「言えない気持ち」⑤

「たっだいまー! あー、楽しかったぁー」

「お帰り、美羽。よかったね、楽しめたみたいで」


 その晩。制服のまま上機嫌で家に上がり込んできた美羽に、悠はにっこりと微笑んでみせた。嫌味ではない。悠は本当にそう思っている。


「うん! 結局、歌ってる時間より、喋ってる時間の方が多かったけどね」


 真っ白なシンプルエレガンス調に整えられた、悠の家のリビングダイニングに、美羽のうきうきとした声が響く。明るいイメージのあるこの部屋に、美羽の笑顔はぴったりと合った。


「待ってて。すぐに料理、温めるから」


 悠はいそいそと対面キッチンの方へと向かう。その向こうにある冷蔵庫に、今夜のご飯が入れてある。


「しんちゃんとゆいちゃんはー? また仕事―?」


 美羽がごご、とダイニングチェアを引きつつ、キッチンの向こうへと問いかけた。


「まぁね。最近、また忙しくなったって」


 しんちゃんは悠の父。ゆいちゃんは母だ。美羽に「おじさん」「おばさん」と呼ばれるのを嫌った悠の両親は、美羽にそう呼ぶよう、物心つく前から義務付けている。本人たち曰く、「美羽ちゃんが自分でそう呼び始めた」とのことだが、悠はそんなの 信じていない。


「さっき一応寄ったけど、うちも両方いなかったよー。どーこほっつき歩いてんだか、あの放浪夫婦は」


 美羽は椅子にとふっと腰掛け、うーん、と伸びをした。


「けんちゃんとれいちゃんも? 昨日もいないって言ってなかった?」


 これは美羽の両親だ。悠がこう呼ぶようになったいきさつは美羽に同じだ。


 電子レンジから、チーンと甲高い音がした。


「そうなのー。お弁当当番もほったらかしでさ。ごめんね、悠ちゃん」

「僕に謝る必要はないけど」


 拝むように手を合わせた美羽の前に、湯気を上げた真っ赤なパスタが差し出された。悠は優しげな所作で、対面のテーブル上に、もう一つの皿を置く。


 美羽はそこで初めて悠の顔を見て、びっくりしたように目を見開いた。


「うわ! どうしたの、悠ちゃん? 顔、怪我だらけじゃん!」

「あ、うん。ちょっと転んだんだ」


 悠は顔のあちこちに貼った絆創膏を軽く撫でて、力ない笑顔を作った。


「転んだって……。もー、気をつけなよー」


 美羽が情け無い表情で悠の顔に手を伸ばした。さわ、と優しく頬を撫でられた悠の胸が、どきりと跳ねる。


「う、うん。でも、大丈夫だったから。心配かけてごめん」


 悠はあせあせと美羽の手から顔を逃がす。


「だめ! ちゃんと見せて! あー、もう。しっかり貼れてないのもあるよー」


 美羽は席を立って悠に迫った。今度は両手で悠の顔を押さえる。悠は逃げられなくなり、かーっと頬を朱に染めた。


「悠ちゃんてさ、昔っから、おっちょこちょいなとこ、あるよね?」

「そ、そんなことないよ」


 ふぅ、と吐かれた美羽の息が、悠の顔にかかった。美羽はぶつぶつと言いながら、悠の絆創膏を貼り直してゆく。ぺり、ぺりという感触がくすぐったい。


「もう、いいってば。早く食べなよ。冷めちゃうから」


 悠が美羽の手を取った。


「あ」


 少し押されて、美羽がさがった。そこに椅子の足があった。美羽は椅子に引っかかり、後ろに傾いていった。


「危ない!」


 慌てて、悠が引き戻す。


「きゃん」


 引っ張り、美羽の腰に回した悠の腕。二人は、自然と抱き合うような体勢になっていた。


「は、あ」


 悠が、息を呑んだ。

 鼻がくっつくほどに接近した二人の顔。美羽の琥珀色の瞳から、ぱちぱちという瞬きの音が聞こえてくるようだ。見慣れてはいても見飽きることの無い美羽の顔を至近距離にして、悠は頭が真っ白になっていた。


 チッ、チッ、チッ……。


 不意に訪れた静寂の中、壁掛け時計の音だけがやけに大きい。じぃっと自分を見つめる美羽の瞳から、悠は目が離せなくなっていた。

 悠の胸には、美羽の柔らかい胸の感触が伝わってくる。心地良い温かさ に、悠の腕が勝手に力を増していた。ぎゅう、と美羽の手を握り――悠は、美羽に見惚れ続けた。


 ぱく、と美羽の小さな口が開いた。それが悠を夢から現実に引き戻した。


「……ね、悠ちゃん。本当に、転んだの……?」

「!」


 美羽の質問は、悠にとって、不意討ちの形となった。虚をつかれた悠はびくっと肩を震わせて、“しまった”と唇を噛んだ。じっと顔を見つめられている。もう誤魔化すのは不可能だった。


 それでも、


「うん」


 と、悠は頷いた。そうするしかなかった。


「本当に? その怪我は、さ。本当は……ほん、とう、は……」


 美羽の瞳が暗い影に覆われていった。


「本当だよ。だから、なんにも心配しなくっていいんだ、美羽」


 悠は影を振り払いたくて言い切った。


「……やっぱりあたし、邪魔だったのかなぁ? 海星にも頑張って合格できたけど……もしかしたら、それが悠ちゃんにとって良くなかったなら……あたし……あたしっ……」

「違う! そんなこと関係ないっ! 美羽が邪魔になんて、なるはずない!」


 美羽に、気付かれている。同じクラスなんだから当然か。上手に隠しているつもりだったが、クラスで悠につきまとう不穏な空気を、美羽は敏感に感じ取っていたんだろう。どこまでも不器用な自分自身に、悠は腹を立てていた。

 美羽は悠に抱かれたまま、こつんと胸に頭をぶつけた。美羽の亜麻色の髪からふわり漂う甘い香りに、悠の脳髄が痺れてゆく。


「あたしの命は、悠ちゃんに助けられなかったら失くしてた。あたしは、悠ちゃんのお陰で生きている。でも、悠ちゃんは、あたしを助けたせいで……体が、弱くなっちゃって……」

「それはもう気にしないでって言ったじゃないか。それに、あれは美羽のせいじゃないよ」

「違うよ! あたしのせいだよ! あたしがっ……信号も確認せずに飛び出したからっ」


 悠の背中には、大きな傷が刻まれている。背中の中央辺りに、大きな傷が。それは道路に飛び出した美羽を助けた時に負った傷だ。小学校の四年生の時だった。

 悠は背骨を折ったが、大手術の末に一命は取り留めた。しかし、入院とリハビリ、傷の後遺症から、その後、著しく成長が阻害された。

 悠の背が伸びないのも、体格が貧弱なのも、そのせいだ。悠は元々活発な方だったが、思い通りに動かない体と貧弱な体躯にコンプレックスを溜め込んで――影のある性格を形成していった。


 力も弱ければ、気も弱い。そんな悠は、美羽の人気も関係して、虐められる存在となっていった――。


「それは、本当に、もう、言わないで、美羽。お願いだから……頼む、から……」

「だって……だってっ……!」


 悠の胸の中で、美羽はいやいやと頭を振った。

 悠はあまりの情けなさに唇をぎゅううと噛んだ。


 悠は、美羽が好きだった。悠が初めてその気持ちに気が付いたのは、幼稚園の頃だった。ずっと仲良くしてきた二人だが、あの事故以来、微妙に関係が変わった。

 美羽はなにかと悠の世話を焼きたがった。これはきっと、“罪滅ぼし”としてだろう。美羽がどう考えているのかは知らないが、悠はそう思いこんだ。


 それでも。


 ずっと自分の側に好きな子がいてくれて、嬉しくないはずはない。しかし、それは自分への“好意”からではない。責任感と、贖罪からだ。悠の気持ちは複雑だった。

 こんな関係で、悠から「好きだ」とは言い出せない。言えばきっと、優しい美羽は、受け容れてしまうに違いない。悠にとって、それは“卑怯”以外の何ものでもない。


 だから、美羽には、もう気にしないで欲しい。

 純粋に、心から、望んで自分の側に来て欲しい。

 そうでなければ――いつまでも、悠は本当の気持ちを伝えられない。


 今の自分がどれほど情 けなくって、頼りないかを知りつつも。

 それがどれほど絶望的な願いであるとしても。

 怪我が治ってからも、悠はずっと、こうした思いに苛まれてきたのだ――。


 ぐすぐすという美羽の鼻をすする音だけが、ダイニングをしばし支配した後。


「はぁぁぁぁ。切ないお話ですねぇぇぇ」


 突然。ルヴァの声がした。


「えっ? だ、誰っ?」


 美羽が顔を上げて振り返る。そこには。


「ル、ルヴァ!」


 ルヴァが、ダイニングのフローリングに立っていた。甲に銀色の装甲がついた手の人差し指で、目尻をついと拭っている。

 サイズは悠たちよりも小さいくらいだった。これぐらいのサイズになると、完全に幼女だ。見かけだけなら、おそらく小学生でも通用する。腰まで伸びた銀の髪や、肌の露出部分の方が多いくらいの装甲も、しっかりと装備している。胸、肩、腕、腰や脛などに取り付けられた、細かな装飾を施されている白銀のプロテクターは、古代ローマを連想させた。


 だが、それらを纏ったルヴァの体は、全体的に透けている。

 ルヴァの体の向こうにある、ダイニングと続きになったリビングルームが、おぼろげに見えていた。


「お、お前……出てくるなって、言ったのにっ」


 悠がかたかたと手を震わせ、ルヴァを指差した。


「ルヴァ? 知ってるの、悠ちゃん?」


 美羽がぎゅう、と悠の制服の胸元を握り締めた。シャツに深いシワが寄った。悠は答えに窮し、口だけぱくぱくさせるのみだ。


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ナイン・サウザンド  仁野久洋 @kunikuny9216

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