第19話
残る行事も順調に過ぎていった。クリスマスが過ぎ、正月が過ぎ、三学期が終わり、卒業式も終わってしまった。春休みのいつかに彼女は娘から離れることになる。
全てをやり終えた感が漂う彼女は、リビングでお茶を啜っている。
その彼女に、俺は話し掛ける。
「娘とは、どんな感じなんだ?」
「どうしたの? 突然?」
「……いや」
何か上手く言い出せない。いつもなら、簡単に言いたいことが言えるのに。
その俺を見透かしたように、彼女が訊ねる。
「もしかして、私の心配でもしてくれているの?」
「どっちかというと、君と君の娘の両方――いや、俺のことなのかな?」
彼女は、静かにお茶を啜っていた。
「聞いてくれるか?」
「ええ」
「君に……逝って欲しくないんだ。未練タラタラなんだけど、君の娘に教え込まなきゃいけないことが残っているなら、君の娘から抜け出ることを延長して欲しい。君の娘が望むなら、抜け出ないで欲しい」
もう一度お茶を啜ると、彼女は静かに答えを返した。
「それは出来ないわよ。私は約束の日に離れることを決めたから、娘に出来る限りのことを教えて伝えたし、その努力は嘘じゃないわ。それを無かったことにして、娘の中に留まることは出来ないわ」
彼女は初めて見せる、困った笑みを浮かべていた。
「だって、全ては私が悪いんだもの。娘を助けるためとはいえ、死んでしまった私が悪いわ。この子に入っているのは、本当の奇跡よ。無くしたはずの、娘と居られる特別な延長だから」
俺は少しだけ肩を落とし、諦めを口にする。
「……そうだよな。ここで話せていること事態が有り得ないことなんだ」
「ええ、そうよ」
彼女は俺の手を取る。
「貴方には感謝しているわ。生前、通せなかった我が侭を通させてくれて。生前、注げなかった愛を娘に注がせてくれて」
彼女は頭を下げた。
「ありがとう」
その言葉を受け入れたくなかった。彼女と彼女の娘と過ごした四年間は、本当に楽しかった。その延長が許されるなら、死ぬまで延長を申し入れたい。
だけど、終わりにしなければいけない。彼女は、彼女の娘に未来を返さなければいけない。一つの体に二つの魂が入っていてはいけない。まして、その体が彼女のものではなく、彼女の娘のものなら……。
だから、彼女が自分の娘の未来を大事に思っているなら、俺は受け入れるしかないのだ。
「とても楽しかったよ」
精一杯の虚勢を張って笑って返すことしかできない。『行くな』と言って引きとめることも出来ない。こんなに彼女を大事に思わせる気持ちを作らせて、居なくなってしまう彼女はずるいと思う。
「明日、娘から離れるわ」
彼女はソファーから立ち上がると、俺を抱きしめて耳元で囁いた。
「私だって、この生活を終わらせたくない……。だけど、私は母親なのよ……」
彼女は震えていた。
「そして、貴方を……娘を任せられる夫だと思っている」
彼女は大切な何かを娘だけではなく、俺にも残してくれた。
――大切な変な彼女が任せたのなら、責任は果たそう。
彼女の言葉を聞いて、俺も覚悟を決めた。
彼女の背中に手を回し、安心できるように抱き返す。
「君の娘が、いつでも笑っていられるように努力するよ」
彼女は小さく頷くと俺を離し、目を擦る。
「今日は、これから娘と気の済むまで話をするわ」
「そうしてあげて」
「ありがとう」
彼女は、最後にもう一度感謝の言葉を告げると、リビングを出て自分の部屋へと向かった。
残された俺は、彼女を忘れないように、彼女と過ごした記憶をゆっくりと振り返ることにした。
…
夜が明けて、彼女が居なくなる日――。
彼女は朝早くから朝食の用意を始め、最後の料理を作っていた。
サラダを作り、サンドウィッチを作り、シチューを作り、ほうれん草のマカロニグラタンを作り、パンケーキまで作った。
朝食のボリュームではないことは、きっと彼女にも分かっていたはずだ。テーブル一杯に並んだ料理は彼女の不安の表れか、感謝の意味が込められているのかもしれない。
「私が居なくなるから、最後に賞味期限が切れそうなのは全部使わせて貰ったわ」
どうやら、俺の勘違いらしい。結局、最後の最後まで彼女は彼女のままだった。
「貴方っていい加減だから、栄養のバランスが心配よね」
「君が来るまで、出来る料理しかしなかったからな。――俺より、娘の方は?」
「好きな料理しか作りそうにないわね。だから、料理を作る時に付け合せのセットで覚えさせたわ。グラタンなんかもほうれん草を入れるものとかを多く教えたわ」
なるほど。それで彼女の娘の好物がほうれん草のマカロニグラタンなのか。
彼女が席に座り目を閉じると、彼女の娘が現われ、ゆっくりと目を開く。
「今日は、朝から豪勢だね」
「冷蔵庫の中の整理をしてくれたみたいだ」
「わたし達はゴミ処理の人みたいだね」
「お腹に入れるのが美味しい料理というのが救いだ」
「うん。いただきます」
彼女の娘は、彼女が作った料理を食べ始めた。
彼女もそうだが、彼女の娘も普段と変わらないように見える。
何処か落ち着かないようで、あと少しで居なくなってしまう彼女のために何かをしなくてはいけないような、焦りにも似た不思議な気持ちがあるのは俺だけなのだろうか?
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「何を考えてる?」
「何をしようか、今までのことを振り返ってる最中かな」
彼女の娘は食事の手を止めることなく、俺に微笑み掛ける。
「おじさんって、面倒臭がってる割にはいろいろとしてくれるよね」
「そうかな?」
「うん。おじさんはおじさんが思ってるほど、いい加減な人じゃないと思う」
「だとしたら、それは君たち親子のせいだな。俺は、君達が俺のところに来なければ変わらなかったと思うよ」
「そうなんだ」
「ああ……。そして、君がいい加減じゃないと感じている今の俺を、俺は気に入っているよ」
彼女の娘はゴクンと口の中のものを飲み込む。
「それは、つまり?」
「彼女と君のために変われて満足しているってことさ」
「……そっか」
彼女の娘は食事の手を止め、ホッと息を吐いた。
「迷惑を掛けるだけの要らない子にならなくて良かった」
「そんなことを考えていたのか?」
「大切なことだよ」
俺は苦笑いを浮かべる。
彼女の娘の方が、俺よりもずっと出来た人間だ。これも彼女の施した教育なのだろう。
「これは責任重大だな」
彼女の娘は首を傾げると、食事を再開した。
何も分かっていないかもしれないが、彼女が彼女の娘に与えた大切なものを壊さないように、汚さないようにしていくことがどれだけ大事なことか……。彼女が残していくものは、とても大きいのだ。
「俺も、さっさと食べよう。折角の料理が冷めてしまう」
「うん、ママの料理は最高だからね。だけど、ほうれん草のマカロニグラタンを食べきれないなら、貰ってあげてもいいよ」
空になっている彼女の娘の器を見て、俺は笑みを溢すと、手付かずのままのほうれん草のマカロニグラタンを彼女の娘の前に置いた。
彼女の最後の調理の一つを食べられないのは残念だが、テーブルの上にはまだまだ彼女の料理が残っている。ほうれん草のマカロニグラタンは、彼女の娘が料理をしてくれるまで少しの間だけ、お預けにしておこう。
…
朝食を食べ終えて一息つくと、やることがなくなってしまった。
普段なら、彼女と彼女の娘の将来について会話をする時間なのに、その会話をすることが出来ない。彼女には、もう明日がない。
「少し早いけど、娘から離れるわ」
いつの間にか、彼女の娘は、また彼女へと入れ替わっていた。
俺に背を向け、左手は腰に右手は頭に当てている。その少女らしからぬ憮然とした態度が、今日から見れないというのは酷く寂しい。
「やり残したことはないのか?」
「やり残しの方が多いから、区切りをつけることにしたのよ」
彼女は振り返り、俺に指を差す。
「貴方、変な私を見ているのが楽しいって言ったわよね?」
「ああ」
「何を仕出かすか分からなくて面白いとも」
「ああ、言ったね」
彼女は両手を腰に当てる。
「それを教えて貰ったから、大丈夫」
俺は首を傾げる。
彼女の言っていることが、今一、分からない。だから、何だというのか?
「私は関われなくなるけど、娘を見て、貴方を見て、見続けて……楽しむことにする」
「楽しむ?」
「私の娘が何を仕出かすか分からない、楽しい未来を見続けるの。貴方が何を仕出かすか分からない未来を見続けるの」
俺はニヤリと笑う。
「ほほう。俺の立場を君が奪うつもりか」
「そうよ」
彼女はフフンと鼻を鳴らす。
「それなら生涯ずっと、俺にとり憑くがいい。君のような霊なら大歓迎だ」
しかし、彼女は笑いながら首を振る。
「残念だけど、それは出来ないわ。私は娘の守護霊になるから」
「ならば、しょうがない。君の娘を出されれば、譲らないわけにはいかない」
彼女は頷くと自分を抱きしめて、目を伏せる。
「じゃあ、今から娘から離れるわ」
彼女が彼女の娘から抜け出る時が来た。
彼女達の中では、既に話は終わっていたのかもしれない。今日は二人が会話をするところを見ていない。朝食でも彼女の娘は、いつも通りだった。
「……ママ……」
だけど、そんなはずはない。彼女の娘は、俺よりもずっと幼いのだ。俺以上に諦めがつくはずがない。
彼女の娘は自分を強く抱きしめていた。
自分の中から母親が居なくなるというのが避けられないことは、彼女から何度も言い聞かされていたに違いない。自分が自分であるために生きることを、彼女は何度も話して理解させていたに違いない。だから、朝食では普段どおりを装った……。
しかし、それでも――。
「離れたくないよ……。一緒に居てよ……」
――彼女の娘は本音を隠せなかった。
彼女の娘にとって、彼女は普通の母親以上に特別だった。どうしようもない社会のルールを無視して命を懸けて助け出してくれて、死んで悪霊になっても母親であろうとしてくれた。そして、今度は娘の将来のために娘と別れる決断をしてくれた。
涙を流す彼女の娘の顔が穏やかになる。
「大丈夫……。いつも側に居るよ。想いは残していけるから」
彼女の言葉に偽りはない。抜け出ても娘を見守るだろう。今までだって、身をもって証明して見せてきた。
「ごめんね、他の子よりも早く親離れをさせなくちゃいけなくて……。子供から大人になるのを無理に強いることになって……」
彼女が更に自分を強く抱きしめた。
「だけど、他の母親が詰め込める以上の愛を貴女には詰め込んだから……。一緒に過ごした日々を一日だって無駄にしなかったから……」
彼女は目を伏せ、静かに目を閉じた。
「ずっと、愛してる……」
彼女の金毛がふわりと上がり、ゆったりと背中に戻ると、彼女の娘は叫んだ。
「ママ――ッ!」
彼女の娘は、自分の中の一部が抜け出たことが分かったのだろう。胸を押さえ、ただひたすらに涙を流し続けていた。本当に愛してくれていた母親との思い出は短い年数でも、計り知れない。
俺は蹲っている彼女の娘の背に手を置く。
「今は泣いていよう……。でも、それ以外は笑っていよう。見守る彼女がいつも笑っていられるように」
彼女の娘は顔を上げると、俺に抱き着いて大きな声で鳴き続けた。
その純粋な行為が嬉しい。彼女の娘を想う気持ちが本物であったがために、彼女の娘は泣いている。本物でなければ、この涙は有り得ないのだ。
「彼女が大事なものを君に残してくれた」
「……うん」
彼女の娘は目を擦る。
「おじさん」
「何?」
「将来、何になりたいか分かった気がする。――わたしはママみたいな一日も無駄にしない大人になりたい」
俺は彼女の娘の頭に手を置く。
「きっと、なれるさ」
彼女が居なくなってしまった日……。
彼女の娘は大人になる決意をして、自分の未来を歩き出す決意を胸に刻んだ。
エピローグ
四月、桜の季節――。
彼女の娘は中学生になった。母親譲りの長い金髪はそのままに、小学生時代の私服から中学生のセーラー服へ……。
「おじさん。入学式、行こう」
「ああ」
俺は、晴れて中学生になった彼女の娘の入学式へ向かうことになる。これからは彼女の娘が成長する節目をしっかりと目に焼き付けていかなければならない。
入学式の時間に合わせるには早い時間だが、それもいいだろう。今日は、陽射しが温かい。ゆっくりと中学校まで歩いて行こう。
俺と彼女の娘は家を出て、中学校へ向かう道路を歩く。
「おじさん。ママも、わたしの制服を見てくれてるかな?」
「ああ、涙ボロボロ流して感激してるよ」
「相変わらず、適当に言うよね」
彼女の娘は可笑しそうに笑い、クルリと回って振り返る。
「記念写真、撮ろうよ」
「俺、そういう風習を持ち合わせてなくてな。家にアルバムの類はないんだ」
「そんな灰色の人生は良くないよ。成長するわたしをバンバン撮って、いつでも見れるようにしとくといいよ」
さすがは、彼女の娘。言いたいことをサラッと言ってのける。
「とは言え、残念ながらカメラがない」
「わたし、持ってる。入学祝いに貰ったお金で買ったの」
「いつのまに……。しっかりしてるね」
彼女の娘はニカッと笑うと俺の腕を取り、右手でデジタルカメラを掲げてシャッターを切る。
「大雑把だな」
「学校に着いたら、誰かにまた撮って貰おう」
彼女の娘は、今撮ったデジタルカメラの写真を確認する。
肩越しに俺もそれを見ながら、俺と彼女の娘は笑みを浮かべた。
デジタルカメラの液晶画面に写っていたのは、これでもかという彼女の娘の笑顔と面倒臭そうな俺の顔。そして、彼女の娘が成長した姿を思わせる横ピースの心霊写真。
間違いなく彼女だった。
「今後、記念日には写真を撮らないとダメだな。こんな面白いこと、そうそうない」
「うん! ママはいつも側に居る!」
霊のはずの彼女の積極性が可笑しくて堪らない。これからの記念日の写真には、心霊写真が増えることになるだろう。
―― 完 ――
君が変して ~Mother & Daughter~ 熊雑草 @bear_weeds
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます