第21話-過剰なまでに、白い白い部屋で。

青白い蛍光灯の光が、まぶたの裏まで届いている。

頭上にわずかな痛みと、違和感がある。2本の触角があった場所だ。失われた身体のパーツに対して、まだ脳が適応できていないのだろう。


目を開けると、白い天井だった。

壁も、自分が寝ているシーツも、床に至るまで白い。部屋全体が、過剰なほどの清潔さを披露している。

色のない無機質な空間の中に、誰かが座っていた。視界がぼやける。顔は見えない。でも、雰囲気で母親だろうと分かった。

「良かった。目が覚めた?」

安堵と、心配が混じった声。そうか、触角を切り落とした後、オレはそのまま気を失っていたのか。だとすれば、ここは病院か。

「うん。大丈夫だよ母さん」

できるだけ、できるだけ元気に。できるだけ正常に聞こえるように、明瞭な声を出そうと努めた。

だけど、どのくらい思い通りの声を出せたのかについては、自信がない。視界はぼやけていて、思ったように身体が制御できない。聞き慣れたはずの自分の声も母親の声も、妙にくぐもって聞こえる。


「ねえ、何があったの?」

母の声は、高熱でうなされている時みたいな、現実感の少ないボンヤリした音でしか聞こえない。

それでも、その声に大いなる不安と当惑が込もっていることは分かった。

無理もない。品行方正だった息子がある日突然、自分の触角を切り落としたのだ。頭がおかしくなったと思ってもしかたない。

──なるべくなら、このパターンは避けたかった。

できれば、「ひき逃げに合って触角が切れてしまった」というシナリオにしたかった。自分で触角を切り落とした後、刃物は全部隠して、路上で倒れるつもりだった。

そうすれば、家族に息子が発狂したんじゃないかという心配をかける必要もないし、「なぜそんなことをしたのか」と追求されることもない。

けれど、そうはならなかった。触角を2本切り落とすのだけが精一杯で、とてもその後刃物を隠したり路上まで移動したりする余裕はなかった。

そもそも、2本目の触角を切り落とそうとした辺りから既に記憶がない。恐らく、切り落としてすぐに意識を失ったのだろう。

母親の視線を感じる。ほとんど顔は見えないし視線を追うこともできないが、なぜか、こちらを見ているなと感じた。


「ものすごく嫌なことがあって、もう何も感じたくないって思って。だから、いっそ触角なんてなくなればいいと思った」

本当ではないが、完全に嘘でもない。

「ものすごく嫌なことって、何?」

母の、当然の質問。だけどオレは、これには答えるワケにはいかない。

「それは言えない」

「話してよ。あんたがこんなことするなんて、よっぽどのことなんでしょう?」

涙まじりの声。母も、思うところがあるのだろう。普段は問題を起こさない息子が、突然こんな大問題行動に出たのだ。

「母さん、ごめん。言えない」

「ねえ、お願いだから。私に力になれることがあれば、何でもするから」

不安というよりも、母が今抱いている感情は恐怖なのかもしれない。息子がどこかに消えていくんじゃないか、とか、死んでしまうんじゃないか、とか。

申し訳ない、と思う。母を安心させるのが、触角を失って新しい生活を始めるオレの第一の任務のように思えた。

「心配させちゃってごめん。でも安心してよ。もうこんな無茶はしないし、自殺とかもしない。というよりもむしろ、もう、多分問題は解決したんだ」

「どういうこと?」

「触角を切り落とすことで、色々わかったんだ。生きていることの価値とか、世界の美しさとか。だから、今日からオレは、今までよりずっと丁寧に、命を大事に、生きていけると思う」

これは完全な嘘だけど、わかりやすいストーリーだろう。異常行動を取った人間が素直に生き始めるよくある説明だ。

「触角を切ったとき、すごい痛みだった。でも、そのことで生きてることを強烈に実感したんだ。そして、くだらない悩み事なんかで頭を抱えていた自分がバカバカしくなった」

嘘でもいい。ヤコのことは説明しない。安っぽい作り話でいいから、母を納得させて、周囲を納得させよう。それがオレに課せられた使命なのだろう。


結局、小一時間ほどの対話の後に、母はそれなりに納得した様子になった。表情は分からなかったけど、会話の後半で、母の言葉の節々には安心がにじみ出ていた。

一段落したところで、母は家に帰っていった。オレは今夜は病院に泊まれということだった。今日はもう夜遅いので、明日色々な検査があるらしい。


母は電気を消して出ていった。

真っ暗な部屋。ひとりで仰向けになって考える。

第二触角を2本とも失った影響は大きい。においが分からない。ほとんど何も見えやしない。誰が誰なのかの識別もできやしないし、ひとりだと歩くのもままならないだろう。

だけど、思ったより問題なく会話はできた。頭は問題なくはたらいているし、触角の痛みも今は大したことはない。

生きていくこと自体はできそうだな、と思う。快適さはだいぶ失われたけれど、不便で生きるのが嫌だということにはならなさそうだ。

──あとは、答え合わせだけだな。

言うまでもなく、オレには最後にして最大の問題が残っていた。

ヤコに会ったとき、あの嫌悪感が湧かないかどうか。今となっては、それだけがオレの関心事だ。

なるべく早く、学校に行きたい。明日……は厳しいかな。明日、午後からでも学校に行けるといいな。ヤコに「また明日」って言って切り上げちゃったしな。

公園でのヤコとの会話を、変な風に切り上げてしまったのを思い出して、少し悲しくなった。ヤコが不愉快に思っていないといいな。泣いた女の子を放置して自分だけで歩き出すひどいヤツだなんて、思われていないといいな。

ヤコ、泣いてたな。あの子は、あんなにボロボロ泣くんだ。

きっと、この二ヶ月で、何度も何度もひとりで泣いてきたんだろう。何度も泣きながら、人前では気丈にふるまい続けてきたんだろう。細い背筋をピンと伸ばして、真っ黒な瞳に、強い意志を宿して。

「でも、生きていかなきゃならないから」と言った彼女の横顔を思い出す。寂しくて、儚い横顔だ。

そういえば、最近見たヤコの表情といえば、悲しそうな顔とか、寂しそうな顔ばかりだ。久しぶりに、彼女の笑顔が見たい。

ほとんど何も見えなくなってしまった今、ヤコの笑顔を見ることはもうかなわない。それはすごく寂しく思える。

いや、違うか。完全に何も見えないワケじゃない。めちゃくちゃ近い距離で笑ってくれたら、きっと今のオレでも、彼女の笑顔を見ることができる。めちゃくちゃ近い距離で、笑ってくれたらいいな。


真っ暗な部屋で思うことと言えば、ヤコのことばかりだった。

眠れない。

一刻も早く、彼女に会いたい。

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