薙刀姫のお嫁入り③
空は茜色。秋の日はつるべ落としと言うが、
「ここから空を眺めることも、もうないのであろうな」
浜松城の本丸の西庭の一角で、於稲は夕焼けを仰いで呟いた。
「そうですね。ここからは日の沈むのが綺麗に見えましたのに」
同じように夕日を眺めながら、
しばしの沈黙の後、於稲は真っ赤な陽を背に振り返った。
「茜子、覚えておるか。昼に出会った男を」
「はぁ、もちろん。……あのかたがどうかしました?」
茜子の顔が曇る。何を執着しているのかと危惧しているのが見て取れた。
「では、真田の
ややあって、返事が返る。
「ありません。信幸さまとは……姫様の夫となられるかたですよね」
「そうじゃ」
於稲はこっくりと頷いた。茜子はますます訝しがる。
「そのかたと昼の少年を比べて、何になります。……ご執心であられるなら、どうか早々にお忘れ下さいますよう」
「違うと言うておろうが」
於稲は渋面を作って、茜子に背を向けた。
太陽が山の端に隠れようとしている。一体何から逃げているのか、闇を連れてくるのは自分のくせに。
「……そっくりだった」
「は?」
茜子は忍びだけあって耳が良い。聞き返したのは、その意味を掴みかねたからだ。
「昼間の男と、信幸どの。二人はそっくりだったのじゃ。同一人物かと見紛うほどに」
「まあ。それは、見間違いなどではなくですか?」
茜子も驚きを隠せないようだった。
「見間違いではないが。……やはりどことなく、雰囲気が違った。信幸どのの方がいくらか大人っぽい。年はまるで変わらないように見えたが、あのかたは少年ではなく青年じゃな」
「それは……いったい、どういうことなのでしょう」
「わからぬ」
わからぬから困っているのだ、と言うつもりで振り返って、言葉は於稲の喉奥で空回った。
「ああ、姫。こちらにいらしたのですか」
「の……っ、信幸どの」
穏やかな笑顔でやってきたのは、話題のど真ん中にいる真田信幸であった。
「探してしまいました。……少し、よろしいですか」
えっ、と茜子が彼を振り返る。そして息を呑んだ気配がした。
陽の下で見てもやはり、信幸と昼間であった少年は瓜二つであった。一度見たら忘れられない、きれいに整った顔立ち。
だが、立ち姿をみてハッキリした。二人は同一人物ではない。目線の高さ、つまり身長が違う。信幸はあの少年よりも幾分か高く、広い目で見ても長身と言えた。
「わ、私は……っ、失礼いたします」
気を使ったのか、茜子は二人にぺこりとお辞儀をして駆け足で屋敷に戻った。於稲は呼び止めようかと迷ったが、そのうちに彼女は行ってしまった。
(突然二人きりにされても……)
正直、困る。
於稲はその気性ゆえに、生まれてこの方、男と親密な関係になったことなど皆無だ。それ以前に、自分はそういう色恋に興味を持つべきではないと思っていた。せいぜい源氏物語を繰り返し読む程度である。夢物語だ、と呟きながら。
「先ほどは、どうやらご機嫌を損なわせてしまったようで……」
信幸は後ろ頭をかいて、苦笑いを浮かべた。
「わたしは場の空気を読むのが不得手らしく」
「い、いいえ。信幸どのは何も間違っておりませぬ。わらわの方こそ、とんだご無礼をいたしました」
於稲は慌てて頭を下げた。
「心からお詫びを申し上げます。どうかお許しを」
「……はい」
於稲は顔を伏せていたので見逃してしまった。信幸の、この上もなく優しい笑みを。
「姫は意外と、素直なかただったのですね」
信幸に他意はなかったのだが、馬鹿にされたと思った於稲は唇を尖らせる。
「自分の過ちを認められないのは、臆病者のすることです。わらわは後悔するのは死んでも嫌なので。間違いは反省して間違いと認めないと、いつか後悔するから」
「なるほど。なかなかしっかりした考えをお持ちだ」
スゥ、と不意に世界が朱に輝いた。遥か西の山々を見やると、ちょうど太陽が山の端に吸い込まれていくところだった。
「ここは眺めが良いですね」
「ええ」
いつの間にか、彼とこの景色を共有している。
やがて訪れるのは闇。けれど、どこか温くて優しい夕闇。全てが暗紅に染まりゆく地を望み、まるで世界が二人のものになったような錯覚さえ覚える。
於稲はちらりと、信幸の夕日色の横顔を覗き見た。
昼間の少年との関係を尋ねてみようか。それとも、最初から何の関係もないのだろうか。
しかし、他人の空似にしてはあまりに酷似し過ぎている。何か、他人には到底手の届かない理由があるのかもしれない。ならば安易に触れるべき話題ではないだろう。
(たとえば、一方が「真田信幸」の影武者であるとか)
そうなると、どちらが本物だ?
目の前の「信幸」はまるで丸腰であるのに比べ、市で出会った「彼」は護衛らしき忍びを連れていた。それだけで考えるなら、「彼」の方がよほど説得力がある。
だが。もしも目の前の信幸が偽者だと言うのなら、自分は一体誰と結婚することになるのだろう。
(わらわが「大物になる」と直感したのは、紛れもなくこちらの信幸どの……)
なのに。違う「信幸」と結婚するのだろうか。
そんなことに考えを巡らせていると、信幸が少し気恥ずかしそうに口を開いた。
「姫は……もうお聞きになりましたか」
「はっ? 何を?」
突然話を振られて、於稲は素で聞き返してしまった。
「家康殿が、その。……あなたをわたしに、と」
於稲は信幸をまっすぐに見上げるのだが、彼は照れているのか目を合わせてくれない。
「ああ。――はい、存じております」
「あなたは承知なさったんですか」
「いたしました」
少し驚いたように、信幸は於稲を見た。視線が絡み合う。
「では、わたしの妻となってくださるのですね」
花がほころぶように、信幸が笑んだ。不意打ちのその笑顔に、於稲は虚を突かれてしまう。
(……なぜ)
なぜ微笑んでいるのだろう、この人は。一体何に笑んでいるのだろう。
(信幸どの、は)
わらわとの結婚が……嬉しい?
なぜか震えている胸で、そう問おうとした時。
「若様ぁ、もう戻りませんと!」
遠くから、馬を引いた随従の者らしき男が呼んでいる。信幸も彼に届くように声を張り上げた。
「分かった、すぐ行く」
「もうお帰りですか」
「あ、はい、父がどうにも心配性で……」
於稲の顔に名残惜しいと書いてあったのか、否か。信幸は苦笑をこぼす。
「城に帰ったらすぐに、姫を迎える準備をしなければなりませんね。その為にも、本日はこれにて失礼します」
「城、とは。……信濃国の
何を隠そう、上田城は前に真田氏と徳川氏が刃を交えた合戦地である。ゆえに、城と聞いた於稲は単純にそう連想してしまったのだが。
信幸はどこか誇らしげに首を振った。
「いえ、
素直に目を丸くしてしまった於稲に、信幸は彼女の頭を撫でて身を翻す。そして馬に向かいながら、振り向いて片腕を上げた。
「では。祝言の日を楽しみにしています」
はい、と。於稲は彼に撫でられた額に手を当てて、小さく呟いていた。
灯火がゆらりと風に吹かれると、襖障子に映る影も揺れた。影は、五つ。
怖かった、と茜子は言った。
「私は伊賀のくノ一として誇りと自信を持っていました。けれど、信幸さまは……怖いです。人柄ではありません、あのかたには気配と言うものがなかったのです。無意識であったと言うなら、本当に怖い。私は、先ほど信幸さまが近づいてきたのに全く気づけませんでした」
「真田は一風変わった忍び衆を飼っているからな」
答えたのは上座にあぐらをかく家康だ。
「信濃(長野)と上野(群馬)との境にある山を支配下に置き、そこで修行した山伏や巫女を忍びとして使っているらしい。『
「俺たちとは流派がまるで違うってことですか」
どこか責める様な口調で
「そうだ。だが臆することはない、徳川伊賀忍には伊賀忍なりの強みがある。お前たちは真田忍びに惑わされることなく、伊賀の忍道を信じて
「はい」
姉弟が同時に答える。
家康は人の悪い笑みを浮かべ、扇で於稲を指した。
「どうだ、於稲。真田とはなかなかに恐ろしげなところだろう。怖気づいたか」
「いいえ」
於稲はむしろ楽しそうに笑んで見せた。
「ずいぶんと面白そうなところで、この目で見るのが楽しみでなりませぬ」
「そうか」
クッと笑いをもらし、家康は実に感心したように忠勝に向かう。
「平八よ、於稲はまさにお前の娘だな。ここまでそっくりとは思わなんだ。よう育てた」
「はっ。とんだはねっかえりで、苦労いたしました」
「だからそっくりだと言っている」
言い切った家康の言葉に、忠勝と於稲が難しい顔をする。
「さて於稲よ、輿入れの準備はできているだろうな。真田の胸糞悪い親父から返事がきたら、すぐに出立だ。一月以内には片付いてもらうぞ」
珍しく口の悪い家康に、於稲は目をぱちくりさせた。
「上様は、信幸どののお父上がお嫌いなのですか」
「ふン。あれこそ
機嫌を悪くした主君を気遣ってか、忠勝が宥めるような声音で於稲に言う。
「
「やつに怪しい動きがあったらすぐに知らせろ。息子の信幸は使えそうだが、親父は目障りでかなわん」
「お任せを」
於稲は嬉しくて微笑んだ。父や家康の役に立てることを、本当に幸せに思った。
自分は徳川のために生まれてきたのだと信じていたから。このときは、まだ。そう信じることしかできなかった。
天正十六年、冬。
徳川家康の娘・小松姫と真田昌幸の嫡男・信幸の婚儀が、上野国倉内城にてとり行われることとなった。このとき小松姫十六歳、信幸二二歳。
浜松城の出会いから二月近くが過ぎた、白雪の降る日のことであった。
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