第24話-悲しみを両手いっぱいに抱えて
可能性の一つとして、考えなかったワケではない。
そう。オレの非処女への嫌悪感が消えるかどうかという問題と、消えた後のオレがヤコに快く受け入れられるかというのはまた別の問題なのだ。
だから、当然ながらこういう展開もありうる。そう、分かってはいた。
でも、それほどシリアスに考えてはいなかった。
──きっと、非処女への嫌悪感が消えさえすれば、どうにかなる。
そういう楽観に突き動かされて、触角を切り落とすという奇行にまで至った。というよりも、その先のことまで深く考える余裕がなかった、という方が正しい。
「私は、キミと一緒になるのは、嫌だよ」
ヤコの声が頭に響く。あの瞬間を思い出すだけでも、心臓の鼓動が早くなり、めまいがしそうだ。
大好きな相手に拒絶されることは、本当にツラいことだ。行き場を失った情熱は、どこへ向かえばいいのか。まして、その情熱だけを拠り所に生きてきた者が、行き場のない情熱を抱えて、これからどう生きていけばいいのか。
初めての失恋は、普通ならば良い通過儀礼として語られることが多いだろう。「失恋もいい思い出」になるのだろう。
どこかの部族では、崖から海に飛び込むことが元服の儀式であると聞いた。高い崖に恐れおののきながらも意を決して飛び込み、皆がそれを乗り越えておとなだと認められる。
では、飛び込みに失敗して、大ケガをした者はどうなるのだろうか。
大ケガをして今後の生活に支障をきたして、それでも彼はおとなと認められるのだろうか。彼はそれでも、「いい思い出」だと言えるのだろうか。
ツラい。ツラい。ツラい。
誰かを壊してしまう通過儀礼なら、なくなってしまえばいい。
失恋から立ち上がってみんな大きくなるなんて、全部きれいごとだった。最初の失恋で足が砕けて、二度と立ち上がれなくヤツだっているんだ。
あまりにも救いがない恋の結末は、全てを奪ってしまう。情熱も、再起する足腰も生きる気力も。
何一つやる気が起こらない。ただベッドに身体を預けて、ぼやけた視界に映る天井を見つめるだけだ。
絶望は、死に至る病だ。
ヤコに、あまりにもツラい拒絶を受けてからの一週間、オレたちは一言も口を利かなくなった。
「おはよう」と声をかけるのすら、はばかられた。ヤコの黒い瞳でまっすぐ見られるのが怖かった。またあの凛とした声で、拒絶の言葉を投げかけられるのが怖かった。
この一週間は、あまりにも虚しかった。学校生活の中で、目が見えない状態での暮らしに慣れてきたし、周囲の温かいサポートもあって、少しずつ普通に過ごせるようになってきた。障害を抱えてしまった生徒が、立ち直っていくきれいなストーリー。ドキュメンタリーに使えそうな、美しい光景。
それを演じるオレの心は、乾ききっていた。何一つ、嬉しくなんかなかった。ヤコがたった一度ほほえんでくれる方が、どれほど嬉しかっただろう。
結局、触角を切り落としたことはただの間違いだったのだろうか。
耐え難い痛みに耐え、今後の生活全てにつきまとう不便を受け入れる覚悟をして、親を泣かせて、それでも正しいと信じて実行した。
その結末が、ヤコの涙だった。救いがない。悲劇ですらない。できの悪い喜劇だ。
「私は絶望を抱えながら、自分だけで生きていこうと決意していたのに」
彼女の言葉は、あまりにも哀しくて、あまりにも強い意志を感じさせて、ツラかった。彼女は人生の伴走者を、強く拒んでいた。
それが一番幸せなはずもないけれど、そうやって生きていくしかないと、彼女は決めていた。悲しい決意。自分の負った宿命に、誰も巻き込まないという決意。
彼女の真っ黒な瞳の中には、悲しい決意があったから、だからあの時、吸い込まれそうな恐怖感を覚えたのだろう。強い決意は、彼女の瞳をブラックホールにしてしまっていた。
だけど、涙はこぼれるんだ。当たり前だ。オレも彼女もロボットじゃないんだ。真っ黒な瞳にどれだけ強い決意を込めたって、悲しい決意なら涙が出る。
なんだか、ヤコの笑顔をずっと見ていない気がする。笑顔を思い出そうとしても、黒い瞳から流れ出る涙ばかりが浮かんでくる。
どうして、こうなってしまうんだろう。
オレたちは、幸せになりたいはずなのに。いつだって悲しみがつきまとう。
はち切れそうなほどの悲しみを両手いっぱいに抱えて、唇を噛み締めることしかできない。
「ご飯、できたよ」
母親がドアの外から呼ぶ声がする。食欲はあまりない。呼び出しに答える気力もあまりないのだけれど、母親をこれ以上心配させるワケにもいかない。
普段よりもずっと重い身体に無理やり力を込める。起き上がる気力がないから、身体を少しずつずらして、足をベッドから床におろす。立ち上がるのにこんなに時間がかかるなんて、まるで老人みたいだ。そう自嘲しながら、やっぱり普段よりずっと重いドアを開けて、部屋を出た。
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