第4話 宴


 もう嫌だ。

 青年は思った。


 「顔色が悪いぞ」

 男が言った。

 

 平然とタバコを吸いながら。

 ちゃんと携帯用灰皿を持っている。


 「そりゃ、師匠は――」

 ――見えないから。


 青年は、頭を抱えた。

 確かに青年は「見える」。


 見えても見えないフリをしてやりすごしてきた。タテアキのアドバイス通り。


 「見えてないと思えば、見えていないと同じだから。こういうものに関わらない方がいいよ」 

 タテアキは忠告してくれた。


 青年は忠告を守ってきたつもりだ。

 だけど、今までのものは、もっと、なんて言うか、奥ゆかしくて、現実の狭間に儚く存在してくれていて、良く見なけれはわからない、そう言うものだったのに。

 

 ――集マレ 集まレ 王のお呼ビダ ――

 ――今宵ココデ 宴ガあるゾ ――

 ――王の宴じゃ 歌モあルそうナ ――

 ――なんト 唄者ノおデまシカ ――


 笑い、ざわめく、異形のモノ達のど真ん中に青年と男は立っていたのだ。


 サルのようなモノ。

 巨大すぎる樹のようなモノ。

 獣面、もしくは顔だけ人間のモノ。


 その数、百人は余裕で超えている。


 こんなリアル妖怪大戦争やめてほしい。

 もしくは百鬼夜行。


 青年はすっかりいやになっていた。


 青年や男を気にすることなく、彼らはざわめき、もうすでに酒盛りを開いていた。


 むしろ、これで何も見えない男の方がすごいと青年は思った。


 何故か、言葉の意味は分かった。

 タテアキは言っていた。

 

 「言葉の意味など分からないことにしたら、分からないのと一緒だから」。

 聞くな、と。


 無理だ。

 青年は思った。


 こいつら存在をアピールしすぎだと。


 本物なのかわからないが、彼らが遊びで使っている人間のしゃれこうべが足元にころがり、青年の靴にあたって跳ね返っていった。

 物の怪と言うくらいなら、もっと儚く存在してくれと。  


 クスリやっているヤツが幻覚で悲鳴を上げる気持ちが分かった。

 そりゃ、こんなもん見えたら、叫ぶよな。叫びたいよ。叫ばしてくれ。


 「オレには、誰もいないただの庭にしか見えないんだがな」

 男はへたりこむ青年を見て、気の毒そうに言った。


 男と青年は、例の洋館の庭にいた。

 タテアキの指示で、家の人間達には全員出払ってもらっていた。

 

 今ここにいるのは、男と青年と、離れにいる・・・・・・蜘蛛女だけだ。

 男の目に映るのは、だ。


 「オレ、どんな人間が相手でも怖くないですけど、もうこれは勘弁して欲しいです・・・・・・」

 青年は泣き言を言う。


 「・・・・・・まだ、わかってないようだな。オレは今だって、人間が一番恐ろしいよ」

 男は笑う。


 離れに蠢く蜘蛛女。

 あれは人間だ。


 そして、ああなってしまった娘を「退治してくれ」そう言う親も、人間だ。


 そして、今からやらことが上手くいかなければ、金をもらった以上、蜘蛛女を始末するのが男であり、そんな男もまた、人間なのだ。


 「・・・・・・上手く行って欲しいとは思っているよ」

 男は呟く。

 出来れば始末したくない。


 「タテアキさん次第ですね」

 青年が答える。


 「ああ」

 男は不本意ながら答える。


 こういうことは、アイツに任せるしかないのだ。

 だが、タテアキが男と青年をここで待たせる意味は?

 何かさせることがあるからだろう。

 それは何か?

 タテアキは何も言わなかった。


 それが、少しばかり気になった。


 足音がした。

 人間の足音だった。

 一人分の足音しかしなかったのに、一人分の気配しかしなかったのに、現れたのは二人だった。


 「お待たせ」

 タテアキだった。


 そしてもう一人。

 男にも見えるから、足音のしない方も人間なのだろう。

 向う側の景色が透けてみえる身体をもつものを、人間と呼ぶことができるなら。


 少女だった。

 息遣いも揺れる髪も、存在しているのに、存在していない。


 人であり、人でなく。

 存在しているのに、存在していない。


 男も青年も、少女に見とれた。

 聞こえない音楽が始まったかのように、少女の登場は、場の空気さえ変えた。

 

 ―― あレは 唄者じャ ――

 ―― ナンと シかし あそコにオルのは人間デハないカ ――


 さっきまで、まるで男や青年がいないかのように振舞っていた彼らがざわめきはじめたのだ。

 彼らも男や青年に気付いたのだ。

 

 ―― 肝取ッテ 喰おウゾ ――

 ―― サれこうべは 杯にしようゾ ――


 嬉々として、男や青年達を取り囲み始めた。


 「うわぁ」

 青年は情けない声をあげた。どうすればいいのかわからなかったのだ。

 色の渦のように自分を取り巻く彼らは、鮮やかであり恐ろしかった。


 攻撃が効くのだろうか。

 ポケットに入れていたメリケンサックを装備する。


 どうせ、見えないんだろうと男へと目をやった。

 男の顔の僅かな表情の変化に青年は気付いた。


 「師匠見えてるんですね」

 「ああ、うっすらとだが、いやだんだん見えてきたな」

 男は青年の言葉に頷いた。


 少女の存在が、彼らの存在を現実に換えつつあるのだ。


 男の厚い肉体に、熱が灯ったのを青年は感じる。

 さすがに、百体近い物の怪に取り囲まれたことは男にだってないはずだ。


 肉体が戦闘モードに入ったのだろう。


 「妖怪辞典には載ってないヤツばかりだぞ」

 男はそれでもそこが気になったらしい。


 「そんなの持ってたんですか」

 青年は苦笑した。


 彼らは嬉しげに楽しげに、でも急がず、こちらにやってくる。

 嘴がカチカチ音を立てて笑い、咆哮がベースのように響く。

 牙が月明かりに煌き、爪を地面に食い込ませる。


 その時、タテアキが叫んだ。

 

 「⊿⊆∈^√∴!!」

 聞いたことのない言葉だった。


 ジリジリと近付いてきていた彼らがピタリと止まった。

 困ったように顔を見合わせる。

 わしゃわしゃと小声で必死に言葉を交わしあう様は、こんな時でありながら、なんだかかわいいぞ、と青年は思ってしまった。


 ぴょん


 彼らの中から、黒い固まりが飛び出してきた。

 長い手足を持つ、サルのような小柄な生物だった。

 黒い油のようにキラキラした目と、愛嬌のある顔をしていた。

 しかし、軽々と2メートル近くを、跳躍してみせたその肉体は、脅威であると青年は判断した。


 「われらノ言葉ヲ話す者カ シカモそれハ 契約ノ言葉ダ 望みハ?」

 ソレは人間の言葉で言った。


 「王のために一曲。この娘が唄います」

 タテアキは人間の言葉で言った。


 ソレは黒い目を楽しげに煌かせた。

 そして男と青年に目をやった。


 「そちラの二人ハ?」

 ソレの言葉に青年も思った。


 そうだよ。オレ達は何のためにここにいるんだ?

 タテアキはにっこりと笑った。


 「皆様への余興といたしまして、相撲と鬼ごっこを」

 タテアキの言葉にソレは笑った。


 取り囲む彼らも笑った。


 「相撲? 鬼ごっこ? 何ですか? ソレ?」

 青年は呆然としながら男に聞く。  


 何勝手に決めてるんだ。

 そう思う。


 男も無言であることから、どうやら男にも分からず、顔にはださないが困惑していることはわかった。


 「まぁ、普通の鬼ごっこや相撲ではないだろうな」

 なんとか男が口にした言葉はそれだった。


 「王はモウスグ来ラレる。それまでの余興、面白イ」

 ソレはそう言った。

 彼らも、拍手喝采だ。

 実に楽しそうだ。


 ―― 勝手に決めるな。

 青年は叫びたかった。

 男を見た。


 「追加料金が必要だな」

 男はつぶやいた。


 ええ? そういう問題?

 青年は思った。


 「オレが出すよ。こちらのお嬢さんの親から百五十万預かっている。今回はホンモノだからオレに謝礼はいらないから、あんたたちがとればいい」

 タテアキが言った。


 「足りん。あと五十万」

 男が言った。


 何言ってるんですか?

 青年は思った。この人達勝手にオレの命の値段も決めている。

 しかもその金、師匠のもとへ言ってオレか貰えるわけじゃないだろう、青年は思う。


 「了解。五十万追加させるし、さらにオレからも五十万だす」

 タテアキが言った。 


 「成立」

 男は、しれっと言った。


 大きな身体が、さらに膨らんだように感じた。

 岩のような身体に、熱い火のような血が通い始めたのだ。

 青年はあきらめた。


 この人に弟子入りした時に、命はいつなくなってもかまわないと決めたじゃないか。

 金の亡者だと知っていたじゃないか。

 まさか、化物相手にこういう目にあうことは考えていなかったが。


 こうなったら。

 なんとしても生き残ってやる。


 青年は、装着したメリケンサックをした拳を構えた。

 こういうものと戦うために鍛えてきたわけではないが、それでも戦うためにこの身体はあるのだ。


 「君は鬼ごっこだよ」

 タテアキが青年に言った。


 三人(匹?)の鬼が、取り囲む輪の中から出て来た。

 様々な姿ではあるが、鬼であることには変わらない。

 絵本の鬼とは違い、目が一つのもの、むしろ目が一つもないもの、目が手の平に二つと顔に三つあるもの。

 異種異様な姿をしていた。

 出鱈目な姿だった。


 ただ、頭に角があることだけが【鬼】であることを示していた。


 そう、醜悪な筋肉で膨れ上がった身体。獣の爪。唇から捲れあがった牙。

 人間など、簡単に引き千切る生物、【鬼】。

 

 キラキラ光る目をもつ生き物が、彼らを背後にしたがえ、早口で何かを言った。

 それをタテアキが青年に説明し直す。


 「今から百数えて、鬼ごっこスタート。捕まったら君、食べられるから」

 タテアキがニコニコ言った。


 「え? 鬼ごっこのルールってそんなのでした? しかも、鬼三人何ですけど?」

 青年は呆然と呟く。


 「うん、でも、ほら、コレ【本物】の鬼ごっこだから」

 タテアキの言葉を青年はどう思えばいいのかわからない。

 その【本物の鬼ごっこ】と言う言葉の意味もわからない。


 「ほら、カウント始まったよ」

 タテアキは笑顔で言って、青年の背中を叩いた。

 その時、青年のブランド物スーツのポケットに、何かをこっそりタテアキがすべりこませたのを、青年は確認した。


 「イち~ ニい~ さん~ シイ~」


 鬼達が、そこは律儀に声を合わせて数えはじめた。

 青年は迷わなかった。

 暗闇の中、山の中へとその肉体を疾走させた。


 「で、オレは誰と相撲をとればいい?」

 男が聞いた。


 取り囲む輪の中から、一人が進み出た。

 

 「おいおい冗談だろ?」

 男は呟いた。


 一応、彼らなりの流儀で、体格はあわせてくれたらしく、男と同体格ではある鬼だった。


 男と同じく、岩を削ったような見事な肉体だった。

身長も、人間にしては大きいが、男と同じくらいの高さだ。

 角はあったが、鬼ごっこの連中とは違い目は二つだった。

 そこまでなら、良い勝負のように見えた。

 腕の太さも丸太のようで、コレも男と同じだった。 

 ただ、その腕は六本あったのた。


 「組み合ったら終わりだろ、コレ」

 さすがに男も突っ込んだ。

 男には腕が二本しかないのだ。


 「相撲も鬼ごっこも元はと言えば、神事でね」

 タテアキが男の言葉には何も答えず、真面目な顔で言う。


 その間にも、せっせ、せっせと瞬く間に彼らが土俵をつくる。


 キラキラ光る目の物の怪の掛け声にあわせて、お祭り騒ぎの中、土俵ができる。

 子供の背丈くらいに土が盛り上げられ、ならされ、酒と供物が埋められ、俵で、輪が描かれる。

 彼らは楽しげに、あっと言う間に、庭のど真ん中に土俵を作りあげてしまった。 


 「彼らも、また神であるんだよ。広い意味では」

 今の男にとって、どうでも良いことを話しながら、男の手にそっと何かをタテアキは握らせた。


 「昔から、審判にばれなければ何をしても良いと言うのは全ての格闘技共通の、暗黙のルールじゃないか? そして相撲は格闘技でもある」

 タテアキの笑顔は崩れない。


 「そうだな、バレない反則は上手いと言うんだよ」

 男も頷いた。


 「この【相撲】の勝敗のつけかたは?」

 男は聞く。


 「同じだよ。相手を土俵から出すか、地面に転がしたら勝ち」

 タテアキはあっさり言う。


 「同じねぇ・・・・・・」

 男にはそうは思えなかった。


 土俵の下にいる奴等は、牙や歯を剥き出しにして何かを待っていた。

 土俵から落ちてくる【何か】をいただくために。


 【何か】。

 オレか? 男は苦笑する。


 顔だけではなく、腕や脚や胴体にいくつもある口が、牙を剥き、ヨダレを流しているモノもいた。


 今の男には、彼らがハッキリ見えるが、見えて嬉しいとは思えなかった。


 例のキラキラした目をした物の怪が、いつのまにか行司の姿で土俵の上にいた。

 澄ました顔をしているが、楽しげだ。

 相撲が好きらしい。

 

「本来ナらバ、オレがとルのだガ、今回ハシカタなイ・・・・・・」

 ブツブツ言っていた。

 

 「両者、土俵マデアガれ」  

 行司が宣言する。


 男は両手をスーツのポケットにつっこんだまま、土俵の片側に上がる。

 行司が、男の靴をにらみつけたので、男は苦笑し、靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、土俵の下に放り投げた。   

 土足禁止らしい。


 わしゃ わしゃ


 どよめきのようなものが起こって、下で待っていた奴等が靴に飛びつき、取り合う。

 牛革の靴が、粘土でも千切るかのように千切られ、ガムでも食べるように食べられてしまった。


 「・・・・・・イタリアで作った一点ものなんだがな」

 男はため息をついた。


 追加料金が必要だ。

 男はまた、ポケットに手をつっこみ、のんびり構えた。

 六本腕の鬼もあがってきた。


 「あの人殺される」

 少女が無感動に言った。


 いや、僅かに動揺していたかもしれない。


 「どうだろう? まあ、見ていよう」

 タテアキは笑って言うと、ポケットからハンカチを二枚取り出し、少女と自分のために敷いた。


 少女に、どうぞと仕草で、座らせる。


 「さっきから色々なものがこのポケットからは出てくる」

 少女は不思議そうに言った。


 男や青年に何かを渡しているのを見ていたらしい。

 「秘密だよ。・・・・・・どんな昔話にも、化物と戦う人間にはお助け【アイテム】が必要とされているわけですからね」

 タテアキは唇に指を立てて、片目を瞑った。


 そう、これはズルではない。

 ヤマタノオロチを倒すのに、ヤマトタケルノミコトは酒で酔わせた。

 ペルセウスはゴーゴンを討つため、神々から姿を消す帽子や、刀や、履くと空を飛ぶサンダル、鏡のように光る盾などを与えてもらった。


 古今東西の英雄記でそれらのことは当たり前のこととなっている。

 人間が人外のものを倒すために手段を選ばないのは、公然のルールなのである。


 「正々堂々と挑むのは化物達のほうなんだな」

 クールに少女は言い放った。


 「そうとも言えるね」

 タテアキは素直に頷いた。


 また少し、少女の存在が薄くなった。

 ―― この子は存在していたいのだろうか? ――

 タテアキは思う。


 さて、結末まではオレにも読めない。

 ここからは、タテアキはただの観客だ。

 さあ、どうなるのか?

 打つ手は打ったけれども。

 タテアキは土俵を見上げた。 


 「見合ッテ 見合ッて!! ハッケヨいノコッた のコッタ!!」

 行司が叫ぶ。 


 鬼は襲い掛かってきた。

 男はスーツのポケットに手を突っ込んだまま、まっすぐに鬼の腹へ、蹴りを放った。


 綺麗な真っ直ぐな軌道を描いた、人間ならば、吹き飛ばされ、内臓を潰され死んでいるような蹴りだった。

 そう、人間だったならば。


 がしっ、六本の腕の内、右側の二本の腕が男の足を抱えこんでいた。


 男のつまさきが、下腹の肉にめりこみ、血を流していたが、鬼は土俵から微動だにしなかった。

 腹にめりこんだつまさきが開けた穴の痛みからか、男の脚を捕らえた喜びからか、鬼は吼えた。

 このまま脚を引けば片足の男は倒れ、鬼の勝ちだ。


 「この相撲、負けたらどうなるの?」

 少女はタテアキに小声で聞く。


 「多分、喰われる」

 タテアキはあっさり答えた。


 男は片脚をとられても、平然としていた。まだポケットに手をつっこんだままだ。

 鬼が男をひきよせようと、捕らえた脚を引いた、その時だった。

 男は鬼が脚を引く力にあわせて、自ら鬼の側によった。

 瞬間、鬼と男の体が密着した。


 ポケットから両手が出た気がした。

 おそらくそうだったのだろう。

 少女にもタテアキにも見えなかったのだが。


 ただ、何かが光ったのと、ジャケットがひるがえったのだけは分かった。

 そして、ふわりと捕まっていたはずの男が鬼から離れたのも分かった。


 多分、鬼にも良く分かってはいなかったのだと思う。

 捕まえていたはずの男が、自分の腕から解放されたのは何故なのか、は。


 鬼は男の片足を捕まえていたはずの腕に、目をやった。

 そして、吼えた。

 それは、怒りの声だった。

 鬼の六本の腕から、全ての指が切り落とされていたのだ。


 それは、土俵の上に転がっいた。30本全て。 


 「何を渡したの?」

 少女はタテアキに聞く。


 「カッターナイフを2本。達人なら新聞紙でスイカが割れるし、剃刀でも十分、指くらいなら切断する。そして、あの男は達人だよ」

 タテアキは驚きもしない。


 そして男がまだ、ポケットから手を出そうともしないことにも。


 「あの人は何?」

 少女は驚いたように聞く。


 「本職は何とかって言う武道の流派の道場主だって言っていたよ。弟子は一人しかいないし、それでは喰えないって笑っていたけどね」

 タテアキは思い出したように言う。


 「武道家が、凶器を使用してもいいの?ずるでしょう?」

 少女は問う。


 「武道だからね。生きるか死ぬかだからね。いいんじゃない? オレにはわからないんだけどね。でも、何かこだわりはあるようだよ」

 タテアキは、男が両手をポケットにいれたままであることを指摘する。


 男はまだ、両手をポケットに入れたまま、鬼と向いあっていた。

 行司は落ちた指に無頓着だ。

 キラキラ目を光らせ、邪魔くさそうに、足先で何本かを、土俵の下に蹴落としたくらいだ。

 土俵の下で待ち構えていた物の怪達が、それを奪いあい、クッキーでも食べるかのように食べてしまった。


 そう、化け物は人間の違反行為にも頓着しない。

 だが、化け物はルールに従う。


 それぞれ嫌いなものがあり、弱点があり、まねかれなければその場所に入れない。

 善悪もない。

 あるのは、ルールとそれに従いながらも、あまりにきままな彼らの感情と欲望だけだ。


 人間とは何だろう。

 男は思う。


 こんな刹那、鬼と向きあいながら、そう思う。

 鬼は、牙を剥きながら近づいてくる。

 血を噴出したままの指のない手を伸ばして、近付いてくる。

 卑怯とも罵らずに近付いてくる。


 恐ろしく恐ろしく、でも、同時に、その恐ろしさとは、畏れでもある。

 彼らもまた、神なのだ。

 ルールに従わず、ルールから外れたもの。それが人間なのならば。

 ルールである神を人間がたおせる理由は分からなくもない。


 男は土俵際、ギリギリに立つ。

 鬼は襲い掛かかった。

 男のジャケットが翻り、何かが煌く。

 鬼の六本の腕が血を吹く。

 「腕の筋を切断したな」

 タテアキが少女に説明した。

 腕は全て動かないだろう。

 しかし、鬼はやってくる。まだ、脚と牙があるからだ。

 鬼は男を負かすまで、攻撃することをやめようとはしないだろう。

 そういうルールだからだ。


 決して、人間の力では場外に押し出されることなどないし、土俵に打ち倒されることもない。まして、殺すことなどできない。

 それもまたルールなのだ。

 ではどうする?

 

【人間】はどうすればいい?

 男は鬼が自分を捕まえようとした刹那、自ら土俵から脚を滑らせた。

 人間ならば、そのまま見守るだろう。

 しかし、鬼は踏み外した男を追って、自分も土俵から飛び出した。

 鬼は男を負かさなければならないからだ。 


 【何もしなければ勝ち】というズルさは彼らにはないからだ。

 彼らのルールは【相手を負かすこと。倒されないこと。殺されないこと】であるからだ。


 男は宙で伸び上がり、鬼の身体を足で踏みつけた。

ポケットから手は出さないままだ。

 鬼の方は腱を切られた腕のため、男を捕まえられない。空しく牙を生えた口をあけただけだ。


 男は宙で鬼の身体に乗った。

 先に、地面に身体が着いたのは、鬼の方だった。


 つまり・・・・・・。

 相撲では同時に土俵から落ちた場合、先に地面に身体が触れたものが負けであるから。

 つまり。

 行司は男の方を指し示し、勝利を告げた。


 わきゃわきゃわきゃ


 土俵下にいたモノ達がけたたましく笑い、鬼に襲い掛かる。

 負けたからだ。

 粘土でも引き千切るように千切られ、鬼は瞬く間に食べられて行く。

 彼らは楽しげに、鬼を食べ尽くしていく。


 男は、地面にころがったままそれを見ていた。

 「童話や神話とは残酷なものだとは思っていたが・・・・・・」

 男は呟く。


 少女も青ざめてそれを見ていた。


 神々はずるくはないが残酷なのだ。

 男も少女も思い知る。

 さすがに男は呆然としていたが、ヨロヨロと立ち上がり、化物どもを掻き分け、タテアキと少女のところまで戻ってきた。

 まだポケットに手を突っ込んだままだ。

 切断する以外では、男はポケットから手をだそうとしなかった。


 少女が、気になったことを尋ねる。

 「何故ポケットから手を出さなかったの?」


 もっと楽に戦えたはずだからだし、ズルをしているのに、今更?

 そう思ったのだ。

 男は苦く言った。


 「ただの自己満足だよ」

 それもまた、人間なのだ。男はそう思う。


「さて、オレの弟子はどうなっているかな?」

 男は呟いた。







 鬼ごっことは何だろう。

 鬼ごっこはどうやったら終わるのだろう。

 鬼じゃない人間が終わらせることなど出来るのだろうか?


 だって、鬼ごっこの終わりとは、鬼が誰かを捕まえて、ソイツが鬼になるだけで、鬼ごっこがこうやったら終わると言うことを、オレはしらない。

 鬼が人になり、人が鬼になる。それの繰り返しだ。永遠に。理論上は。


 青年は思う。

 じゃあ、この鬼ごっこはどう終わるんだ?

 捕まったなら、俺は喰われる。

 それは間違いない。

 だって、今、気配を隠し、木々の影に隠れる青年の側を通っていく鬼は、何故あんなにもヨダレをたらしていると言うんだ?


 青年は、静かに呼吸し、木と一つになるイメージを抱く。

 木に自分を溶け込ませるイメージだ。うまく行けば、木と間違って鳥が止まることもある。


 そして、青年はポケットからタテアキがいれたものを取り出した。

 これだけが助け舟だ。

 オレは化物には勝てない。断言できる。

 しかも4匹だと? 

 確実に死ぬ。

 師匠に保険金が行くだけだ。かけさせられたからな。


 師匠がこの鬼ごっこをしていたら違う結末もあるのだろう、あの人は人間じゃないからな。


 これだけが頼みと、取り出したものを見て青年は怪訝そうな顔をした。


 これは何だ。

 さっぱり分からなかった。




 一つ目の鬼は青年に気が付いた。

 青年が無防備に森の中の獣道に立っていたからだ。

 顔の中心にある、一つしかない、でも人間の目の3倍はある巨大な目は、鏡のように青年を映し出す。


 恐ろしいほどに降り注ぐ月の光は、人間ならともかく、鬼には真昼よりも明るい。

 彼らは夜の存在なのだから

 鬼は青年に向かって走る。

 獲物を狙って走る。

 足場の悪さも関係ない。


 青年がふり向き鬼に気付き逃げ出す。

 速い。

 だが、人間の速さでしかない。


 鬼は速度を上げながら、木々にまぎれようとする青年に向かって跳躍する。

 その牙が肉に食い込む感覚と、舌に広がる血の味を思ったのか、ヨダレを垂らしながら。


 長くねじけた、でも鋭い爪がある大きな手が、青年へと伸びる。

 青年はその瞬間、悲鳴を上げ振り向くが、その手は青年の首を捕らえる。

 鏡のように大きな目に、青年の恐怖で歪んだ顔が映る。


 ゴキ

 鈍い音がして、真後ろに曲がった青年の首に、鬼はずぶりと牙を立てた。




 目のない鬼は鼻を動かし、耳を動かした。

 視界に頼らないため、闇は何の不自由も鬼に与えない。


 目があるべき場所は落ち窪み、目の代わりにそこには耳が余分に生えていた。

 鬼は、茂みの中に体温を感じる。

 ニンゲンの体温だ。呼吸音も、ニンゲンの特有の匂いもする。

 鬼の喉が鳴る。

 唾をのみこんだのだ。

 

 ニンゲンは動かない。鬼に気が付いていないのだ。

 鬼は静かに、動く。しなやかな夜行性の肉食獣のように。

 青年は悲鳴さえ上げなかった。

 鬼は青年の首をねじ切った。

 鬼は暖かい青年の血をあびながら、その身体にかぶりついた。



 三つ目の鬼は確かにニンゲンの気配を感じた。

 地面の下に。

 ほんの少し昔、ニンゲンが、羽根が生えた物凄い炎を落としていく生物、【飛行機】から逃れるために掘った穴がたくさんこの山にはあることを鬼は知っていた。

 額にある目は前を確認したまま、残りの二つの目で地面を鬼は確認する。

 この下にいる。

 鬼は斜面に向かい、ほられたはずの入り口を捜す。

 だが、入り口は塞いだのだろう。鬼が見回してもない。 


 上手く隠してはいる。

 あの短い時間でたいしたものだ。

 だが、斜面には深い割れ目があった。

 腕が一本入るくらいの。


 この斜面中には空洞が広がっているはずだ。

 そこにニンゲンがいる。

 鬼はゆっくりと手を広げる。

 その手の平の表面が、蠢き、皮膚が裂けた。

 いや、裂けたのではなく、手の平には目があり、瞼を開いたのだ。


 ぎょろり。 

 手の中の目は、自分の顔を見つめた。


 鬼は頷くと、その手を地面の裂け目に入れた。

 これで裂け目の中が見える。


 暗闇の中に息をひそめ、身を伏せる青年を、その目は確認する。

 いた。

 鬼は迷わなかった。

 突っ込んでいない方の手で、握りこぶしを作り、その斜面に叩きつけた。


 ずうん

 重い音が響いた。

 斜面が衝撃に震えた。


 元防空壕に隠れている青年まで、その振動は届いたはずだ。


 しばらくおいて、斜面の土は全てくずれ落ちた。

 青年が隠すために盛り上げ枯葉や草で偽装した入り口も、簡単に崩れおちた。

 少し、身を屈めなければならない場所にある入り口から、驚愕した青年の顔が見えた。


 鬼の顔面にある3つの目が、青年を捕らえる。

 鬼は、入り口から、その元防空壕の中に入った。

 声もあげられない青年に向かって、鬼は両手を伸ばす。

 両手の平にある切れ込みが開き、鮮やかな色をした眼球が、青年を捕らえる。


 顔面の3つの目。両手の平にある二つの目。

 全ての目が青年を見ていた。

 青年は絶望の悲鳴を上げる。

 鬼はのしかかり、その喉を食い破った。




 肉を貪っているはずなのに、感覚がない。

 紙を食べているようだ。

 一つ目の鬼は顔を上げた。

 青年の身体が消えた。

 ひらひらと、白い人形に切り抜かれた紙が飛んでいった。

 誰かの手が、鬼の背中に触れた。

 喰われたはずの青年そこにいた。


 青年は言う。

 「タッチ。つかまえた」

 いつもは皮肉っぽい顔が、柔らかに笑う。



 目のない鬼も首を傾げる。

 この身体は軽すぎる。紙のようだ。

 身体が消え、白い紙の人形がとんで行く。

 ポン。背中を叩かれる。

 「タッチ」

 青年が笑う。



白い紙の人形が飛んで行く。

呆然とそれを、三つの顔にある目と、両手の平にうめこまれた二つの目が見ていた。


 ポン。

 背中を叩かれる。


 「タッチ」

 青年は笑顔でささやく。



 鬼達は、地面に融けていった・・・・・・。

 捕まえられたものは消える。

 これが本当の鬼ごっこのルールだったのだ。

 そう、鬼は青年だったのだ。




 「身代わりね・・・・・・自分が殺されるのを見るのは嫌なものだな」

 白い紙の人形を青年は拾いあげた。


 タテアキのくれたものだ。

 身代わりが襲われている隙に、鬼の背中を叩いていったのだ。


 しかし、身代わりを置き、気配を隠し、一鬼ごとに待つのは、思っている以上に過酷だった。

 身代わりより先に見つかれば、殺されるのは自分だったからだ。


 「人形はね、元々紙でつくられ、人の身代わりとされたんだよ」

 声がした。


 青年はぎょっとして振り返った。

 タテアキが立っていた。


 「迎えに来たよ。そろそろメインイベントが始まる。皆は大満足だよ」

 タテアキの言葉に青年は半笑いになる。


 これが、前座か・・・・・・。

 皆?

 怪訝そうな顔をする青年にタテアキが言う。


 「池をスクリーンにして中継されていたんだよ」

 ニンゲンのイカサマを大らかな彼らは気にしないし、仲間を失っても気にしない。 


 ただ、青年の死にっぷりには皆が惚れ惚れ歓声をあげたそうだ。

 青年はげんなりした。


 「アンタが昔、悪いものが憑いたなら背中を叩けって言ってくれたことを思いだしたおかげですよ」

 一応、礼を言う。


 だが、【リアル鬼ごっこ】をするはめになったのも、タテアキのせいなのだとは思いながら。


 「さあ、メインが始まるよ」

 タテアキはニコニコ言う。

 「メイン?」

 青年の言葉にタテアキは空を指さした。


 丸く見事に輝く月の側を、飛んでこちらに向かってくる一団。

 色とりどりの、原色の、衣装に毛皮に煌く牙や羽。

 そして先頭を担がれ、進むのは、パジャマ姿の車椅子の老人。そう杖を抱えた・・・・・・。


 だが、今回、人間は老人だけではなかった。

 隣りの輿に担がれているのは、メガネ姿のまだ少年と言ってもいいような男だ。


 恐怖に顔が歪んでいるから人間だと分かる。

 彼らはゆっくりと地上に降りて行き、青年の頭のすぐ上を色の渦のようにかすめていった。

 メガネの男と地上の青年の目が一瞬あった。

 汚れたスーツの青年は、メガネの男には数少ないリアルに見えたらしい。


 「これは夢ですか?」

 その目はそう言っていた。

 「だったら、いいのにな」

 同情をこめたそんな笑顔を青年は送った。


 一瞬の視線だけの雄弁な会話だった。

 メガネの男ががっくりとうなだれ、化物たちに担がれたまま、飛び去っていった。

 相変わらず車椅子の老人は、むっつりとした顔のままだったことも青年は確認していた。


 「さあ、王のお出ましだ。戻ろう」

 タテアキは青年に言った。


 広い庭を覆い尽くすような色とりどりの化物達。

 彼らは気ままに振舞っていた。

 踊り、喧嘩し、植えられた木々の上で踊っていた。

 しかし、彼らの身体は見た目以上に軽いことに彼は気付く。

 枝に鈴なりに止まった鳥のような化物達。なのに枝は軽くしなうだけだ。

 大山木といわれる木蓮の一種の樹がある。


 その頂上で踊っているのは、その古い樹と良く似た生物だった。この樹の主であるこおは間違いない。

 おそらく3メートル以上は巨体であるはずだけど、細い枝はしなうばかりで折れることはない。


 暗い古い池から顔を出す、若い美しい姿をしているのに、何故か年を経ているのがわかる女。

 おそらく池の主なのだ。

 その水面は波紋をたてない。

 ここはこの世であってこの世ではない。


 彼は悟る。

 スタジオから老人に連れられ、わけもわからぬ内に空を飛んでいた。

 その時は何も見えなかったのに、ここに近付くにつれて、有り得ないものが見えてきた。 


 いや、空を飛んでいること自体がありえなかったのだが、見たことも、考えたこともないモノ達に、連れられて飛んでいることがわかったのだ。

 発光するばかりに鮮やかな、化物達の夜の国なのだここは。


 神輿の上に、車椅子の老人と座って、この宴を見ていた。

 先ほど見かけた、人間の青年を探したが、もう見当たらなかった。


 ―― 畏れてオルぞ 畏レテおるナ ――

 ―― 王サえ許さバ 喰ウモのを ――

 ―― 食うテハならンのかエ ――

 ―― 王ノ命じャ ヤレしかタなし ――


 ひそひそ、化物達が彼を見ながらささやいているのが分かった。

 いや、なんとなく、奇怪な言葉の意味がわかったのだ。

 老人は、初めて興味深げに彼を見た。

 まなざしだけで、聞く。


 ―― 分かるのか? ――


 「いや、なんとなく意味だけが・・・・・・」

 彼は震えながら答えた。


 化物達は、どこから持ってきたのかは知らないが、 目玉でキャッチボールをしていた。


 ―― コレは 赤子ノ目よ ――

 ―― なんト 美しイ ――


 なんて狂った光景だろう。いや、これと同じものを見たことはある。

 いや、これよりも狂った光景だった。


 得意の絶頂のパーティ。

 女達、金持ち、権力者たち、スター、スター志望、それにたかる者たち。貪られるもの達。貪る者たち。

嬌声と、下卑た笑い声が響くパーティ。

 腐った蜜の滴る、鮮やかで、おぞましいパーティ。

 彼らのパーティも、これに良く似た狂気につつまれていた。


 「いや、化物どもは、化物だってわかるだけまだいいや・・・・・・」

 彼は呟く。


 彼が少し前までいた世界では、化物達は人間の皮を被り、自分達が人間だと思っていたのだ。


 「僕は人間なんだろうか」

 彼はつぶやく。


 彼もまた、そのパーティに参加していたからだ。

 老人が、動く左手で、彼のシャツをひっぱった。


 ―― 始まるぞ ――


 その目はそう言っていた。

 鮮やかな着色点のような、化物達がざわめく。

 広い庭を埋め尽くす、華やかな色々が、揺れたように見えた。


 ―― 唄者ジゃ ――

 ―― 唄者じャ ――


 化物達の熱狂的な声があがる。

 拍手、歓声、口笛。

 化物達にとっての、大スターのおでましなようだ。

 化物達の熱狂に、彼も胸の鼓動を早める。

 どんなモノなのだろう?

 興味がわいたのだ。


 興奮に包まれた、庭の色々が、膨らんだ。

 そして、ぽかりと場所が空いた。

 そしてそこにいたのは、


 少女だった。


 儚いたよりない外見。

 透けるような存在の薄さ。

 いや、今彼女は透けている。現実に。これが夢でなければ。


 「――!」

 彼は少女の名前を呼ぼうとした。

 だが、老人が彼の手を強く握った。

 痛みのあまり、黙る。


 「名前ハ口にシテはいけナイ・・・・・・。ココでハ強い力ヲもツから」

 いつのまにか、彼の隣りにいた化物が、老人の代わりに言った。


 サルのような犬のような生物だ。

 大きな目だけはキラキラと黒い油のように光っている。

 彼は黙った。

 少女は化物達にかこまれていても、顔色一つかえなかった。

 青年を見たはずなのに、その視線は何もとらえてはいないようだった。


 ああ、そうだ。

 彼は思う。

 君はいつだって、どこでだって、人間の前だろうが、化物だろうの前だろうが、関係なかった。

 いつだって、ここではないどこかにいた。

 超然と。歌だけを持って。

 それは胸の痛みを伴う思い。


 「唄えと?」

 少女は化物達に問う。


 ―― 唄 ウタじャ うta ウタ ――


 彼らは熱狂する。

 少女は微笑む。

 理解したのだ。

 

 彼らは初めて、少女の歌を聞くわけじゃない。

 少女が歌う時に起こる、怪現象の正体をさとったのだ。

 「ああ、あなた達だったんだな。いつだって私の唄を聞いていたのは」

 少女は地面に座り、ギターを抱えた。

 ざわめきがやみ、静けさが支配した。


 小さなメロディが生まれる。

 虚空に光がともるように。

 少女の指が、音を救い上げ、弦にのせて宙に解き放つ。

 少女の唇が開く。

 そこから、こぼれるのは、この世界に存在しないはずの場所の歌。

 透明な孤独が支配する場所の歌。

 少女だけがただ一人立つ、どこまでも広がる空の下にある世界。


 孤独。

 これほどまでに広い世界をたった一人で持ち続けている孤独。

 少女はその世界を作りつづけ、そしてただ一人そこにいた。


 すべるように広がる草原。

 永遠に広がりつづける星空。


 少女は、それらを歌う。

 恍惚と、化物達も、彼も、老人も、そしておそらく、男も、青年も、タテアキも聞いていた。


 老人の目から涙がこぼれるのを、彼は見た。

 それは、およそ、音楽と言えるものではなかった。

 音で作られた、もう一つの世界。

 少女は歌い手などではなかった。

少女は創造主だった。


 誰もが魂をぬかれたように、少女の歌に聞きほれた。

 そして、もう一人。

 聞いているものがいたのだ。

 庭にある、閉ざされていたはずの小さな洋館の扉が開いた。

 

 ぶしゅう ぶしゅう


 それは泣いていた。

 白い顔が歪み、涙で汚されていた。


 蜘蛛を思わせるように、変形した手足で、這いながら、ソレは少女の歌に引き寄せられたかのように近付いてきた。 


 化物達が、まだ完全に自分達の仲間入りをしていないソレのために道をあけてやる。

 蜘蛛女だった。


 あうあうあ

 

 音楽を軋ませるように、ソレは少女の前で何か叫んだ。

 昔は美しかった唇を歪ませたままで。

 言葉にすらならなかったが。


 少女は、歌うのをやめはしなかったが、ソレの目を冷ややかに見た。

 ほんの一瞬、少女の目に何か、憂いのようなものが見えたように、彼には見えた。


 無表情は変わらなかったが、音楽が変わった。

 少女は美しい女を歌った。

 白い肌の感触の音がした。

 赤い唇の柔らかな色の気配がした。

 華やかな眼差しが感じられた。

 白い指が見える。

 長い手足も。

 音の中に、その女がまるで匂い立っているようだった。


 いや、実際に立っていた。

 蜘蛛女は消えて、そこに立っていたのは・・・・・・、美しい女優だった。


 汚れた布を身体にまきつけただけの。

 女優は驚いたように、自分の手足をみつめる。

 少女の歌が、歪んだ体を作り直していたのだ。


 女優が盗んだ少女の歌が、女優の身体を歪めたのならば、少女の歌だけがそれを、正せるのだ。

 少女は歌い続けた。


 それはあきらめにも似た、ためいきのような音楽だった。

 悲しみと痛みもあった。

 でも、それは許しの歌だった。

 奪われ、侮蔑されたものが歌う、許しの歌だった。


 いや、違うもっと、乾いたあきらめ?

 いや違う。


 最初から少女は誰も憎んでなどいなかったのだ。

 少女の歌を勝手に盗み、勝手に歌った。

 分不相応な歌い手は、その心に相応しい姿に、自らなっただけなのだ。


 少女の預かりしらないところで、自業自得でそうなったことを、盗んだもののために、侮蔑したもののために、少女は元にもどしてあげたのだ。 


 偽りの、美しい姿に。

 そして、同時にどんどん少女は透けていった。

 どんどんと存在を失っていく。

 歌だけが響く。

 このままでは、おそらく少女は歌だけの存在になっていくのが、そこにいる全てのものにわかった。


 存在をなくし、ただ歌うだけの何かになってしまうのだ。

 もう良い。

 歌うだけでいい。

 存在していても、寂しいだけ。

 少女は疲れていたのだ。


 一人なら、何故人の姿をしているの?

 この指が触れるのが、音楽だけだと言うのなら、もう指の形などいらない。

 この唇からこぼれるのが歌だけだと言うのなら、もう唇などいらない。

 誰の目にも止まらないのなら、姿などいるの?

 なら、姿なんかいらない。歌だけになりたい。

 人である必要性を、少女は感じなくなってきていたのだ。


 私という意識もいるの?

 必要なのは歌だけでしょう。


 輪郭が柔らかく、大気に溶け込んでいく。


 消えたい。

 消えたい。

 少女は本当に消えていこうとしていた。

 柔らかく歌だけが、全てを包みこもうとしていた。

 人一人消してしまうほどのの歌がそこに存在していた。


 「待って!」

 彼は叫んだ。

 やもうとしない音楽を止めるために。

 「歌ってはだめだ!」

 彼の悲鳴は、楔のように、音楽の流れを止めた。


 ―― ナンと 無作法ナ ――

 ―― せっカク の名演ヲなンとすル ――


 怒りの声があがったようだったが、彼は気にしなかった。

 もう、やわらかな輪郭しか残っていない少女の元へ走る。


 ごめん。ごめん。

 彼は思う。

 消えないで。

 彼は願う。


 彼は少女が好きだった。

 なんの下心もない、率直さが。

 この世界のことを何も知らない無邪気さが。

 嬉しそうに、仲間の手伝いをする不器用さが。


 今なお、誰も憎まず、ただ消えていこうとする、攻撃をしらない優しさが。


 もう、ぼんやりとした形しか残っていない少女に向かって、彼は手を伸ばした。


 「ごめん。傷つけてごめん。」

 言わなければならなかった言葉が、やっと言えた。


 「消えないで!」

 彼は叫んだ。

 それは、本当の願いだった。


 消えて欲しくなかった。

 この世界にいて欲しかった

 もしも、消えなければならないのならば、それは自分の方だった


 彼は正確に理解した。

 人を傷つけることの意味を。

 今、痛むのは自分の胸だ。


 少女の目が彼を確かにとらえた。

 淡くかすみかけていたその瞳に、彼が映る。

 瞳の奥に光が吸い込まれるように灯る。

 少女のぼんやりした髪に、彼の伸ばされた指が触れた時、その指髪は存在を取り戻した。

 にじむように存在を失っていた髪が、質量を取り戻す。 


 ゆっくりと、少女の身体に確かさがかえってくる。

 点されたかがり火の明かりにが、少女の影を作る

 ギターの音はやみ、音楽は終わった。


 「私は消えなくてもいいんだね」

 少女は微笑んだ。

 その言葉が歌の最後のフレーズで、ギターの弦は最後の音を鳴らし、音楽は終わった。

 少女の言葉に、彼はただ頷いた。

 歌の終わりに化物達は盛大な拍手をおくった。


 「・・・・・・解決、ですか」

 青年は宴の中央の彼と少女を見ながら、隣りに立つタテアキに言った。 


 青年も、男も、タテアキも、黙って隅からこの光景を見ていた。


 「少女の歌を歌ったことが、あの女の人を蜘蛛へと変えた」

 タテアキは言う。


 「あの彼が放った言葉が少女の存在を消した」

 タテアキは、続ける。


 「ならば、少女の歌でもどし、彼が言葉を取り消すしかない。賭けだったよ」

 少女が女を元に戻すだろうか、彼が言葉を取り消すだろうか。


 それはタテアキにもわからなかったからだ。


 「それに、十分な力が必要だった。言葉が力を持つだけの力。これだけの化物が集まる場。呪としての相撲。おにごっこ。宴を行わなければならなかったんだ。」

 タテアキは、条件を繊細に積み重ね、この結末を呼び寄せたのだ。


 「オレ達はオマエの駒か。気にいらねえな」

 男がつまらなそうに言った。

 「その感情は金で解決できるのでは?」

 タテアキの言葉に男は頷く。

 「金額にもよるな」

 「また話し合おう」

 タテアキがそう言ったとき、化物の輪が割れ、車椅子にのった老人が、男達の元に近付いてきた。


 化物達は敬意をもって、老人のために一礼して、道をあけて行く。

 車椅子をうやうやしく押すのは、キラキラした目の化物だ。

 老人は相変わらず、むすっとした顔をしていた。


 「王のおでましだ」

 タテアキはうやうやしく挨拶をした。


 ふん。

 そう言った感じで、老人はジロリとタテアキを睨んだ。

 動く左腕で、老人はパジャマのポケットから、白い人形にきりぬかれた紙を取り出した。


 「使イを 出シたのは おまエダな 返スと言ッテおられル」

 

老人に代わってキラキラした目の化物が言った。


 「寛大なご処置、感謝してます」

 タテアキは頭を下げたまま言う。


 ふん。

 老人は面白くなさそうに首を振った。

 老人の手から白い人形は飛んで、タテアキの手の中へおさまる。

 そして、化物を促し、また輪の中へ戻って行く。


 「使いって?」

 青年は尋ねた。 


 「協力をお願いしたんだよ。使いを送って、今日ここで宴をしますと。そして、その、理由とね。王様は彼を連れて来てもくれた。でも、王は王で、ここに用があったようだったけどね」

 タテアキは答えると人形を、ポケットにしまった。


 「用?」

 青年の言葉にタテアキは輪の中心に目をやる。


 老人は、まだ呆然と立ち尽くす、女優の前にいた。

 ふん。

 老人は美しい女を、つまらぬものを見るような目で見た。

 老人の代わりに、車椅子を押す化物が言った。

 

「人ノ姿を 保ちタければ この山ヲ コノ マまにするようニ 樹一本切ルことモ許サない」


 この山は女優の家の所有物だった。

 そして、女優はたった一人の後継ぎ。

 女優を救ったように見えて、これは呪いでもあった。

 この古い土地を。

 今なお、化物達がいる土地を、守らなければお前はまた、蜘蛛女になると老人は言っているのだ。

 女優は理解し、頷いた。

 彼女は守るだろう。

 美しい姿を取り戻した今、あの姿にもどりたいとは思わぬはずだ。 


 「彼は化物達の王だよ。人のためだけに、動くはずがない」

 タテアキは青年に教えた。 


 利害が一致した結果だったのだと。

 この古い土地を化物のために守りたい王と、少女の存在を取り戻したいタテアキ。そして女を人間に戻したい男と青年。

 それらをタテアキはつないでみせたのだ。


 「賭けだったよ。たった一人の女の子が何を選ぶかで結果は変わっていたんだから」

 そして少女は、女優を元の姿に戻すことを迷いもしなかった。


 「オレ達の生死は賭けじゃなかったんですね?勝てると思ってたんですね?」

 青年はほっとした。


 「いや、呪術的行為が行われて、場の力が増すことが大事だったのであって、正直君たちの生死はたいして問題なかったんだよね。でも、ちゃんと助けたし、勝てたから良かったじゃない」

 タテアキは平気で言ってのけた。


 「ですよね。あんたは事件が解決すためだけに動くんであって、人のためだけに動くわけないですもんね」

 青年は生き残ったことに感謝しながら言った。


 「・・・・・・いや、それだけでもないよ。ボクも。王も」

 タテアキは輪の中心で、彼とよりそうように立つ少女を見ながらつぶやいた。


 老人の車椅子が、少女の前に来た。

 少女は、不思議そうに老人を見つめる。

 老人は笑った。

 無骨な顔が、輝くような笑顔に変わる。

 老人の、動く方の手が少女の頬に触れた。

 溢れるような、優しさがそこにあった。


 「ボクも、王も、あの子が消えないで欲しかったんだよ」

 誰も憎まない。誰も傷つけない。そういう人間はそうはいないから。

 そして、そういう人間はこの世界では、生き難いから。

 「あの子はこの先も、上手く生きていけるとは思えないけれど・・・・・・」

 タテアキは苦く笑う。

 「ああ。今消えなくても、ああいう人間はいつか消える」

 男がタバコをくわえながら言った。


 男は美しい女優を見ていた。

 女優は今はしおらしく、怯えた風情を見せていたが、男はその口元にある歪みを見逃さなかった。

「そして、ああいうヤツはしぶとく生きていく。それがこの世の中だ」

 煙を吐き出し、男はため息をつく。

 「そして、彼は、今は心の底から反省しているが、また同じことを繰り返すかもしれない。同じように」

 男は人の世で終わりなく繰り返される物語を語った。

 「――でも、あの子は誰も憎みはしないだろう。また同じように」

 タテアキはそうとだけ言った。


 男は、肩をすくめた。


 夜か白く明けていく。

 「宴が終わりますね」

 青年が言った。 


 宙に持ち上げられ、飛んで行く車椅子の老人。

それを取り巻くように飛んで行く、色鮮やかな化物達。

宴の跡も、何もかもが消えて行く。

庭に彼らによって作られていた土俵すら、かき消すように消えてゆく。

ただ、いなかったはずの人間、彼、少女、女優がいることだけが、夢ではなかったことを示していた。

宴が終わったのだ。







 後日談。


 数週間後の話である。

 

 街で男は老人とすれ違う。

 昼の老人は王とは思えない。

 車椅子の上でうつらうつらと、眠っていた。


 「やあ、どうも」

 男は老人と言うより、車椅子を押す女性に声をかけた。

 大人しげな、女性。

 老人の娘だ。

 娘は、「あら」と言った感じで微笑んだ。


 「こんにちは」

 娘の声に、ぱちりと老人が目を開け、男に気付く。

 ――オマエか。

 嫌そうな顔をする


 が、男は気にしない。

 と言うより、ちょっとした嫌がらせである。


 「お父さんもお元気なようですね」

 馴れ馴れしい笑顔を娘にふりまく。


 老人は歯をむく。

 ――娘に近付くな。

 そう言って怒っているのがわかる。

 それが楽しい。


 強大な夜の王に、少しくらいの嫌がらせはいいだろう。

 それに、このただ善良な女性と話をすることが、男は嫌いではなかった。


 「おかげ様で・・・・・・。最近、父の友達がよく尋ねてきてくれるものですから。喜んでいるみたいです。あなたのように、家族には教えてくれなかった友達が父にはいたみたいで」

 女性は、そっと笑う。 


 その控えめな笑顔に好感を持ちながらも、男は考える。オレのような友人? タテアキか?


 「もしかしたらお知りあいかしら? かわいい女の子なんですけど。とっても良い子なんですよ」

 娘は顔を輝かせる。

 かわいい女の子だと?


 男の頭の中が疑問符で一杯になった。


 「今も待ち合わせを・・・・・・、あら、来たわ」

 軽い足音がした。


 男は振り向く。

 そこにいたのは、少女だった。

 相変わらず、ギターケースをかついでいる。 


 男をちらりと見たが、少女は男を気にする様子もない。

 ただ、老人と娘に向かって、心の底から笑う。

 娘は少女に向かって手を振る。

 老人の無骨な顔が和らぐ。


 「歌がとっても上手なんですよ」

 無邪気に娘は言った。


 「そうですね」

 男は苦笑しながら言った。

上手いとかそういうレベルじゃないんだが。


 「あら、やはりお知り合い?」

 娘は首をかしげたが、男は首を振った。 


 「いいえ」

 そう言うと、男は礼儀正しく礼をして、老人と娘と少女に背を向けた。


 王は唄者を手に入れたわけだ。

 強い力を持つ歌の歌い手を。

 そして、少女も、王といることで、怪異からは守られるだろう。少女の唄は怪異を引き起こす力があるのだから。


 「ご飯食べて行くでしょう? 何がいい?」

 のんきに娘が、少女に言っている声が聞こえた。

 「なんでもいい」

 少女はそっけなく、でも少女にすれば親しげに言う。

 「また、唄ってくれる?」

 「うん」

 少女と娘の声を後にして、男は歩いて行く。


 前方の、大きなビルの看板に貼りだされているのは、行方不明から復帰した女優の完璧な笑顔だ。

 行方不明も、その直前の劇場での事件も、良い宣伝になり、再び女優の姿は街にあふれた。


 街に流れる歌も、女優の歌声だ。

 だが、少女は気にもとめないだろう。

 少女の歌は、その凄さを全くしらない善良な女性のために今日は歌われるのだろう。  


 物の怪達も密かにあつまるのかもしれない。

 男の胸の中には、あの日宴で少女が歌った歌が、今もまだ響いていた。


 消えることのないメロディ。

 女優の歌は、こんな風には残らないだろう。


 この世界のどこかで、ああ言う歌が歌われているのは、悪くはないと男は思った。


 男にしては、随分、感傷的な考え方だった。

だから、すぐにそう考えたことを忘れることにしたのだった。


終わり

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年老いた男が王になった話 トマト @kaaruseigan1973

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