第22話-冷気と喧騒と、読み取れない表情

検査。医師からの問診。また検査。

スキマ時間は、母との会話。


一刻も早く学校に行きたいという気持ちと裏腹に、オレは丸一日病院に拘束されることになった。

「少しでも予後がよくなるように」とか「今後の方針を考えるために」などという大義名分のもとで、不要と思える検査やら問診やらを繰り返していた。切り落とした触角をくっつけるワケにもいくまいに、そんなに何時間も何を検査することがあるのだろうか。

病院というものは、我々を翻弄し、不安にし、病気を作り上げてしまう側面がある。身体に何の問題もなくたって、こんなに一日中振り回されればどこか調子が悪く思えてくるだろう。


結局、一通りの検査が終わったのは夕方で、もう学校も終わっている頃だった。オレの【答え合わせ】は一日遅らされることになった。

ただ、医師と母はオレの強い希望を酌んでくれて、明日学校へ行くことは許可してくれた。また、特に緊急の処置もなく、容態が急に悪化することもないという診断結果が出たため、オレは退院を認められた。今晩は家で過ごして、明日は普通に登校できる。


久しぶりに帰った自宅は、知らない場所みたいだった。

嗅覚が極端に鈍ったからなのだろうか。自宅に染みついた思い出がまるでなくなったように感じる。

それでも、頭は部屋の構造をしっかりおぼえていた。視界はかすんでいるが、手探りで問題なく移動することができる。階段を登り、自分の部屋に入った。

部屋は、母親によってきれいに掃除されていた。切り落とした触角や、飛び散った体液の痕跡はほとんどない。

ほんの2日前、オレはこの部屋で自分の触角を切り落としたのだ。あの時の痛みと苦しみは凄まじいものだった。思い出すだけでも気分が悪くなる。

その行動が愚かで無益なものだったのか、あるいは無謀なりに正しい道を進める選択だったのか、とうとう、明日結論が出る。

楽しみでもあり、恐ろしくもあった。いや、正直に言うなら、恐れの方がずっと大きかった。


──もしヤコへの嫌悪感が何ら改善を見せなかったとしたら。

そう考えずにはいられない。

触角を切り落とす前にも、度々頭をよぎった想像だ。

だけど、切り落とす前には異様な勢いがあった。とにかく現状を打破したい。ヤコの悲しすぎる涙に寄り添いたい。それなら、リスクを計算せずに行動するしかない。そんな異様な勢いが、最悪の想像を頭から吹き飛ばした。というよりも、行動するために意図的に勢いを身にまとっていたという方が正確かもしれない。

そして今、切り落とす工程が終わって、勢いを身にまとう必要がなくなった。冷静な頭は、ごく自然に最悪の「もし」を考えてしまう。

今夜も、きっと眠れないだろう。ヤコが非処女になってからというもの、眠れない夜がすごく増えた。

けれど、ヤコの眠れない夜はオレよりももっとずっと多いはずだ。だから、眠れないことに苛立つのはやめよう。長い夜も、やり過ごそう。彼女の眠れない夜に、寄り添おう。


朝が来る。天気はあいにくの快晴。ダンゴムシにはツラい朝だ。

それでも、朝が来たことを嬉しく思った。今日は学校に行ける。成功とも失敗とも分からないこの宙ぶらりんの状態が終わり、結論が出るのだ。

視界がぼやけているせいで、学校へ行く支度も、朝食を食べることも、全てに普段の二倍以上の時間を要したけれど、夜明けとともに行動を始めたので、全てが終わってもたっぷりと時間は残されていた。


通学路を行く。横には母親がいて、オレは母親に背中を押されながら歩いていた。触角を喪失して周りが見づらくなったため、独力では外を歩くのが困難になった。

通い慣れた通学路でも、誰かの補助がある方が好ましい。特に、触角がない状態に慣れるまでの数ヶ月は。

そんな医者のアドバイスに従って、今日はおとなしく母親同伴で学校に行くことになった。学校に母親と連れ立っていくというのは少し気恥ずかしいけれど、いずれにせよ学校側も親と一緒に事情を聞きたがっていたからちょうどいい。

触角を切り落とした後のいつもの通学路は、少し様子が違うように思えた。生徒たちの嬌声はくぐもって聞こえるから、遠くの世界のことのようだ。視界はかなりおぼろで、今まで気になっていた個々の店や看板といったものが何も認識できない。代わりに、道の全体的な印象だけが頭に入ってくる。淡い淡い水彩画のようだ。ぼんやりと視界に浮かぶ絵の具からは、道幅や塀の高さだけがなんとなく感じられる。

聞こえる音も、見える景色も、まるで現実感がなかった。自分がいる場所とは別の世界を覗き込んでいるような、異世界につながるポッカリと開いた窓から、解像度の違う隣の世界を見ているような。

あるいは本当に、触角を切り落とすことで別の世界の住人になってしまったのだろうか。


「では今は心身ともに元気なんですね。いや、安心しました」

学校についたオレと母親は、まずは職員室に向かった。対応する担任教師に、母親は冷静に状況を説明した。オレも、意識的にしっかりした返事や補足説明をした。もう安心ですよ、正常ですよ、というメッセージを全身から出せるように、一つ一つの所作に気を配った。

最初はいぶかしげだった担任も、話を聞いたりオレの様子を見たりしている内に徐々に納得していく。多分にウソを孕んだ事件の顛末や理由を一通り喋り終わる頃には、担任はほぼ満足した顔になっていた。

続いて、話は具体的な今後のことに移った。障害者向けの学校への転校は考えていないこと、クラスメイトの補助があれば学校生活を続けることは可能であろうと考えていること、必要だと考えられる補助それぞれのことを、担任に説明した。この説明は、母ではなくほぼオレがこなした。自分がしっかりと運用について考えているのだと、あなたの手間はとらせないのだとアピールしたかったから。

「そうですね。では、一旦わが校での生活を続けて頂くということで。何か問題があったら、お気軽にご相談ください」

結局、30分ほどの面談の後に、オレが学校生活に再び戻ることを許された。

職員室を出る。母親はそこで出口へ向かい、オレと担任はともに自分のクラスの教室に向かった。


教室のドアを開ける。ほんの2日ぶりなのに、ずいぶん久しぶりな気がする。学校もやっぱり現実感は少ない。ひんやりとした取手の感触だけが、鮮明に身体に染み込んできた。

無音。ドアを開けると、クラスメイト達のざわざわとした話し声がピタリと止んだ。恐らく、彼らの視線は一様にオレに向けられていることだろう。

担任のガイドを頼りに、ゴチャゴチャした教室を歩く。窓際の席にたどり着くのは難しい。各生徒の机と机の間隔は狭く、カバンやコートなど、足を取られそうなものはたくさんあった。触角を失うまでは、こんな難しいコースを無意識の内に歩いていたんだな、と思った。


「おはよう」

やっとの思いで席にたどり着いたオレに、挨拶が飛んできた。ああ、待ち望んでいた声。

触角を失って、音の聞こえ方もずいぶん変わった。いつも水中にいるみたいに、すべての音がぼんやりしか聞こえなくなった。

それでも、絶対にこの声は聞き違わない。眠れない病院のベッドで、自室のベッドで、繰り返し思い出していたあの子の声だ。

「おはよう」

そう返事をした。

ヤコの顔を見るのはずいぶん久しぶりな気がした。抜けるように白い肌。長いまつげ。差し込む朝の光を反射する銀縁メガネ。そして、黒い黒い瞳。

視界はぼやけているが、ヤコの姿は鮮明に見える気がした。彼女の姿は何度も頭に思い描いてきたから、脳が自動的に補正してくれているのかもしれない。


ヤコに伝えたいことは、たくさんあった。

だけど、こうして彼女を前にすると、何を言っていいのかわからない。

5秒の沈黙。何か会話をしないと不自然だと思ったけど、あまりにも話したいことが多すぎて、挨拶の後のサラリとした会話のネタは出せない。


「え〜、今日はホームルームの前に少し皆に説明しておきたいことがある」

ヤコとオレの妙な沈黙を破ったのは、担任教師だった。説明しておきたいこと、というのは、言うまでもなくオレのことだ。ダンゴムシの生命線である触角を無残に失い、前途多難な一生が確定した哀れな同級生。その事情に興味津々なみんなのために、担任が細かく事情を説明してくれる。

「…ということで、事故で触角を失ったということだ。でも、この学校に通い続けたいと言ってくれている。だからみんな、彼のサポートを最大限しっかりやってあげて欲しい」

担任の説明は、オレと母親との三者で合意した通り「事故による触角欠損」という、事実とはかけ離れたものだった。

でも、その方がよっぽどクラスメイトには受け入れられるだろう。「自分で触角を切り落とした危険なヤツ」より「事故で触角を失ったかわいそうなヤツ」のほうがありがたい評価だ。その方が説明もよっぽど簡単だし。

だから、担任もこのウソをつくことに合意してくれた。嘘も方便、なんと正しい言葉だろうか。


「大変だったね!めちゃくちゃ痛かったんじゃない?」

「何か困ったこととかあったら言ってね!手伝うから!」

話題性がある、という表現を自分に使う日が来るとは思わなかった。だけど、たしかに今日のオレには話題性があった。若くして触角を失った悲劇の少年。安っぽいドラマみたいなキャッチコピーは、退屈を持て余した教室の中で猛威を振るった。

休み時間の度にオレの机の周りには色んなクラスメイトがやってきた、色んな言葉をかけていった。ありがたいけど、嬉しくはない。そんな声かけをされるまでもなく、オレは暮らしの中で必要そうなサポートを誰にどの程度やってもらおうか既にあたりをつけていたし、大して親しくもない同級生にお願いしなければいけないことはそんなにない。彼らはただ、話題性という熱病に浮かされてオレに話しかけてきているだけなのだから。


休み時間の度にオレを取り囲む同級生に邪魔をされて、本当に話さなければいけない相手と話す時間は、取れなかった。オレの周りでガヤガヤと盛り上がる同級生を無視して、ヤコは一人で本を読み続けていた。一度として振り返らず、オレの目には狭い背中だけが映り続ける。


結局、ヤコに話しかけることができたのは、放課後だった。

終業のチャイムが鳴り、いつもどおりすぐに教室を立ち去ろうとする彼女を、慌てて呼び止めた。

「ヤコ」

オレの呼びかけに反応して、振り返る。

長い髪の毛がなびく。白くて小さい顔。黒い黒い瞳。

また、何を言えばいいのか分からなくなった。沈黙。朝と同じ光景が繰り返される。


「えっと……その……話したいことがあるんだけど、時間いい?」

このスマートさのかけらもない誘い文句に、ヤコは黙ってうなずいた。

開け放されたドアから流れてくる空気が冷たい。教室の喧騒が遠い。うなずくヤコの表情は、よく分からなかった。

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