薙刀姫のお嫁入り②
「稲ッ、お前と言うヤツは……! いったいどれほど上様や若殿方をお待たせ申し上げていると思っておるのだ」
「申し訳ありませぬ」
激昂して怒鳴りつけてきた忠勝に、於稲は何の感情もない声音で謝る。父の顔を見ることもせずに、用意された控えの間へすたすたと向かった。
「待ちなさい、於稲。
「屋敷に戻らせました。来たければ、そのうち勝手に来ましょう」
「また勝手なことを。お前はどこまでわたしたちに心配をかければ気が済むのだ」
於稲は無言のまま足早に廊を進む。忠勝と、於稲の世話を命じられた女中たちも小走りになって彼女を追った。
「待て、於稲。まだ話は終わっていないぞ、止まれ」
「時間がないのでしょう?」
「いいから聞け。聞きなさい、稲!」
控えの間に着くと、於稲は初めて振り返り、鋼鉄のような美しくも冷たい目で父を見上げた。否、父であった男を。
「申し訳ありませぬ、忠勝殿」
「……稲」
忠勝は絶句する。於稲はにこりと無垢な少女のように笑んだ。
「では着替えますので。失礼」
父娘であった二人の間を、金箔押しの屏風がさっと仕切った。
トボトボと。自分でも情けないと思うほど気落ちして、忠勝は主君・家康と婿候補たちが待つ板間へと向かった。
「……であるからな。若殿たちには天下泰平の道を歩み、日々の鍛錬を怠らず、武士としての誇りをもって――おぉ、平八。あれは来やったか?」
家康は酒も呑んでいないのに上機嫌だ。忠勝は苦いため息をついてそばに控えた。
「は、ようやっと参りました。しかしながらただ今めかし込んでおりますゆえ、今しばらくお待ちを」
そうか、と家康はいっそう楽しげに喉を鳴らす。
「では若殿たち。もう少しわたしの長話に付き合え」
横一列に並べられた大名子息たちは、一様に押し黙って、神妙な面持ちで座している。彼らは今日集められた本題を聞かされていない。突然浜松まで呼ばれて家康の説教を聴かされ、一体何事なのだと思っているであろう。
忠勝は家康の語る回りくどい嫌味と説教を聞き流しながら、真面目な顔で陳列されている若い彼らにいささかの同情の眼差しをおくっていた。
だがやがて、その目は品定めの色を帯びてくる。この中から娘婿が選ばれるのだ。それは戦略に長けた武将としてと言うより、一人の父親としての親心であった。
しばらくして、家康の説教が佳境に入り、忠勝の眼が真剣みを増してきた頃。
「
女中の一人が平伏して告げた。
小松と言うのは、於稲が徳川に養女として入った時に得た名だ。だが、於稲の身内をはじめ、名付け親の家康さえも、彼女を小松の名で呼ぶことはめったになかった。
「ああ、来たか。待ち遠しかったぞ。
家康が扇を閉じた。姫君の登場と聞いて、並べられた若侍たちの間でにわかに期待が高まる。
シュルリ、と、衣擦れの音。
そして、息を呑んだ。若者たちだけでなく、家康も、そして忠勝さえも、呼吸の仕方を忘れた。
「……小松にございまする」
部屋に入った於稲は膝をつき、男たちに深く頭を下げた。
ぽとりと家康の手から扇が滑り落ちる。
宵闇よりも黒き髪、情熱のこもった両の瞳、鮮やかな衣に劣らぬ鮮烈なまでの存在感。しとやかなだけの女にはない、凛とした空気をまとった娘がそこにいた。
「お……おお! これは見違えたぞ。なんと美しい」
「もったいのうございます」
感嘆を隠せない家康に、於稲は嫣然と微笑む。ほぅ、と誰と言うわけでもなくため息をもらしていた。
不覚にも忠勝まで顔を赤らめてしまった。言い訳をすれば、於稲の姿は亡き妻の若い頃に生き写しであったのだ。だが、発する気配というものがまるで異なる。そのやけに鋭い眼差しはきっと自分に似たのだろう、と父である彼は妙に納得していた。
家康も、いつになく甘い顔をしている。
「さぁ、小松。近こう寄りなさい」
「はい。失礼を……」
声音まで違って聞こえるから不思議だ。
於稲が側に控えると、家康は扇を拾って開いた。
「諸君。わたしの娘、小松だ」
家康が紹介すると、若者たちは一斉に背筋を正した。
「今日わたしが呼び立てたのは他でもない、この小松の婿殿を探したいと思ってな」
男たちはまた落ち着きをなくす。家康はそんな彼らを楽しそうに眺めた。
「だが、皆よき男ばかりでわたしにはどうにも決められない。ゆえに、この小松本人に夫を選ばせようと思う」
今度は於稲も忠勝も驚いた。
「上様、それは」
「わらわには、選ぶなどとても」
眉を曇らせる於稲に、家康は横目で言う。
「何も気負うことはない。顔のつくりの好みで選んでも良いぞ」
「な……、ですが」
反論しようとして、扇で隠された家康の口元が笑みをこぼしているのを見つけた。
何か企んでいるな、というのは直感だ。
そう、家康は今回、若者を「ふるいにかける」と言っていた。
(わらわに試せとおっしゃっておられるのか)
だが、どうやって?
しばらくじっと考え込んでから、於稲は微笑んで頷いた。
「では、お顔を拝見」
於稲は閉じたままの扇を手にして立ち上がる。そして、一番左端に座している若者のもとへ歩み寄った。
二十歳をいくらか過ぎたであろうその青年は、ただ目を見張って於稲を見上げる。その頬はかすかに朱に染まっていた。於稲が目の前に膝をついて清艶に微笑み掛けると、更に紅潮した。
そんな初々しい反応をして見せる彼の顎を、於稲は無遠慮に扇の先で上げさせた。
「なっ──」
あまりにも無礼なその行為に、皆が一斉に目を剥いた。だが、家康だけは笑みを噛み殺している。
中でも一際血相を変えたのは忠勝であった。
「稲──」
「よい」
身を乗り出して怒鳴りつけようとしたのを、即座に家康が声だけで制する。
「上様、しかし」
「まぁ落ち着け。大人しく見物していようぞ」
於稲は、上を向かせた若者の顔を不躾なまでにじろじろと見つめた。男は何も言わない。むしろ於稲の気迫に圧倒されて、されるがままになっている。
於稲はひとしきり彼を見定めた後、何も言わずに今度はその隣の若者の顎を上げて、同じように見つめる。飽きたように離れると、また次の男。
片手に収まり切らないほどの男に繰り返して、於稲は内心、顔をしかめた。
人は、何に怒るかによってその人が分かるという。
(この腰抜けどもめ……)
なぜ誰も自分を咎めないのか。無礼者、と切って捨ててしかるべきであるほどの屈辱を受けているはずなのに。そんなにも徳川が恐ろしいのか、意気地なし。
ほとんどの男が見つめられて恥らうように目を逸らし、中にはだらしなく鼻の下を伸ばす者までいた。
(わらわは本当に、こんな甲斐性なしの男のもとに嫁がねばならぬのか)
軽く絶望を覚える。だが、こんな男たちでも徳川には必要なのだ。今さら引くことなどできはしない。
最後の一人を終えて、於稲はため息をついた。こうなったら、にっこりと「好みの顔がございません」とでも告げてやろうか。
於稲が半分本気でそう考えて家康に振り返ろうとしたとき、右の端にもう一人青年が控えているのを見つけた。その前の男が不必要に大柄な体格であったため、陰になって見えないでいたのだ。さらに言えば、後ろの青年の方は細身で、しかも隠れるように他の若侍たちより一歩後ろに胡坐をかいていた。
(……一応)
試してみるか、と。もはや爪先ほどの期待もかけずに、於稲は俯き加減の彼の顔を上げさせた。
そして大きく目を見開く。
「おぬし……さっきの」
驚きのあまり、声が声にならなかった。
於稲が最後に顔を上げさせた彼は、先刻市で出会った通りすがりの「彼」であった。が。
(いや……違う?)
今目の前にいる彼と、市の「彼」とは、何かが、どこかが違う。「彼」はもう少し小柄であったような気がするし、もっと幼い印象であった。だが、この違和感は単に衣装が改まっているせいなのかもしれない、とも思う。それほどまでに二人はそっくりであった。
於稲は、今し方までとは少し違う意味合いで青年をじっと凝視していた。見つめられた方の彼は、不快も緊張もない表情でゆるりと一度瞬く。そして柔らかく微笑んだ。
「そのような振る舞いをしては、相手に無礼者と思われてしまいますよ」
言って、物腰の穏やかなその青年は、片手でそっと於稲の扇をよけた。
「!」
衝撃が走った。陳列された若者たちはこぞって「怖いもの知らず」と呟き、忠勝は彼を睨み据えた。家康は「ほう」と小さく漏らしてまた笑った。
そして誰よりも面食らっていたのは、他でもない於稲であった。青年が微笑んだ瞬間に、得体の知れぬ熱が胸を貫いた。そして光彩が弾けるのを、見た。
それが一体何であったのか分からなくて、ひどく気が動転した。
刹那に身を貫いていった熱が胸に広がり、たちまちのうちに全身を支配していく。
「姫?」
青年が首を傾げる。於稲はハッとして、扇を握った手を引っ込めた。
「……し、失礼!」
於稲はやっとのことでそれだけを言い、家康に挨拶もなしに部屋を飛び出した。
「まぁ、小松姫」
「姫様?」
突然走り帰ってきた姫君に、女中たちは仰天した。於稲は彼女たちに背を向け、「何でもない、一人にせよ」と言って下がらせた。愛想を良くする余裕もなかった。
一人になると、於稲は部屋の真ん中でへたり込み、鼓動のうるさい胸を押さえた。
「……あのかた」
あの、静かに自分を叱った男。
(――彼は大物になるやも知れぬ…!)
彼こそ、徳川の天下に必要な男。徳川の世を作るのに必要な人材だ。少なくとも、他のぼんくらどもとは性根が違う。
(あのかたは一体……)
「於稲、どうした。具合でも悪いのか」
娘を心配したのか、難しい顔をして忠勝がやってきた。
「父上」
於稲は彼を「忠勝殿」と呼ぶ意地もすっかり頭から飛んでいた。
「父上。あのおかたは、どこの誰なのです?」
「あのかた、とは……あの最後の男のことか」
於稲が頷くと、忠勝は腹をくくったように真面目な顔をして、娘の正面に腰を下ろした。
「あの若者は、
「真田」
繰り返す声は硬い。そうだ、と忠勝は頷いた。
「真田はつい三年前まで徳川と刃を交えていた家。それも徳川が惨敗を喫した、因縁のある家だ。今はこちらの傘下に下っているが、いつまで大人しくしているものか……今のうちに身内にしてしまえれば、後の憂いがなくなる。お前と信幸殿が婚姻を結べば、な」
「信幸、どの……」
(あのかた……真田、信幸どの)
とても優しく微笑む人。
その名を呟く娘の表情を、忠勝はじっと見守っていた。そして悟った。
「於稲。上様も先ほどの反応を見て、信幸どのがお気に召したと言っておられる。もはやお前の意思に関わらず、彼こそを婿となさるおつもりのご様子」
「はい」
於稲は別段驚くこともなく頷いた。それが当然の成り行きだと思った。
忠勝は目を閉じ、ゆっくりと開いて娘をまっすぐに見た。
「嫁いで、くれるか」
間は一瞬。
「……はい」
於稲は淡く笑んでみせた。
「おお、これはめでたきことだ。姫の嫁ぎ先が決まったぞ」
明るい声で言ったのは忠勝ではなく、いつの間にやってきていたのか、家康であった。不意打ちに於稲が振り向くと、家康の後ろには茜子も控えている。彼女はどこか鎮痛な面持ちであった。
「うんうん、信幸はなかなかの美丈夫であるからな。そなたも案外、お家云々を抜きにして見初めてしまったのではないか」
「まさか。わらわはそこまで
於稲は心の底から否定した。
「ふふ。――だが小松よ、そなたは何故に自分が嫁に行くか、知っているか」
家康は立ったまま、薄く笑んで問う。於稲も同じように返した。
「はい。わらわの役目は、真田の家を徳川に繋ぎ止めること」
「しかり。では、その自信のほどは?」
「揺るぎなく」
嫣然と答える於稲に、家康は目を細めた。
「ふむ。では最後に一つだけ問う。万が一、真田の家が徳川にたてついた時には、そなたはどうする」
「夫が徳川の仇となる前に……わらわが、この手で討ち取ってみせます」
「上等だ」
家康には珍しく大笑した。忠勝は、それもありえなくはない話、と家康のように笑うことはできず、深刻な面持ちで凛々しい娘の横顔を眺めていた。
「よし、輿入れには茜子と葵亥も一緒に持っていけ。何かと役に立つだろう」
「上様」
家康の言葉に、茜子の顔がパッと明るくなる。於稲の表情もほころんだ。
「では、そのように」
「ははは、いやしかし、さすがわたしの血を引いているだけのことはある。小松は立派な徳川の姫だ」
「ありがとうぞんじます」
今は家康の養女となった於稲は、もともと家康の実の曾孫に当たる。家康の元嫡男・信康の娘が、忠勝の妻であり於稲の母だ。
「ではわたしは先に戻っているぞ。こちらが招いた衆を待たせるわけにもいかないからな」
「は」
忠勝が短く答えて頭を下げた。家康はそのまま、先ほどの大部屋へと戻っていった。
「父上、父上も早くお戻り下さい」
「……於稲」
忠勝は於稲に向き直ると、突然勢いよく頭を下げた。
「なっ、何をしておるのです! おやめ下さい、父上……いえ、忠勝殿」
「許せ。父を許せ、於稲!」
「………父上…」
広くて硬い父の肩が、小刻みに震えている。そのような忠勝の姿は、於稲だけでなく茜子も初めて見るものだった。
「叶うものなら……本多の娘として、お前を嫁にやりたかった」
「父上、それは」
「まことにすまん。於稲よ」
顔を伏せたまま声を湿らせる忠勝に、於稲は微笑みかけた。
「……父上。お顔を上げて下さいまし」
「於稲」
言われるがままに顔を上げた忠勝は、すがりつくような表情であった。
「わらわは何も恨んではおりませぬ。このようなことは、仕方のなきこと。武士の娘の宿命です。それにも関わらず父上にここまで想っていただいて、稲は本当に幸せ者です」
「於稲……」
たまらず、忠勝の瞳が潤んだ。
「わらわは、父上のお役に立てて幸せなのです。お父上が大好きだから。父上はやはり、稲にとって父上以外の何者でもありませぬもの」
今度は於稲が、三つ指をついて頭を下げる。
「長く……お世話になりました」
ぐっと涙を堪えた忠勝の代わりに、茜子が声を殺して泣いた。
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