
「信幸殿に失礼じゃぞ、葵亥。……──葵亥」
少年の葛藤が伝わる。だがやがて、気配は音もなく消えた。
「すみませぬ、信幸どの。葵亥はまだ子供ゆえ、無粋な真似を」
「いえ、こちらこそ追い払うようなことをさせて。姉想いのかわいい弟君ですね。わたしは敵視されているみたいだ。やきもちを妬いてるのかな」
「ヤキモチ」
於稲は目を丸くしてその単語を唇に乗せた。多分、それがいけなかったのだ。黙っておこうと心に決めていたはずが、甦った感情は言葉になっていた。
「信幸殿は、やきもちなど妬かれぬかたですか。それとも、それ程までわらわに興味がありませぬか」
「は? ……どうしました、急に」
聞き返されると、もう返す言葉がない。於稲は俯く。今、自分がどれほど情けない顔をしているか分かる。
(………駄目じゃ)
こんな感情は、汚い。みっともない。惨めだ。――やきもちを、妬いて欲しかっただなんて。
控えの間で信仍と再会したとき。於稲は無意識のうちに、「夫の弟」に愛想の良い笑みを向けていた。無意識だったのだから、あの時はまだいい。
だが、信仍の去り際、決定的な告白があった。後からどんなにごまかしたとしても、口にした瞬間の信仍は本気だった。
『なんで、俺が兄貴じゃなかったんだろう』
恋愛云々に疎い於稲でさえ気づいてしまったのだから、『兄貴』が分からないはずがない。
なのに、無反応。問い質すどころか、変わらず弟を心配している。
寂しい、と思ってしまった。
きっと信幸は、於稲のことなどどうでも良いのだ。どうせ政略結婚でやってきた嫁。そんな女のことより、一緒に育ってきた弟を気にかけるのは、当然のこと。
そうしていじけている自分に気づいてしまったから、於稲は怖くなった。これでは、まるで――。
「やきもちぐらい、妬きますよ。人間ですから」
信幸の声はひどく優しい。爛れた心に沁みて、痛む。
「ではやはり、わらわに興味がないから?」
泣かないように気を張り詰めて、逆に怒ったような言い方になってしまう。
「……もしかして、夕刻の、信仍の……を気にしているのですか」
しない方がおかしいでしょう、と言ってやりたかったが、声に出せなかった。したらきっと、泣く。
「そうですね、嫉妬は感じませんでした。ハラハラさせられましたけど」
於稲は顔を上げた。情けない顔は隠せなかったが、それより彼の表情を知りたかった。
信幸はやはり、少し困ったような、それでいて優しすぎる笑みをしていた。
「だってあなたは、信仍に応えなかったでしょう? わたしはそれだけで……充分です」
「それ、は」
どういう意味。
信幸は照れたように伏目がちになる。
「観念して、すべて告白しましょうか。……信仍をあなたに紹介する前に、あいつはこう言っていました。『兄貴が家康の娘と結婚したんなら、俺はその家臣の娘と結婚させてもらえるかも』、と。まさか、あなたのことだとは思いませんでしたが……あなたを見た時のあいつの反応で、すぐに分かりましたよ。そしてあなたも、信仍にまんざらでももないように見えて。――焦りました」
ハハ、と信幸は苦笑をこぼす。そして於稲の大きな目をまっすぐに見た。
「でもあなたは、信仍を選ばなかった。ここにこうして残って、わたしの目の前にいる」
本当に、信幸にはそれで充分だった。それだけで、充分すぎるほど嬉しかった。けれど同時に、弟への後ろめたさもある。だから敢えて何も言わなかった。表情にも出さぬよう、努めた。
於稲は何も言えない。
冬の夜。心まで凍えさせる白雪が降る。その音は、
「……不安に、させましたか?」
於稲はブンブンと首を振る。
凍えそうな夜に、胸が熱い。
「ちが、う……」
違う。こんなのは、違うのに。
間違ってしまいそう。勘違いを、してしまいそう。
(わらわの、役目は)
『わらわの役目は、真田の家を徳川に繋ぎ止めること』
『夫が徳川の仇となる前に…わらわが、この手で討ち取って見せます』
なんて愚か。
「どうか正直に。わたしが、お嫌いですか。小松姫」
妻を覗き込む瞳は、真摯。
於稲は首を振ることしかできない。涙を堪えるだけで精一杯だった。
「姫?」
「……違う……」
武家の女は戦の道具。感情を知らない物。心など持ってはいけない、物。
そうでなければ辛いだけ、と。そう教えてくれたのは乳母だった。
『物』に。
(――なれるわけ、ない)
「わらわは、信幸どのの妻……なれば、そのように他人行儀な物言いをしてくださるな」
信幸は軽く目を見開く。それから、細める。そっと、於稲の頬に片手を添えた。親指の先にまつげが触れる。
「小松。そなたがどう思っているのか分からないが。わたしは、このように縁あってそなたと夫婦になれたこと……嬉しく思っている」
真摯であった瞳に情熱が宿る。
「仲睦まじい夫婦になれたなら、さらに嬉しいのだが」
於稲はただ、見つめた。眩暈がした。
国も
ここにいるのは、十六の少女と二十二の青年。
ただ、それだけで。……それだけに、なりたい。
於稲は彼の袖を握り締める。
「小松?」
「………違います」
(家康様、父上)
幸せになっても良いですか。この人となら……許してくれますか。
「わらわは……稲、です。於稲と、呼んで」
「──於稲……!」
抱き合い、二人は口づけた。
外は雪。けれど覚えているのは、熱。甘く名を呼ぶ声。
ともに幸せになろう、と言ってくれた。
ひそやかな闇と温もりのなかで、於稲は信幸の妻になった。
朝の光は雪に溢れて眩しかった。
天正十八年、夏。
信幸は父・昌幸、弟・信仍とともに北条氏を攻め、その軍功が認められて正式に
一方、徳川家康は秀吉の命により江戸に移り、関東八州を完全に掌握。その実力を着実に伸ばしていった。
予感。
遠くから聞こえるのは破滅の足音か、新しい時代の胎動か。
……今はまだ、予感に過ぎないのだけれど。
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