第20話-静まり返った家、カラスの鳴き声。

帰り道で、大きなキッチンバサミと、ナタと、ノコギリを買って帰った。

オレが今からやろうとしている行動に、先駆者はいない。どんな刃物が一番役に立つのか、有効な情報は存在しなかった。

だから、万全を期して色々なものを用意する。刃物だけでなく、止血用の包帯なども買い集めてきた。


家に着く。一応ただいま、と大きな声で言ってみるが、家は静まり返っている。まだ、誰も帰ってきていない。

そして、家族が帰ってくるまで、あと1時間はある。誰かが家にいると都合が悪い。手早く済ませてしまおう。

買ってきた刃物や包帯を部屋の床に並べる。

覚悟は、決まっている。手は震えていない。大丈夫だ。やれる。

──オレは、今から自分の触覚を切り落とす。

ここ一ヶ月で、触角の欠損による症状について、可能な限りの調査を行った。

オレたちの頭上に伸びている2本の触角は、第二触角と呼ばれる。では第一触角はどこなのかというと、ほとんど対外に露出していないごく小さな2本の触角のことをいう。目立つ方が第二で、目立たない方が第一なんて、妙な名付けもあったものだ。

長い方、第二触角が2本とも欠損した個体は、ダンゴムシの生命線である嗅覚と触覚がほとんどなくなるようだ。

だが、ゼロになるワケではない。第一触角というごく小さな触角があるから、そこが担保しているわずかな感覚は感じ取れるままだ。

人間風に言うなら、矯正不能な極端に強い近視になる、という感じだろうか。

第二触角を両方とも失った人の典型的な様子が、あの日のファミレスで、アキラと見た老夫婦だろう。感覚が鈍っているから、障害物の多いファミレスのような場所を通るのは怖い。誰かに手を引いてもらえるとありがたい、そんな感じになるようだ。

そして、かなり頼りない文献ではあるが、「第二触角を両方とも失った結果、非処女への嫌悪感がなくなった」と答えた男性のインタビューを一件だけ発見できた。

一方、第二触角を1本だけ失った場合は、ほとんど生活に変化はないらしい。慣れれば2本とも触角があるときとほとんど変わらない精度で色々なものを感じ取れるようだ。

当然、触角を片方だけ失ったことで非処女への嫌悪感に変化があった、という文献も存在しなかった。


だから、オレがやることは単純だ。第二触角を、両方とも切り落とせばいい。

それだけでヤコへの生理的な嫌悪感がなくなるかもしれないのだ。

もちろん、なくならないかもしれないけど。その時はその時だ。イカれた男が、暴走して障害者になった笑い話が1つ誕生するだけのことだ。そんなもの、世界にありふれているだろ?


バカな試みだと、自分で分かっている。

誰にも相談できない。止められるのが火を見るより明らかだから。

アキラにも、両親にも、ヤコにも、相談はできなかった。

ナタの表面が照明を反射して、ぬらぬらとした鈍い光を放っている。その光から、なぜだか、呆れるアキラの表情が思い浮かんだ。

「お前、ホンモノのバカだったんだな」なんて、ため息をつきながら投げかけてくるアキラの顔。オレはそれに対して、なんと答えるだろうか。

結果が出ているならまだいい。「でも、試み通りヤコへの嫌悪感は消せたぞ。1つ、ダンゴムシ界に新しい手法を送り出せた。パイオニアと言えるだろ」と、減らず口を叩ける。アキラはきっと、「今後ずっと障害者として、満足に歩くこともできない生活をするんだぜ。そんなもの、リターンとリスクが全くつり合ってないよ」とか、「そんなものは手法とは呼ばない。タイでエビを釣る方法を見つけ出したところで、誰もその手法を使わないよ」とか言うだろう。

オレはアキラのそんな批判もどこ吹く風で、「その通りだけど、それでもオレはエビが食べたかったんだ」なんて応えるだろう。

──だけど、仮に結果が出なかった時。ヤコへの嫌悪感は消えず、全くムダに触角を切り落としただけだった時、オレはアキラになんと言えるだろう。


──いや、やめよう。

そんな想像にまとわりつかれていると、どんどん行動への意欲がなくなってしまう気がして、オレは想像を振り払った。

あまりモタモタしてはいられない。家族が帰ってくる前に、全てを終わらせなければならない。


やろう。ここまで来て撤退はない。

さきほど、秋の風が吹く公園で、ヤコが見せた涙を思い出す。「幸福な家庭を持ちたかった」と語った彼女のあまりにも悲しい涙は、救われなければならない。

ヤコは、あんな風に泣くんだ。今までに何度も想像はしたことがあったけど、実際に彼女が涙を流す姿を見るのは初めてだった。

もう、泣いて欲しくない。あの涙を救える可能性があるのなら、オレの一生が台無しになる可能性くらい、大した問題じゃないよな。


ヤコの涙を思い出すと、迷いはなくなった。

一番有力な武器である大きなキッチンバサミを手にとる。

そう。これで決着がついてくれればとてもありがたい。神経が密集している触角を切断するのは、間違いなく一生で最大の強烈な痛みが走るはずだ。

だから、一瞬で、確実にケリをつけたい。キッチンバサミでプツンと触角を切って、それで終わりになれば最高だ。

逆に、思ったより切断が大変で、ノコギリに頼らなければいけない時なんて最悪だ。自分の神経が密集した触角を、ギコギコと少しずつ削っていく……考えるだけでもゾッとする。

これでさっさと終わってくれ、と思いながら、鏡を見る。自分の触角に慎重にキッチンバサミをあてがった。

なるべく勢いよく切断するために、刃の間隔を最大限に大きく開く。

深呼吸をする。痛みに耐える覚悟と、躊躇なくハサミに力を込める準備。

行く、と決めて、一気にハサミのグリップを握りしめた。


がん、と鈍い音がして、同時に激痛が全身を支配した。あまりの痛みで、握り込んだハサミのグリップを保持することができなかった。触角にぶつかった衝撃の反発を受けたキッチンバサミは手を離れ、床に落ちた。金属の乾いた音が響く。

痛みが平衡感覚さえも狂わせる。まっすぐ座っていられない。左手を床につく。じっとしていられなくて、足をバタバタと無意味に動かした。

少しの後、ようやく我に返って、鏡に視線を走らせる。鏡に映ったオレは、激痛に顔を歪めている。口からはだらしなく唾液が垂れ、身体は斜めになって、床についた左手でなんとか姿勢を維持していた。

そして、触角は切れていなかった。キッチンバサミが入った場所は、表皮がなくなり、わずかにえぐれて、体液が流れ出している。

絶望的な気持ちで、鏡を眺める。キッチンバサミでは、触角を一発で切断することはできないのだ。触角の中身は、思ったよりも硬いらしい。

頭が痛い。何も考えられない。脳の中に直接、溶岩を流し込まれたみたいだ。

神経の塊を傷つけられると、こんなに膨大なダメージになるのだ、と初めて知った。


もうやめてしまいたい。最初からバカな計画だったのだ。今すぐに止血をして病院に行って、明日からも普通に暮らす。それでいいじゃないか。そんな考えが一瞬頭をよぎる。

けれど、撤退はない。ほんの30秒前に自分で決意したことだ。ヤコの涙を思い出しながら、ナタに右手を伸ばした。

触角の中には、思ったよりも強い芯が通っている。ナタで枝を切り払うみたいに切断する方が、良いのかもしれない。

涙で滲んだ視界で、鏡の中の自分を見る。触角の傷ついている部分。先ほどキッチンバサミで傷つけた部分にナタを沿えて、慎重に照準を合わせる。

空いている左手は、触角の先端を持った。衝撃が逃げないように、切りたいものの端は抑えておく必要がある。

何度か軽く素振りをして、狙った場所に命中させるイメージを作る。

また深呼吸した後、一気にナタを振り上げて、照準を合わせた箇所に思い切り振り下ろした。


バシッ。さっきよりも、鋭くて高い音。

そして、より大きな痛み。視界が歪む。

触角の先端を握っていた左手に強い衝撃を感じ、右手のナタも大きな抵抗を受けたと感じる。まだ触角が切断できていないことを、感覚から瞬間的に悟った。


だが、鏡を見る余裕がない。激痛で呼吸ができない。

苦痛で、身体は自然に前屈していく。激しい動悸と呼吸困難のため、左手は必死で胸を抑えていた。

体験したことのない速度で脈打つ心臓。頭が、爆発しそうなくらい熱い。それなのに、手足は驚くほど冷たい。感覚がほとんどない。

視線が固定できない。視界がグルグル回る。ぶっ倒れてしまいそうだ、と思った。

ダメだ。今倒れてはダメだ。意識を失うのは、2本の触角を切断した後でなければいけない。

渾身の力で、顔を上げる。鏡を見た。切りつけた触角は、力なく折れ曲がっていた。切りつけた部分の8割方はえぐれ、残った2割の部分でかろうじて繋がり続けている、といった様子だった。


イケる。ここまでくれば、一本は造作もなく切り落とせる。

震える右手で、ナタを再び手に取った。呼吸が荒い。

左手で触角の先端を握り、折れ曲がっている部分にナタをあてがった。何度か素振りをした後、思い切り斬りつける。

ブツッっと、今までに一番軽快な音を立てて、触角がちぎれた。ナタはほとんど抵抗なく振り切ることができた。

痛みはやはり全身を駆け巡るが、さっきの1発ほどじゃない。


涙と、全身を揺らす大きい呼吸、定まらない視点。

そんな悪条件の中で、必死に鏡を見る。触角の一本は無事に切り落とすことに成功していた。

涙と鼻水、唾液で、顔はグチャグチャだった。いや、滝のように流れ出る冷や汗で、全身がグチャグチャだった。粘液を流しながら生きるナメクジのようだ。

極度の緊張と疲労で、全身が意識を失いたがっているのが分かる。

ダメだ。もう一本切り落とす。そうじゃないと、全く意味がない。

今意識を失ってしまったら、頭がおかしくなってしまった息子の身を案じた両親が、息子の奇行を抑え込もうとするかもしれない。

一切の刃物が手に入らない環境にされてしまうかもしれない。触角を切り落とすチャンスが、しばらく得られなくなる。

だから、今一気に切り落としてしまわないといけない。

もうやめたいという意識を、完遂しなければという意識が上書きしていく。頭は動きたくないと思っているのに、身体は勝手にナタを手に取っていた。

手は、汗でシャワーを浴びた後みたいにびっしょりだった。ナタが手汗で滑らないように、震える手にグッと力をこめた。


遠くで、カラスの鳴く声がする。

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