娘娘の正体
「ね? これでわかっただろ。夕愛の気持ちは余計な同情なんだよ」
「え……。ち、違うよ! 今のはあたしの拒否じゃない、誰かが向こうの通路から本を投げたの」
「やだな、亀太郎じゃあるまいし。誰が何のためにそんな事するんだよ」
完璧な笑顔を貼り付けて、虎汰くんはおどけたように肩をすくめる。
「だって虎汰くんにも聞こえたでしょ? 今誰かが向こうの通路を走って行ったのを」
「ボクにはそんなの聞こえなかった」
(嘘……!)
小さくだけど確かに足音が聞こえた。パタパタと逃げるように、誰かがこの場から離れて行ったのに。
「もういいよ夕愛、わかったから。己龍の所へ帰りな」
ポンとあたしの頭に手を置いて、虎汰くんは立ち上がった。
「たぶんね、負けたボクが可哀想に思えるんだよ。娘娘はそういう気持ちを恋と勘違いする。だから」
「違う……」
床に座り込んだままつぶやいたあたしを、彼が冷やかに見下ろす。
「もうやめなって。これ以上はボクもあんまりいい気はしない。……っていうかね、可哀想なんて思うコトないんだよ」
忍び笑いを滲ませて、虎汰くんはポケットに手を引っかけながら向かいの本棚にもたれた。
「ボクは黄帝の座が欲しかっただけだから。前にも己龍に『本気じゃないなら夕愛に近づくな』ってすごまれた」
「…………!」
これが本心なのかあたしを遠ざけようとしているのか、判断がつかない。ただその言葉に、ズキッと胸の奥が軋む。
「あ、それとも同情じゃないならキープ? 己龍だけじゃ足りなくて、ボクも繋いでおきたいとか。娘娘ならそういう事も考えそう」
何を言われているかも理解できなくて。信じてもらえないのが歯がゆくて悲しくて、そんな想いだけがぐるぐる回る。
「……なんてね。ボクがこれ以上バカなコト言い出す前に、行きな」
笑わないでよ。お願いだから、そんな風に遠くへ行かないで。
心の中では叫んでも、現実のあたしは小さく何度も頭を振るだけ。
「困った子だね。もう一度言おうか?」
そして虎汰くんから作り物の笑顔が消えた。
「己龍の所に帰れ。二度とボクにさっきみたいなくだらない事を言うな」
「……っ……」
圧倒的な拒絶のオーラが、あたしからますます声を奪ってしまう。
今の虎汰くんは、喉の奥で静かに威嚇の唸りを上げる白銀の虎。不用意に近づけば、ますますかたくなに扉を閉ざすだろう。皮肉なことにそれだけは理屈抜きでわかる。
(どうして……、どうすればわかってもらえるの? 違うのに……!)
あたしから視線を逸らした彼が、ふと目の高さにあった一冊の本に視線を止めた。
「ごんは、最期にうなずいたっけ。とんだエゴイストだ」
それはさっきあたしが返した『ごんぎつね』の本。でも虎汰くんがなんて言ったのか、あとの方は小さくて聞き取れなかった。
(さいごって兵十に撃たれた時の事? なに……? 今なんて言ったの、虎汰くん……)
聞き返したくてもそんな勇気のないあたしに、彼は抑揚のない声で別の話題を切り出した。
「面白い事教えてあげるよ。娘娘ってさ、好きになった男を手に入れる為には手段を選ばない、ものすごく情熱的な天女なんだ。良く言えばね」
「どういう、意味……?」
やっと出たのは震え声。しかもこの含みのある言い方は嫌な予感しかしない。
「夕愛の先代の娘娘は、婚約者のいた男を好きになってそいつを奪って逃げたんだってさ。いわゆる略奪婚」
(え……)
冷たい声が、ゾクリと肌を撫でた。
(先代……あたしの前の? 略奪って……!)
「葵さんを傷つけて愛を得た娘娘。それが和合の女神ってかなり笑える」
本当に堪えきれないとばかりに、肩を揺らして虎汰くんが笑う。その目は少しも笑っていないのに。
(葵さん……その人の婚約者を娘娘が。本当に?)
「その事を知ってるから、本当はボクも己龍も娘娘に良い印象はなかった。なのに夕愛に会ったら、いつの間にかそんなの全部吹っ飛んだ」
宙に浮かんだ言葉がたなびいて、隙を見せたように柔らかな気配が滲んだ。そんな風に感じたけれど。
「……己龍のことだよ? 勘違いは迷惑」
冷ややかな口調、冷たい視線。この人が屈託なく笑ってくれたのが遠い昔のことみたい。
「じゃあどうして最初から黄帝になりたいなんて……」
「そんな事、聞きたいんだ」
クスリと笑んで、彼は背中を預けていた本棚から離れた。
「女の子なんて誰を選んでも同じ。だったらメリットが大きい子を狙うよ。娘娘を落とせば人生の運気を上げてくれる」
(そうだ、確かに虎汰くんは最初から言ってた。『娘娘を手に入れたら運気も人生も思うまま』って)
近づいてきた虎汰くんがまた目の前に膝をつく。
「でも一番の理由はね、どんなものか知りたかったんだ。婚約者を捨ててまで男が虜になる……」
伸びてきた指先があたしの髪を弄び、そして耳元に囁いた。
「……最凶女神の、房中術ってものをさ」
わかってた。この人がそれを口にするだろうという事は。
ゆるゆると振り上げた手が、当たり前のように容易く掴まれる。でもこの手は虎汰くんを叩こうとしたのか自分でもよくわからない。
「なんで泣くの……夕愛。冷静になって自分の中をみてごらん。きっと己龍が残るから」
手首から離れた虎汰くんの手が、静かにあたしのおでこに触れる。そこから流れ込んでくるのは銀色に煙る霧雨のような白虎の気。
(違うよ……たとえ虎汰くんの目的がそれでも、あたしの中に残るのは……!)
おでこから手が離れ、立ち上がった彼は踵を返した。
あたしを置いて遠ざかっていく後姿に、迷いなんか微塵も感じられない。
(虎、汰……くん……)
静まり返った図書館の通路。きっと外は土砂降りの雨。
その日、虎汰くんはついに家に帰って来なかった。
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