薙刀姫のお嫁入り④



 カタ、と輿こしの物見窓が開く。その小さな四角から顔をのぞかせたのは、少女。今日まさに倉内くらうち城に輿入れんとしている小松姫こまつひめである。


 ハァ、と吐く息が白い。そして息の滲んだ外の景色は、一面の雪で真っ白である。


「……すこし、淋しいところじゃな。浜松と比べると」

「仕方ありませんよ。倉内は何度か北条氏に攻められていますし」


 輿の隣を歩く茜子あかねが答えた。

 浜松(静岡県南西部)から倉内(群馬県北東部)まで、野を越え山を越えてやってきたが、彼女は一向に疲れを見せていない。出発したときと同じ、軽い足取りだ。忍者とはかくも強靭な肉体の持ち主なのであろうか。


「姫様、窓を開けては余計に寒いでしょう。お体にさわっては一大事。お閉めください」

「つまらぬ」


 於稲は思いっきり拗ねて見せる。


「ご心配なく。もうすぐ着きますよ。……ああほら、お城が見えてきました。立派なものですよ」

「ふぅん」


 於稲はつまらなそうに答えると、パタンと窓を閉めてしまった。茜子は彼女を喜ばせるつもりで言ったので、当てが外れてしばし落ち込む。


 だがこの時、於稲は別につまらなかったわけではなく、いっぱしに緊張していたのだった。と言っても、徳川の姫としての責任や、婚姻すること自体に、ではない。


(……信幸のぶゆきどのにお会いするのは久方ぶりじゃ)


 彼は元気だろうか。変わりないだろうか。


 今日こそ、あの日いちで出会った信幸にそっくりな少年との関係を聞けるかもしれない。そして、果たして彼が本物の「真田信幸」なのかどうかも。


(城に着けば、はっきりと知れること)


 もし違う人物が信幸として出迎えたとしても、引き返すことなどできない。


(わらわはもう、引き返せない……)


 於稲はそっと、物見窓を半分だけ開いた。

 外は雪。じっと、その白さを見つめていた。ただ、白を。




 初めて着た白無垢に、於稲本人でなく茜子が泣いた。


「お綺麗です、姫様」

「ありがとう」


 にっこりと微笑むと、茜子は更に涙をこぼした。本当に涙腺の緩い忍者だ。


 於稲は瞼を下ろして、深く息を吸う。全てゆっくりと吐き出してから、瞳を開く。


「では、参ろうか。婿殿のもとへ」

「はい」


 茜子は慌てて涙を拭った。


 中庭に面した廊下を進む。背筋を伸ばし、顔を引き締めて。庭の草木もおしろいをぬったように白い。その真白い景色に、白無垢が揺れる。


 父はいない。家康もいない。見知らぬ土地の、見知らぬ家。雪に冷えた床板の冷たさ。けれど、後ろに付いてくれる茜子の存在の温かさに救われる。


 於稲は、婿である信幸、そして彼の親族や真田の重臣が待つ広間に進みいる。


「……小松にございます」


 誰の顔を見るより先に、まず膝をついて頭を下げた。


「これはこれは。遠くからよう参られた、姫君。どうぞ顔を上げてくだされよ」


 初めて聞く声。若くはない。


 於稲は覚悟を決めて顔を上げた。そして。


「お久しぶりです、姫」


 真っ先に微笑みかけてくれたのは、花婿の衣をまとった信幸。浜松城の庭で同じ景色を眺めた、彼だった。


「信幸どの」


 本物ですよね、と聞くことなどしない。しなくても分かった。こんなに優しく笑う人は、きっと他にいない。


 ホッとしたのか、於稲は無性に泣きたくなった。彼が本当に信幸であったこと。そして自分に笑いかけてくれたことに。


「おお、なんともはや。これは美人じゃのお。信幸が惚れるのも無理ないわい」

「ちっ、父上」


 壮年の男が言うと、信幸の顔が赤くなった。湯気が見えそうな勢いだ。


 つられたように於稲の頬もカァと熱くなったが、決して男の言葉を真に受けたわけではない。単なる社交辞令でしかない、薄っぺらな言葉だ。


 証拠に、頬のこけた男の口元は笑みで歪んでいるものの、その目は全く笑っていない。むしろこれは、敵を見る目だ。


「今さら照れるな。……お初にお目にかかるの、小松姫。わしが信幸の父、昌幸まさゆきじゃ」

「小松にございます」


 於稲が改めて辞儀をする。


(この男が、真田昌幸……)


 家康が毛嫌いする信濃の蝙蝠コウモリ。そして今日から、自分の義父となる男。


「ま、本当に愛らしきこと。信幸は果報者ですね」


 信幸に似た優しい物言いの女性が、於稲ににっこりと微笑みかけた。


「婿の母です。皆は山之手やまのてなどと呼びますが、私とあなたはもう親子なのですもの、母と呼んで下さってかまいませんのよ」


 うふふ、と目を細める山之手に、於稲は本当に驚くしかない。彼女には全く邪気というものがなかった。それでいて、どこか頼もしく、しなやか。


 信幸は間違いなく母似なのであろう。……その内までは、まだ計り知れないが。


 呑気に息子の結婚を喜んでいる妻に呆れたのか、昌幸はフンと鼻で笑った。


「では、さっさと式を始めるとしよう」


 その一言で、果てしなく儀礼的な婚儀が進められた。  



          

 厳かな儀式が済むと、場は見事なまでに宴の席へと姿を変えた。親族・重臣が揃って馬鹿騒ぎに興じている。座興で舞う者あれば、笛を吹く者、琵琶を弾き出す者もある。


 だが、主役の片翼であるはずの花嫁は、その賑やかなさんざめきを一つ離れた部屋で聞いていた。追い出されたわけではなく、酔いが回った、と言って自ら抜け出してきたのだ。


 それは、義母である山之手に、いたく長閑のどかに衝撃の事実を告げられたせい。


「……茜子。今すぐ駿府すんぷに戻って父上を殴ってこい」


 於稲は晴れやかな衣装のまま、板敷に打ち伏した。そして打ちひしがれていた。


 茜子も弱りきってしまって、どう慰め励ますべきか、懸命に考えている。


「ご心中察しします……が、私にはどうすることも。力及ばず、申し訳ありません。私も知りませんでした。まさか、こんな。その……そこまで婚儀の慣習が異なるなんて」

「着いたその日に、とはな……」


 ため息交じりの声には、いつもの勢いの欠片もない。


 気分が優れないと言ったのは宴席を抜けるための空言だったのだが、本当に頭痛がしてきた。


 部屋に茜子と二人きりであることに気を許し、於稲は冷たい床に額を当てて寝そべる。


 於稲の実父・本多忠勝は三河みかわ国(愛知県)出身である。あの辺り一帯の国々では、婚礼には普通三日間を費やす。それが通例であり常識だ。


 が。日の本の国は、於稲の想像より遥かに広かったらしい。


 真田では婚礼の儀は一日で済ますと言われた。それは、つまり。


「本当に今夜、夫婦にならねばならぬのか~……?」


 於稲は深く深く眉を下げ、途方に暮れたさまで情けない声を上げる。


 それが結婚というものだ。もちろん承知の上でやってきた。だが、三日後と思っていたものが突然今夜と言われても、困る。まったく困ってしまう。


「うう、父上の阿呆、馬鹿、間抜け。一言教えてくだされば良かったのに」

「姫様……きっと、忠勝様もご存知なかったのですよ」


 一応弁解を入れておくが、弱い。


「覚悟はな、しておったつもりじゃ。だが、人には何事にも心構えというものが必要であろう? 日など、すぐに暮れてしまうわ」


 ごろんと於稲は仰向けに転がる。そしてまた、ため息をついた。


 障子越しの声は、それとほぼ同時。


「小松姫、お加減はいかがですか」

「信幸どのっ?」


 於稲はあわわと慌てて姿勢を正す。


 しかし、それもきちんと気遣ってか、信幸は戸を開けることはせず、障子を挟んだまま話しかけてきた。


「実は今し方、大坂に出仕している弟がようやく着きまして。長居はできぬというので、挨拶だけでも。いえ、まだ気分が思わしくないのであれば、また後日でもかまいませんが」

「やだね、せっかくここまで来たんだから。兄貴の嫁さんの顔も見ないで帰れるかっての」


 信幸と比べ、いくらか幼さの残る口調。於稲は目を見開いた。バッと隣の茜子を振り向くと、やはり彼女も瞠目している。


 二人が息を詰めたのに気づかず、兄弟は障子一枚の向こうで会話を続ける。


「お前な。だいたい遅れてくる方が悪いんだろう。ふみには婚儀の二日前には着くと書いておいて」

「だってこんなに雪が積もってるとは思わなくてさ。大坂の方はまだ降ってなかったし」

「お前だってこの前まで戸石といし城(長野)に住んでいたのだから、今の時期のこちらの気候くらい想像できただろう」

「………まぁ、細かいことは置いておいて」   

「おくな、戻せ」


 ほんの数秒で、いかに仲の良い兄弟であるかが知れた。説教するような信幸の言いようにも、端々に弟との会話を楽しんでいる節が見受けられる。


「花嫁さーん、お会いできますかァ?」

信仍のぶしげッ、失礼な口をきくな。……すみません、姫。粗野な弟で」

「うっわ、兄貴、結婚初日から尻に敷かれてる。まぁ、予想はしてたけど」

「うるさい」


 ビシッと何かが弾かれたような音。直後に「いてっ」と弟の声があがったから、額をはじかれたか何かをされたのだろう。


 少々呆気にとられてしまっていた於稲は、いた声音で言った。


「信幸どの。わらわならば大丈夫です、お入りください」

「姫」

「やったぁ」


 やはり気兼ねしたらしい信幸にかまわず、期待に胸膨らませた弟が勢いよく戸を引いた。


 現れたのは、信幸――と、同じ顔。


(やっぱり!)


 「弟」とは、浜松の市で飴をくれた「彼」だった。


「失礼します、姫。これはすぐ下の弟の信仍。シゲ、妻の小松姫だ」


 信幸は少し照れたように弟に新妻を紹介した。


「おぬし──」


 於稲は思わぬ再会に表情を明るくする。


 けれど。


「……なん、で。君が……」


 信幸にそっくりな信仍の表情は凍りついていた。そして一瞬後には兄に向かって沸騰する。


「兄貴! これは一体どういうことだよ、兄貴は徳川の姫と結婚するって話じゃなかったのか」

「シゲ?」

「なんでこの子が、兄貴の……っ」


 怒りというよりも当惑したように、信仍は顔を歪める。全く事情の分からない信幸は、ただ瞬くばかりだ。


「信仍、どうしたんだ。小松姫は家康殿の娘。わたしが結婚する徳川の姫に間違いないぞ?」


 女二人の間に緊張が走った。そうだ。市で会った信仍にとって、於稲は「小松」ではなく「本多の薙刀姫」である。


(しまった)


 呑気に再会を喜んでいる場合ではない。新妻はいっきに窮地に立たされた。


「兄貴、違う。この子は…ッ」

「まっ──」


 待って、と止める間もなかった。


「徳川の姫なんかじゃない、本多の稲姫だ」


 サァ、と於稲の全身が冷たくなった。


「そうだろ、姫。俺のこと覚えてる? 浜松の市で会ったよね?」


 於稲の顔を覗き込む信仍は、必死そのもの。だが於稲の喉は震えるばかりで、言葉などあるはずがない。


 終わった。自分は真田を騙したのだ。嫡男の結婚相手が偽者と知られて、笑い話で済むはずがない。


(父上、家康様……っ)


 於稲はぎゅっと目を閉じて俯いた。


「……そうなのか?」


 掠れたような信幸の声に、於稲の肩がビクッと揺れる。もう彼の顔が見れなかった。訴える信仍の言葉が痛い。


「そうだよ、だから、この結婚は」

「まさか二人が顔見知りだったとは。人のえにしというものは奇なるものだな」


 ほう、と感嘆したように言う声は、常の通り穏やか。


(え……)


 於稲は顔を伏せたまま、思わず目を見開いた。


「兄貴、そうじゃなくて」

「ああ、落ち着け、信仍。小松姫はな、確かに本多殿の姫だが、今は家康殿の養女になられているのだ」

「知って──」


 於稲が顔を上げると、信幸は何でもないように微笑んでいた。


「あ、はい、知っていましたよ。浜松のお城で、家康殿から直接お聞きしました。忠勝殿にも、ご挨拶させていただきましたし」

「す、すみませぬ。わらわはてっきり……」


 於稲は恥じ入るようにまた顔を逸らす。その後ろで、茜子もホッと息をついた。


「そんな……」


 今度青ざめたのは信仍だった。張り詰めた瞳で、於稲を見つめる。


 それにしても、と興味を惹かれたらしい信幸が於稲に尋ねた。


「市で会った、とは。どのような経緯が?」

「あ……ええと」

「姫様が行き会った盗人を捕まえるのに、一役買っていただいたのです」


 ケチのつけようもない笑みで答えたのは、茜子。


「その節はお世話になりました。私もずっと姫様についてその場におりましたが、まさか真田のご子息とはつゆ知らず……。それに、ほんの数時のことで、ろくにお話もしませんでしたものね」


 回りくどく、於稲と信仍の関係の薄さを強調する。夫となったばかりの信幸に妙に勘繰られでもしたら、破談になりかねない。


「ねぇ、信仍様。それだけの縁でございましたよね?」


 更に笑顔で念押しする。だが、彼女の心中など知る由もない於稲は、笑って言った。


「あ、それから飴をいただきました。とても美味しかったんですよ」


 言う於稲が本当に嬉しそうで、わずかに茜子の顔が強張る。


「のう、信仍どの」

「……うん。そう、だったね」


 信仍は口だけで微笑んで答えた。


 ハラハラと胃を痛めている茜子の心配をよそに、信幸は欠片も二人の関係を邪推したりしなかった。


「世の中は狭いと言いますが、それは本当に奇縁でしたね。……そうです、姫。ご気分が芳しいようでしたら、一緒に祝宴の席に戻って色々とお話でもしましょう。信仍はめったにこっちには来られない身ですから」


 信幸の提案に、信仍も賛同する。


「うん、今のうちに姉弟の仲を深めておこうっと。次に会った時に忘れられていたんじゃ、寂しすぎるし。ね」


 その顔にはもう影の名残もない。


 於稲は信仍の陽気な笑みに心が弾んで、はい、と頷いた。誘った花婿もホッと頬を緩める。


 信幸は欠片も邪推したりはしなかった。しなくても、分かってしまった。

 



 プンと漂うは、酒の香。その場に居るだけで酔ってしまうような空気。いまだ異様な盛り上がりを見せている宴の間には、新しい顔が増えていた。


「あ」


 異口同音の驚き。声を揃えたのは於稲と茜子である。


 その視線の先には、昌幸にお酌をしている少女がいた。二人に気づき、にっこりと微笑む。


「まぁ……薙刀姫なぎなたひめ。どうして、こちらに?」


 ふわふわとした、頼りなく感情の薄い声音。表情は甘い。しかし問うている内容は何かずれている。


「薙刀姫はもうやめたそうだ。今は『小松姫』。兄貴の嫁さんだ、右京うきょう


 信仍が言うと、少女はわずかに目を丸くする。けれどまたすぐに微笑んで、たいして驚いた様子もなかった。


「そうなの」


 声は初めて聞いたが、見覚えはある。浜松の市で信仍に会ったとき、彼と一緒にいた女忍びだ。


 おっとりとした彼女を前に、信幸が丁寧に紹介した。


「姫。これはわたしや信仍の従妹に当たる娘で、名は右京。年は姫と同じくらいですから、良い話し相手などになりましょう」

「よろしくね」


 フフ、と。儚いながらも、右京はどこか艶やかな雰囲気をまとっている。


「こちらこそ」


 友人を得たことに、於稲は嬉しくなった。だが、後ろに控える茜子は緊張を隠せない。


 右京の仕草が儚げに見えるのは、その存在が空間に溶けているから。気配が消え入りそうだからである。これが忍びでなくて何だと言うのだ。


 硬い表情の茜子に気づき、右京は彼女に微笑みかける。それは、忍びが忍びに向けた笑みだった。ゾッと、茜子は畏怖を覚えた。


 ゆるゆると、右京は於稲に視線を戻す。


「あなたが、小松姫。縁とは不思議なものね」

「本当にな。さっき信仍どのにお会いした時にはびっくりさせられたぞ。……のう、右京は倉内に留まるのか? 信仍どのはすぐに大坂へ戻られると聞いたが」 

「ええ、しばらくは。うふふ、たくさんお話しましょうね、小松」


 そうか、と於稲は心から喜んだ。



 

 日が山の端に触れたのと同時に、宴会はやっとお開きとなった。


 真っ先に帰り支度をまとめたのは、信仍である。


「何だ、信仍。本当にもう帰るのか。今出て行ったら凍え死ぬぞ」


 親戚中から酒を呑まされた信幸の肌は、ほんのり朱に色づいている。だが、酔ってはいない。


「うん、けど、秀吉様には無理言って来させてもらったから」


 信仍は大坂の豊臣秀吉のもとに出仕している。……「出仕」というのは体の良い言い回しで、その実は人質である。本来、気軽に大坂を出られる立場ではないのだが、信仍は秀吉やその正室(本妻)からの覚えもいいので、特例として許してもらった。


「泊まると帰りたくなくなっちゃいそうだし。それに新婚さんの邪魔したら悪いしね」

「変な遠慮をするな。どうせ父上たちが泊まっていくんだ。一日くらい、帰りが遅くなっても……」

「だめだめ。そんなふうに甘えられるほど、もう子供じゃないよ。雪がやんでるうちに出発したいんだ」

「……そうか」


 ならば仕方ないな、と信幸は渋面で納得した。


「や、信仍殿。まさかもう帰られるのか?」


 部屋に戻ろうとした於稲が兄弟の姿を見つけて、慌てたようにやってくる。その後ろには右京と茜子も一緒だ。


「うん、頃合い良く雪もやんだから。大坂方の迎えが来ることになっているし、彼らに迷惑はかけられないんだ」

「それにしても性急じゃの。もっとゆっくり話ができるかと思っておった」

「それは残念」


 信仍は笑うように言って、土間に下りた。門の方から馬のいななきが聞こえる。


「あ、お迎えが来たみたいだ。嫌になるくらい時間ぴったりだな」


 よいしょ、と荷物を肩にして、信仍は歩き出した。その後に信幸がつく。


「送ろう」

「ううん、大丈夫。花婿が屋敷を空けないでよ」

「なら、わたくしがお見送りしてくるわ」


 右京が土間に下り、薄い草鞋を履いて信仍を追いかけた。


「ああ、すまないな、右京。頼む」

「大丈夫って言ってるのに」


 むぅ、と信仍は拗ねたように難しい顔をしながら、立ち止まる。


 外は雪景色。冷たく、澄み切った白の世界。


 刻々と、闇が下りてくる。もう何も、戻せはしない。


「……なんで」


 信仍は於稲に振り返った。


「なんで、俺が兄貴じゃなかったんだろう」


 まっすぐな眼差しに織り込められた哀切。胸が締めつけられるような、切なさ。声にならないものが、響いた。


 あまりの言葉に青ざめたのは茜子だ。恐る恐る信幸を見やったが、彼は信仍こそを見ている。その表情は窺い知れなかった。


「――なんてね」

「……え?」


 ニパッと、信仍は子供のような笑顔になった。


「あーあ、いいなァ兄貴は。こんな可愛いコをお嫁に貰うなんて羨ましい。ズルーイ。俺も結婚するなら絶対年下の子にしようっと」


 呆気にとられる周りを無視して、信仍の声は明るい。


「じゃ、俺はもう行くね。右京はあんまり遅くならないうちに帰すよ。またね、兄貴。と、義姉ねえさん。親父と母上にもよろしく」

「体に気をつけてな。秀吉殿にそそうのないように」


 弟を気遣う信幸の声音は、いつもどおり。表情にも惜別の色しか滲んでいない。


 それを見て胸を撫で下ろしたのは、茜子だけだった。

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