第23話-また、何も言えずに彼女を。

制服越しに、ヤコの体温が伝わってくる。


背中に置かれたヤコの手は小さくて、鮮烈に伝わってくる熱から、手の形をありありと感じることができた。

落ち葉を踏むと、パリッと乾いた音がした。2日前にこの道を歩いたときよりも、落ち葉が乾燥している気がする。狭い歩幅で歩きながら、ヤコの手はゆっくりオレの身体を押していく。

「また、あの場所へ行こう」

放課後、ヤコを呼び止めたオレが、とっさに口に出した言葉がこれだ。そして、自分から言い出しておきながら、独力での歩行が怪しいオレを補助するために、ヤコが手を背中に当ててガイドをしてくれている。


「あの場所」の詳しい説明はしなかったけど、ヤコはそれだけで場所を察してくれた。オレのお気に入りの公園、高台からの景観が素晴らしいあの公園に、ヤコは何も言わずに向かってくれた。

公園の中の雑木林を少し進むと、開けた空間に出た。一面のきれいな芝生と、十分な間隔をあけて複数設置されているベンチ。開けた空間の奥には、街を一望できる。

──やはり、この公園はいい。

視力が九割方失われてしまった今でも、そう思う。きっと、好きな空間というのは五感だの理屈だのという俗物的なものに支えられているのではなく、もっと高次の何かによって支えられているのだろう。


「はい、着いたよ」

ベンチの前まで来た。目標地点まで案内を終えて、ヤコはオレの背中から手を離した。背中から、熱が消える。

ヤコがベンチに座る、隣に隙間をあけて。オレが座るためのスペースが、視界にぽっかり浮かんでいる。ザラザラした木のベンチの茶色と芝生の緑が対照的だった。

「座らないの?」

ベンチを前に棒立ちのオレに、ヤコが不思議そうに尋ねる。黒い瞳が、こちらを見ている。

風が吹く。乾燥した芝生がサァっと音を立てる。空気が冷たい。今日は長話はしんどいかもしれない。

ヤコの長い髪が風に揺れる。少し、髪が伸びただろうか。元々はブレザーのエンブレムにかかるかかからないかという長さだったはずだが、今はエンブレムが隠れていた。髪の隙間から、細い肩の輪郭が見え隠れしている。ザラザラしたブレザーの生地が妙に目に鮮やかだ。

妙な沈黙。ヤコもオレも一言も発さない。ヤコは落ち着かない様子だ。所在なさげに動く指先や足先。でも視線は動いていない。黒い瞳が、まっすぐオレを見ている。


「抱きしめていい?」

つい、口をついて出た。思っていることの説明をすっ飛ばしてしまった。なぜか、ベンチを前にすると、座ったら終わりな気がした。空っぽの言葉が乾いた芝生を上滑りしていくだけな気がした。


ヤコが立ち上がる。黒い髪が重力に逆らって動く。スローモーションで、緩やかに顔が近づいてきた。ヤコの膝が伸び切ると、オレよりも少しだけ低い位置で、ヤコの顔が静止した。ほんの少し首を下に傾ける。かなり近い距離で、ヤコとオレは見つめ合う形になった。

「いいよ」

ヤコの顔のパーツひとつひとつが、異常によく見える。鼻と鼻の間が10cmの距離。この距離なら、もう視力はハンデにならない。ヤコの黒い目が、ヤコの白い肌が、ヤコの薄紅色の唇が、高い鼻が、細い眉が、長いまつげが、小さな毛穴が、視界を埋め尽くす。ヤコが何を思うのか、今はもうわからない。先ほどまで所在なさげに動いていた指先も足先ももう見えない。あるのはただ、無表情。ヤコの目からは何も読み取れない。底の見えない、深い深い井戸を覗き込んでいるみたいな、意識がヤコの中に吸い込まれて、二度と出られなくなるような、そんな不安が掻き立てられた。

両腕を、ヤコの背中に回す。

初めて抱くヤコの身体は、想像よりもさらに細く、軽い。ガラス細工を思わせる華奢な身体。強く抱きしめたら折れてしまいそうな、作りものみたいな身体なのに、信じられないほどの熱量が全身から湧き出していた。先ほどまでの寒さは、もう感じなかった。

ヤコを抱きしめたら、自然とオレの鼻先はヤコの耳の少し上あたりに来た。視界は、黒い髪の毛に覆われる。今までで一番、頭皮のにおいが分かる位置関係だ。

──嫌悪感は、なかった。

もっと抱きしめていたい、と思う。ずっとヤコと一緒にいたい、と思う。それは、奇跡みたいだった。

この二ヶ月、何度も何度も「そう思えたら」と渇望してきたこと。渇望しても、叶わなかったこと。

そんな、絶望的に全身をつきまとっていた望みが、無事に達せられたのだ。こんなにうれしい瞬間は、今までに一度もなかったかもしれない。


強い喜び。ヤコと少し距離をあけて、改めて顔を見る。オレの興奮した顔に、やや驚いたように見える。

「ヤコ!オレさ、もうヤコに、嫌悪感がなくなったよ!」

嬉しい。嬉しい。声が上ずる。仮説は正しかった。触角を失ったオレは、非処女への嫌悪感がすっかり消滅していた。

「ヤコ、オレたち、一緒にいられるよ。やったよ!」

ヤコの表情は変わらない。でも、オレのテンションは上がる一方だ。この喜びを、ヤコに伝えたい。分かち合いたい。そう思った。

「また元々そうだったみたいに、一緒に楽しい時間が過ごせるよ!ごめんな!今まで時々距離を取っちゃったりして!」

嬉しさで、口が止まらない。ヤコは相変わらず、無表情のまま黙りこくっている。黒目がちの目は、動かずにこっちを見たままだ。口元も、少しも緩まない。


「……ねえ、それってどういうこと?」

ヤコの言葉は、重く、低いトーンだった。直前までのオレの浮かれようが、バカみたいに思えてくる。

「それで何?全てが解決したとでも?私とキミがくっついて、家庭を作って、それでハッピーエンドってこと?」

深い、黒い瞳が、こちらを向いている。オレは、動けなくなる。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう心持ちなのだろう。

「触角を失って、一生補助がないと生きていけない男と、どこの馬の骨とも分からない男に処女を奪われて、その男の子ども生みながら生きていくワケアリ女とで、ちょうどいい組み合わせだとでも言いたいの?」

ヤコの指先は、震えていた。目には涙が浮かんでいた。

「それで、私が喜ぶとでも思った?キミは、これから何年にもわたって足尾さんの子どもを産み続ける私と一緒になって、幸せになれるの?触角を失ったキミと一緒になって、私は幸せになれるの?」

あまりのヤコの剣幕に、言葉を挟むことができない。ただ、彼女の言葉を聞く。

「最低なことを言うよ、ごめんね。私はキミにそうやって一緒になろうって言われるより、足尾さんに【やっぱり責任取るよ】って言ってもらえる方がよっぽど嬉しかった。だってそうでしょ。その方がずっと普通に幸せになれるよ」

胸が痛い。ヤコの言葉は研ぎ澄まされたナイフのようだ。強く押すことも必要ない。ゆっくり言葉を口にしていくだけで、オレの心臓をえぐり、激烈な痛みを生み出していく。

「私が身体に溜め込んだ精子から、足尾さんの子どもを産み続けるの、キミは辛くないの?キミが大丈夫だって言っても、私はツラいよ。一緒になってくれた旦那さんのじゃない子どもを、ずっと産み続けるのなんて。キミも、そんな中で私を愛し続けるのなんて無理なんじゃないの?」

口が渇く。めまいがする。立っているのが精一杯だ。

「それだけじゃない。私はそんな罪悪感に苛まれながら、目が見えないキミの世話をするの?そんな異常な関係、お互いに疲労していかない?私は足尾さんの子どもを産むのを容認してもらう代わりに、キミの世話をするの?お互いの咎を許し合いながら生きていく。それは、共依存ってものじゃないの?」

頭は異常にはたらいているのに、身体はまるで言うことを聞かない。全身から冷や汗が流れ出る。言葉を口に出すことも、呼吸すらもままならない。

「ご近所さんはどう思うだろうね。旦那じゃない男の子どもを産む女と、目が見えない旦那。とんだキズモノ同士でちょうどいい夫婦だと思うかもね」

ヤコの両目から、涙がこぼれだす。こんなに、立て続けに喋るヤコを初めて見た。なおも、止まらずに続く。

「事故なんて、ウソでしょ?わざとでしょう?なんでそんなことしたの?そんな同情なんて要らなかった!!私は絶望を抱えながら、自分だけで生きていこうと決意していたのに。キミを巻き込もうなんて思わなかったのに。……キミが一緒にいれば幸せになれるなんて思えないんだよ。例えキミと結婚したとしても、私は罪悪感や疲労でいっぱいになる。私は、キミと一緒になるのは、嫌だよ」

涙の奥で、ヤコの黒い黒い瞳がこちらを見ている。オレは、無言を貫くことしかできない。何一つ、彼女にかける言葉がなかった。この真っ直ぐな瞳を前にすると、いつもそうだ。

ヤコの頬から顎に伝っていった涙が、大きな玉になって顔からこぼれ落ちた。

ヤコは、黙ったままのオレから目線を逸らす。身体を180度回転させて、歩き出した。また、何も言えずに彼女を見送ってしまう。


どこか遠くで、犬の吠える音がする。傾いた太陽は、足元に長い長い影を作っていた。

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