第13話 緊張

 真っ暗な空と月明かりや街灯の下、歪んだ表情を晒して絶命した男性の傍に座り込んだカイルは、気持ちを落ち着けようと静かに呼吸を整える。立ち込めるなまぐさにおいにせそうになりつつ、ナイフに付着した血液を指先で消滅させるように拭き取り、収納する。


「はぁー……流石に、疲れたな、これは」


 カイルは汗を拭ってふぅと息を吐く。胸にあった怒りや殺意の炎はもう随分鎮火しており、入れ替わるように幼い体を疲労が襲う。元々長い距離を移動した上に、権能を多く行使し四人も殺したとなれば、喉も渇くし手足も震える。立つことだって難儀するような感覚だが、カイルは無事取り返した腕輪を満足気に見つめ、光に透かすように掲げる。

 月の光や街灯の光を反射して煌めくそれは、傷もほとんど見受けられず実に美しい。これを渡した時のクリスはどのような反応をするだろう? 驚くだろうか、喜ぶだろうか。なんてことを上機嫌に考えたカイルだったが、懸念事項があることを思い出し、表情を正す。


 それは、イアン・ヒューズをどう対処するかということだった。


 実は、カイルはまだイアンのことを許してはいない。居場所を把握しやすいイアンよりも、見失う可能性のある四人――もとい、少女を除いた三人を先に始末したかっただけなのだ。

 そして今、三人を始末し終えたのだから、イアンを始末しに行くことが出来る。しかし今すぐ行動を起こす気にはならず、そもそも手を下すかどうかについても決めかねている。

 今日、クリスはイアンに誘われ外出し、楽しい経験も怖い経験もした。当然クリスが怖い思いをしたことに対する怒りはあるが、胸にあるのはそれだけではない。イアンに対する嫉妬のような感情も存在していた。

 外出に反対してたのはカイル自身だからこそ、イアンが勝手にクリスに新しい世界を見せてる現状は凄く不愉快であり、そんな自分につい自嘲的な笑いが零れる。


 そんなわけで、カイルの中ではイアンに対する醜い感情が混ざり荒れ狂っていた。こういった感情は、普段ならば迷いなく原因となる本人にぶつけに行くところだが、今回は行動に移すことを躊躇う気持ちが存在している。

 疲弊しているから、普段ならばもう寝ようかという時間帯だから……それも関係しているが、一番の理由はクリスが発した言葉にあった。


『だいどうげいとても楽しかったの。イアンがさそってくれて、うれしかった。だから、あんまりイアンのこと、おこらないでほしいの』――夕方、クリスは友人であるイアンへの被害を心配し、カイルにこう言っている。例えイアンに手を下したところでクリスに全てが知られてしまう可能性は少ないが、万が一ということも有り得る。それに、バレるバレないといった問題ではなく、クリスがこういっているのに無視をするのは抵抗があった。度合いに関係なくイアンに危害を加えるのはやめておくべきだと自分の理性が待ったをかける。

 イアンは既に親やノクスに叱責されたと聞いた。ならば今回は部外者であるカイルはこの件については極力触れない方が良いだろう。触れるにしても、軽く文句を言うくらいで抑えたほうがいいかもしれない。


――クリスが大道芸を楽しめたのはいい事だ。それに、今回は僕にも落ち度はあるし、イアン・ヒューズはクリスの友人だ。そもそもイアンごときに嫉妬をするのが妙な話だし……なんであれ、あいつらみたいに罰する必要はないんじゃないかな……?


 歓楽街で会った二人はクリスを嘘つき呼ばわりし、それを覚えてすらいなかった。橋で腕輪を持っていった父親は頑なに腕輪を返そうとしなかったが、イアンはそれと並ぶほどの悪いことをしたかのか。それにもう充分罰は与えられているはずである。そう思うのに、イアンへの対処について決心ができない。


「……あーもう、イライラするな……」


 自分の優柔不断さに腹が立ち、雑に舌打ちをして乱暴に吐き捨てると、カイルは自棄やけになったように地面を拳で叩いて大の字に寝転がる。解除していない結界越しに見える星が瞬く夜空を眺めて呻き声を上げた。

 そんなことを数分繰り返し大仰に溜息をついたカイルは、何かを決心した面持ちで立ち上がり軽く指を弾いた。天に裂け目が入り、だんだん周囲の景色が元に戻って、親子の遺体が崩れるように消え失せていく。

 疲弊した様子で人通りの疎らな橋や夜の街を歩き進めるカイルの目的地はイアンの家――ではなく、彼自身の自宅であった。

 カイルは、今回はイアンのことは殺さないと決めた。その代わり些細な怪我をさせ、それをひとまず妥協点とすることを決めた。

 ただ、今からイアンに接触するにはあまりにも遅いため日を改めることにしたのだった。


 そんなわけで数十分かけて自宅に戻ってきたカイルであったが、玄関に向かう足取りも扉を開ける手も重い。思えば、外見上は幼い子供であるカイルがこの時間まで外をうろついているというのは、全くもって健全ではない。両親にこってり絞られるだろうと思うと気分が萎える。

 しかしいつまでも玄関先に突っ立っているわけにもいかず、萎えた気持ちを胸に扉を押し開けた。


 暗い家の中に足を踏み入れる。家の中は非常に静かだが、リビングへ繋がる扉のガラス部分からぼんやりと灯りが見える。両親はまだ起きているのだろうが、あまり顔を合わしたくない。手洗い場に行ってから、さっさと自室に行ってしまおうと移動し始めたその時。リビングの扉より顔を覗かせた父親が静かにカイルの名を呼んだ。


「……カイル、帰ってきたのか。今日もまた、随分と遅かったな」

「あ、おとうさん。……うん、ただいま」


 声をかけられ僅かに驚いて父親を見上げる。彼は怒るでもなく、無事の帰宅を喜ぶでもない、困惑したような妙な顔でカイルを見つめていた。


「……無事ならいい。話があるから、手を洗ったらリビングに来るように」

「あ、うん、わかった」


 カイルが小さく返答すると父親は無言でリビングへと引き返した。


 父親の指示通り手を洗ってリビングに向かったカイルは、テーブルにつき両親と顔を合わせる。相変わらず困惑した様子の父親と、疑わしげな目を向ける母親を前に、流石のカイルも流石に多少の緊張感を覚える。


「えっと、はなしって、なに?」


 戸惑いを纏った声で沈黙を破ると、両親は目配せをして何かをか細い声で言い合ったのち、父親が真剣な目付きで口を開いた。


「……父さんと母さんで話し合って決めたことなんだけど……」

「うん」

「しばらく、カイルが外に出るのを禁止したいんだ」

「えっ、どっ、どうして?」

「どうしてなにも……当たり前だろう」


 予想していなかった父親の言葉に、反射的に動揺し目を丸くしたカイルを見て、父親は顔をひそめて言葉を続ける。


「僕達は、今までずっとカイルが一人で外に出かけるのを見ないふりしていたけど、よく考えたらこれはおかしい事だよね。なんたって君はまだ四歳。一人で外に出させるには、危ない」

「……何故か分からないけど、今まで私たちは『カイルなら絶対大丈夫』って思っていたの。でも、それは違う。あなたはまだ子供なんだから、外に遊びに行くなら誰かと一緒にいないと」


 両親の言うことは正しい。四歳というのは本来善悪の区別もつかぬような年の子供だ。カイルがクリスを心配するように、両親がカイルの身を案じるのは当たり前で、その気持ちもよく分かる。しかしそれでは困るのだ。外出禁止なんて言われては、クリスに会いに行くことができなくなり、それはカイルにとっては、ただクリスに会えなくて寂しいだけではない問題に発展する可能性があった。

 困惑や焦りに顔を歪めたカイルは、おもむろに両親に問う。


「えっと、そとにでちゃダメっていうのは、ゆうがたとか、よる、だけ?」

「いやお昼もだ。といっても、絶対に外に出るなと言ってるわけではないよ。お父さんやお母さんと一緒に出かける時や、近所の子が遊びに誘ってきた時は外に出てもいい。ずっと家の中にいるのは体によくないからね」

「でも夕方からは絶対にダメ。あなた、夕方に出かけるとなかなか帰ってこないもの」

「この前は夜中くらいにベッドにいなかった時があっただろう? トイレかなって思ってたんだけど、トイレにも他の場所にも誰もいなかった。……もしかして外に出てたりしないか?」

「そんな日があったの? もしそれが本当ならとても危険な事だし、そんな夜中になにをしに行ってるの?」


 口々に話す親の前で、カイルは自らの行動を思い返す。クリスに会うため、夕方以降に出かけたことも多くあった。ノクスと話すため深夜に外出したこともあった。昼間は近所の子供と遊ぶこともあるため、どうしても夕方以降に活動することが多かったが、まさかこんな形で露呈するとは。

 クリスに言っていた『一人で出かけるのは危ないから』というような言葉が今自分に返ってくるとは思わず、膝の上に置いた握り拳にぐっと力を込める。向かいに座る両親は、あれこれと質問を投げかけてくるが、どれにもまともに答えず黙秘を貫いた。

 いくつかの質問に答えないでいると、父親は眉間にシワを刻み、短く息を吐く。そして数秒沈黙したあと、怖がらせないようにと優しげな声色で話す。


「話したくないならいいよ。嫌な質問に答えるのって、それだけで苦痛だからね。……だけどね、カイル。できたら、これは答えてほしい」

「……なに」


 真剣な面持ちの父親は、数秒間を置き低い声で静かに問う。


「カイル、君は、何者なんだ?」

「……え、なに、それ。なんでそんなこときくの?」


 父親の質問につい胸がドキリと鳴った。しかしそれを悟らせないようにとぼけて首を傾げると、母親が厳しい表情で口を挟む。


「あなた、時々すごく不気味なのよ。変というか、あんまり子供らしくないというか。近所の子供たちよりもずっと大人みたいな時があるし、子供らしくしてても、どこかニセモノっぽいというか……。私の感じ方の問題と思うんだけど、他の子と比べても……変わってるのよね、あなた」


 親としては一番身近な存在である母親は、どうやらカイルの異様さに気づいていたらしい。父親はそれを否定せず、寧ろ共感しており、下手に子供のように振る舞うよりも素の態度をとった方がいいのではとすら思えてくる。

 しかしカイルは最後まで子供らしく両親と会話した。難しい言葉は通じてないフリをし、時折怖い顔をする両親に怯える素振りを見せた。『何者なのか』という問に対してもカイルは明確な答えを口にせず切り抜けた。両親はどうしても質問に答えさせたかったらしいが、なんと言ってもカイルが答えないため、やがて一旦引き下がることにしたらしい。

 だが、これから暫く両親からの視線の性質が変化することは必至だろう。

 厄介なことになったと、両親を嘗めすぎていたことを少し反省したカイルは、両親との話を終えたあと、食事をし、身を清めて自室に籠る。

 ヨーロッパでは、幼い頃から親と別室で寝ることも多いため、カイルも物心つく前からそこそこ広い子供部屋が与えられている。裕福故の広さやベッド以外の家具もそこそこ充実していることを有難く思いながら、寝巻きに身を包んだカイルは、ベッドに腰を下ろして今後のことを考える。


「これは、まずいなぁ……」


 父親の話を思い返しながら、カイルは考え込むように口元に手を添える。

 カイルにとっての外出禁止は、ただ外で遊べないだけではない。クリスに会いに行くことも、クリスの為に行動することも、ノクスと相談することもできない。ノクスについてはこちらに招く手段がないわけでもないが、それをするにはリスクがある。

 異人種のノクスを親は絶対に迎え入れるわけがないし、親がよくても近所の目がある。別にカイル本人は近所にどう思われても良いが、それで再び制限が課せられては困りものだ。

 更に心配事は他にもある。それは、こういった外出禁止が、カイルに課せられたから外れるのではないか、という不安である。

――別に外出禁止にされてようがクリスに会いに行くつもりだからいいけど、のことだから、意地の悪いこと言い出す可能性があるかもしれないし……。

 直面している危機に漠然とした不安を抱きながらベッドに体を沈め、考えを整理しようと目を閉じたその時、ふと、細く白い光を感じ瞼を開ける。その先でカイルが見た光景は、先程と変わらない子ども部屋の天井。まだ朝にはなっていない。しかし、これは主が接触しようとしている前触れだと考えたカイルは、すぐさま体を起こし壁に背をつけた。

 その数秒後。その直感が当たったように背筋に刺激が走り、背後から男とも女とも言いきれぬ幼い声が聞こえた。


「なに、カイル、心配事? ボクがなんとかしてあげようか?」


 背につけた壁からぬるりと白い腕が生えカイルの肩に手が置かれ、反射的にびくりと肩を跳ねさせた。ぞくりと身を震わせている間に、その者はずるりと壁から這い出て姿を現す。

 気づけば周りは天井も床も全て白一色になっており、壁から出てきた何者かが歩く度床には水を打つような波紋が広がっていく。

 白一色のワンピース状の服に短パンという簡素な服を身に纏ったその相手は、空間に生み出した簡素な椅子に腰をかけた。

 相手は、肩くらいまでの長さの空色の髪、前髪に隠れていない翡翠色の左目、首に嵌められた鎖付きの枷、そして何よりカイルと似た印象の顔つきが特徴的な人物だった。年齢はカイルより少し上くらいだろうが、性別は分からない。

 カイルはこの相手を知っている。決して怪奇現象を起こした幽霊でも、何かを奪いに来た泥棒でもない。だからこそ突然現れたことに驚きつつも、悲鳴をあげるよりも先にベッドからおりて跪いた。


「……ご無沙汰しております」

「やぁカイル、久しぶり。元気そうで何よりだ」

「貴方様こそ。まさか、貴方から来てくださるとは思いませんでした」

「そう? そりゃ君はボクに結構近い下僕しもべなんだもん。多少は気にかけないとね。……あぁ、カイル、もう直っていいよ。頭上げて」

「…………ですが」

「いいから。頭を上げて」

「……はい」


 その相手――カイルからすれば主ともいえる者の言葉に、ひとまず顔を上げ姿勢を正し座り込む。目の前にいるのは神のようだが、神とはいいきれない者であり、自然と背筋を正す。

 この者のこそ、カイルが言っていた主たる『神様めいた方』であった。

 主は、カイルの態度に満足気に頷いたあと、ほくそ笑みながら口を開く。


「しっかし、君、今日は随分暴れてたね。権能も使いまくってさ。いや、君の力はそのためにあるんだから、なにも悪くないんだけどね?」

「……申し訳……」

「いやいや、別にいいんだよ。君の権能はクリスを助けるためにあるんだから」

「……はい」


 主のその言葉を真正面から受け止めて良いものか判断に悩む。主は過剰にひねくれているわけでもないが、優しいわけでもない。だが、気に入らない場合は直ぐに手を下す性質でもあることを思えば、今はまだ叱責されているわけではないだろう。不安げな面持ちで主から僅かに目を逸らし、直ぐに戻した。

 その行動は特に気に止めていないらしい主は、幼い子供のように笑みを湛えて口を開く。


「そういや外出禁止食らったんだっけ? いやぁ、笑えてくるね。君、親に何思われるか全く考えないで暴れてるんだもん。親のこと嘗めすぎじゃない?」

「…………反論のしようもありません」


 顔を伏せ、諦めた様子でそう言ったカイルに、主は随分と楽しそうに目を細めた口元をつり上げる。純粋に楽しんでいるような表情なのに、カイルには不気味に見えて仕方がない。


「それで、君は兄に会えなくなるかもしれないからって色々心配してるよね。それはなんで?」

「……それは、その……僕に行使が許されている権能は、クリスのために使うべきものですし、クリスと極力一緒にいないといけませんし……」


 自分とほぼ同じ色の瞳を見つめられて心臓が力強く高鳴るのを感じながら口にすると、主は納得したようにあぁ、と零す。

 カイルには権能行使の際にルールが定められていた。といっても厳密なルールではなく、かなり解釈の余地もある非常に緩いものであるのだが。

『権能は愛護対象のために使うこと』『行使者は愛護対象の近くいること』という随分ざっくりしたのもである。前者は行使者が『対象者のため』と認識していればほぼ可能であり、後者は四六時中共にいなくともセーフであるという緩さである。その分セーフラインがいまいち分からず不安になるのだが、なんとか探り探りここまできた。

 だからこそ下手にクリスと離れると、罰が下るのではと不安に思うのだが、カイルの心境に反して主はけらけらと軽い調子で笑い声を上げた。主の一挙一動に警戒しているカイルとしては、その笑い声は非常に心臓に悪い。体の中に溢れる緊張を感じながら主の姿を見ていると、相手は軽やかに言葉を続ける。


「別に外出禁止食らったくらいで権能取り上げたりしないって。そこまで意地悪じゃないよ。それに、条件が緩いんだから君の解釈次第でどうとしてくれても構わないよ。『近くにいる』もご近所さんみたいな感覚で受け取ってくれて大丈夫だよ」

「……そう、ですか」

「うん。そもそも、許容出来なかったら、外出禁止って言われた時点で取り上げてる。今はまだ君のこと見捨てるつもりは無いから、もう少し慎重に行動してくれたら、大丈夫だよ」

「ありがとう、ございます……」

――それって、やっぱり、行動を間違えたら弁明の余地もなく罰されるってことか……。

 慎みを覚える必要性を感じ取り頭を下げると、主は微笑みから石ころのような無表情にすっぱりと切り替えた。

 その行動に反射的に顔を強ばらせたカイルは、思わず視線を下げ白い床を眺める。

――これは、なにか、気に障ることがあったんだ……僕、一体何をした?

 思考が白く染まっていくような感覚を覚えながら、それでもなんとか必死に頭を働かせていると、冷たい声が静かにカイルの思考を溶かす。


「そういえばさぁ、カイル。君いつになったら目的を果たすの? ノクスだって暇じゃないんだよ?」

「――それは……」


 不機嫌さを凝縮し凄みさえ含まれるような低音に、震え上がるような感覚がした。背筋に冷たい汗が流れる感覚がして、思考は一瞬で戻ったにも関わらず言葉が紡げなくなる。

 主の言う目的とはつまり、当初ノクスとの話で掲げた両親の殺害に他ならない。クリスの教育をし、ノクスと共に作戦を立ててきたが、両親への復讐はなされていない。

 なにも進んでいない訳ではないのだが、カイルはまだクリスへの教育は充分でないと考えていた。しかし主に言われてしまったとなればモタモタしている余裕などないのだろう。

 悔やむように眉根を寄せ謝罪を口にしかけたが、カイルの言葉は主にかき消される。


「彼に一番接してるのはカイルやノクスだから、タイミングは君達に任せるんだけどさ、いつまでも計画が実行されないとノクスだって困るんじゃないかな。君たち、最終の目的は全然違うんだから」

「……はい、申し訳、ありません」


 なんとか絞り出した声は蚊の鳴くような声であったが、主に届いたらしい。一瞬蔑んだような冷ややかな目でカイルを見下したあと、先程の表情は錯覚かと思うくらいに柔らかく微笑んでおもむろに立ち上がる。


「分かればよし。ならボクは帰るよ。君もさっさと寝なよ。まだ子供なんだからさ」

「……はい、お気遣いを、ありがとうございます」


 もう一度、じゃあねと零した主は真っ白な壁に向かって歩き、そのまま溶け込んでいった。その数秒後、四方八方が白だった空間は崩れ、元々の子供部屋に変化した。その直後、解放されたことを理解したカイルの体は、糸が切れたように絨毯の上に仰向けに倒れ込む。額を拭うとべっとりと汗が付着していた。

 背中の痛みを感じながら体を起こし、棚の上に置かれた時計を見ると、自分が部屋にやってきた時間から30分も経っていなかった。それなのに、何時間も話したような疲弊感がある。恐らく、今日は相当体力を使ったからということも関係しているだろう。


「……主様の言うように、早く、休もう。行動は、また明日から……」


 カイルは、自身とノクスの目的や、主の言葉をいくつか思い出し、しくしくと胸が痛むような感覚を抱いて柔らかな毛布を被った。



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