第3話 蜘蛛女の歌


 「王・・・・・・、王よ・・・・・・」

 人のものではない言葉に目覚めさせられることにはもう慣れた。


 老人は目を覚ます。

 それはいつも真夜中だ。

 どうせ昼うつらうつらと寝ているのだから良いのだが。  


 「夢の中に住んでしまっているのかな」

 そんな風に娘がいらん心配をするのは困る。


 別に不自由な身体に絶望して眠りに逃げ込んでしまっているわけではないのだ。

 ただ、夜忙しいから、昼寝ているだけなのだが。

 隣りの部屋で眠る妻は、一二時に老人のオムツをかえてからは(夜だけは自力でトイレにはいけない。仕方がない)睡眠導入剤を飲み、朝まで目を覚ますことはない。


 この時間からが、老人の王としての時間なのだ。

 ぱちりと目を開け、動く左手で手招きする。


 彼らは、自分達の場所ではない場所には、招かれない限り入れない。

 姿を変えたり、壁をくぐったり、空を飛ぶこともできる彼らだが、そのルールは絶対であるらしい。

 人間などよりはるかに大きな力を持つ彼らが、ルールに縛られているのは不思議で仕方ない。


 だからあのビルの事件の時には、老人が自分で窓を壊さなければならなかった。

彼らは中に入らず、外からそっと老人を室内に入れ、老人が手招きして、やっとあの場所に入ることができたのだ。


 まぁ、そのため余計な現場を、あの男に見られることにはなったし、あの男を面倒から救うためにビルまで破壊してしまうことにはなったが、とりあえず、あそこにあったものを解放してやることは出来た。

 

 王の仕事は思いのほか、大変なのだ。

 彼らにはどうしても出来ないことがあり、老人はそれを彼らにかわって行うのだ。

 老人の手招きに部屋の闇が濃く集まった。


 闇は人のような姿をとる。

 腕が3本あるのは、いいかげんに形を作っているからだろう。結構彼らは適当だ。

 「王、お初にお目にかかります」

 人のものではない言葉で彼は言った。


 ――何があった?

 老人は心の中で問い掛ける。


 老人は介護ベッドを操作する。

 ベッドの背中の部分は持ち上がり、老人を起き上がらせた。

 

 介護ベッドの玉座の足元に平伏し、はるか古くから存在である彼は王に訴えをはじめた。







 少女は歌う。

 ギターを抱えて。


 駅前の、酔うため街にくり出す人々の前で。

 噴水の縁に腰掛け、少女は歌う。

 ネオンの明かり、街灯の明かり、行き交う車の光、電車の通り過ぎる光、様々な光がステージのスポットライトの代りに少女の上に落ちていく。


 音のない声のように少女は歌う。

 あまりに光景に融けてしまうから、あまりにも自然に聞こえてしまうから、人々は立ち止まることなく、でも確かにその歌を聞いていた。


 通りすぎてから口ずさんでしまう、そんな歌だった。

 聞いた時より、聞いた後、胸にのこるそんな歌だった。

 そこにいる全ての人の胸に残るのに、拍手のない歌。


 少女はまるでそこにいないかのように歌っていた。

 歌い終わった少女に、鳴るはずのない拍手が鳴った。

 少女は疑うような視線をその拍手の方に向けた。


 パン パン パン

 どこか嘘くさい明瞭さで、ソイツは拍手をしていた。


 「素敵な歌ですね」

 誉め言葉も何故か社交辞令にだけにしか聞こえない。

 綺麗な薄いブルーのスーツ。


 小柄な少年のような男。

 タテアキだった。


 「・・・・・・」

 少女は不愉快そうに視線を背け、黙ってギターケースにギターをしまった。


 ケースを担ぎ、タテアキを無視して、その場を去ろうとした。


 「おやおや」

 タテアキはその顔に笑顔を貼り付けたままわざとらしく肩をすくめた。


 少女に嫌われることは予想の範囲内だった。


 「その歌、〇〇〇―〇〇の歌ですよね、ラストの曲」

 タテアキの言葉に立ち去ろうとした少女が止まった。


 タテアキが言ったミュージカルと言うか、音楽とダンスを融合させた舞台は、数ヶ月前、評判になりメディアにとりあげられていた。

 学生のイベントとして始まったこの舞台は、口コミで人気を集めて行き、特にその楽曲が人々の心を掴んだ。


 主演女優の美貌と歌声が、また人気を呼んだ。

 ネットで動画が出回り、あっと言う間に世間の注目の的となった。


 ただ、これからと言う時に、主演女優が姿を消し、舞台も静かに忘れられていった。

 楽曲も、彼女がいなくなった今、動画などで残る以外では聞くことも出来ず、忘れられようとしていた。


 「・・・・・・これは、私の曲だ」

 少女は冷たく言い放った。


 主演女優とは似ても似つかぬ姿だ。

 いや、それなりに美しくはある。

 ただ、匂うように、光がこぼれるように美しく、誰もが聞きほれるように歌ったあの女優とはあまりにも違う。


 「そうですね。この歌はあなたの方が似つかわしい」

 タテアキは、嘘ではない言葉を少女に送った。


 全てが少女の前では柔らかにくすんでいく。

 音が、光がそのどぎつさを奪われ、柔らかな影になっていく。

 そういう種類の美しさだった。

 立ち去ってから分かる美しさ。

 少女の歌と同じ。

 聞いている時よりも、聞き終わってから残るのだ。

 それは、この不思議な歌には似つかわしくタテアキに思えた。


 「オレは舞台も見に行ったんですが、あなたが歌った方がいい。この曲は」

 あの舞台の中で、一番有名で、他の曲とは違った色を放ったこの歌は、主演女優の代表曲になるはずだった。


 「だから、私の曲だと言っている」

 少女は、今度は訴えるような声で言った。


 「ええ。それは分かっているんです。でも、その曲を取り返すためにあなたは何を失ったんです?」

 タテアキは、少女に手を伸ばす。


 少女はタテアキと同じくらいの背丈だった。

つまり、小柄だった。

 少女はタテアキの伸ばした手に怯えたが、逃げはしなかった。

 タテアキの手は少女の身体を通りぬけた。

 まるで、ホログラムの中に手を伸ばしたみたいに。

 背負ったギターケースもホログラムだ。


 「・・・・・・実体をなくしたんですね。だから帰れなかった」

 優しくタテアキは少女にささやく。


 少女の目から涙がこぼれる。

 白い頬を伝い、地面へと落ちて行く。

 でもそれは地面に着く前に消える。

 少女は存在しているが実体がないのだ。


 「お父さんとお母さんが捜しているんです。ボクはあなたのお母さんに頼まれたんです・・・・・・話を聞かせて下さい」

 タテアキは噴水の縁に腰掛けた。 


 少女もおずおずと腰掛けた。

 そして、少女の唇が開かれ、少女は話始めた。





   



   



 「何故オレなんですか」

 青年はムダだとは思っていたが抗議をしてみた。


 「それはオレが嫌だからだ」

 男はきっぱりと言い切った。 


 二人はドアの前で言い合いをしていた。

 そこは古い洋風の離れだった。

 美しい庭園の中にあった。


 本館の洋館と同じ職人が建てたのだろうか。似通ったデザインだったが、こちらは小さい。二部屋と台所、浴室と居間があるだけなのだという。

 一般市民からすれば、2LDKのマンションと同じなら小さいとは言わないのだが、金持ちだし、こういう田舎なら小さい方なのかもしれない。


「もうこんな話、タテアキさんの分野だって分かっているじゃないですか。あの人に頼みましょうよ。確かめるまでもないでしょう」

 青年は最後の抵抗をしてみせた。


 青年は防具に身を包んでいた。

 男がどこかで手に入れたアメフトのヘルメットとプロテクターに、身を包んでいた。

 両腕、両脚にもプロテクターのようなものをつけさせられていた。

 もちろん、金的防止のプロテクターもちゃんと着用している。


 「【偽物】だったらどうする。大金が発生するんだぞ。アイツが儲けるんだぞ。オレじゃなく。そんなの嫌に決まっているだろうが。大丈夫だ、【偽物】だったらオマエをどうにかできる人間なんかはそうはいない。オレが鍛えたんだからな」

 男は請合った。


 「・・・・・・【本物】だったら? オレはそういうモノ相手にしたことないですよ」

 青年は言ってみた。


 「その時は・・・・・・」

 男。

 「その時は?」

 青年。

 「頑張れ!」

 男はそう言うと離れの玄関のドアを開け、青年を蹴り込んだ。

 「マジですか、師匠!」

 叫んではいたが、青年は腹を決めたらしい。

 「うわ、なんすか、コレ? 糸?」

 青年は不思議そうな声を上げた。


 開いたドアから男にも見えた。

 壁から床から天井から、糸がはりめぐらせられていた。

 青年は倒れ込んだ拍子に、糸に絡めとられていた。

毛糸、ミシン糸、荷造り用の紐、ありとあらゆる紐がはりめぐらされていたからだ。

 ところ狭しと。

 ピン、釘、テープ、色々なもので、壁に、床にとめられた色々な糸が、幾何学模様に似た模様を描いていた。

 その様子は何かに似ていた。

 そして、糸に絡まった青年。

 そう、まるで。

 ――蜘蛛の巣にかかった獲物のようじゃないか。


 男がそう思った瞬間だった。

 離れの奥から何かが疾走してきた。

 張り巡らされた糸を、ものともせずに。


 そう。

 ――蜘蛛が巣の上を走り獲物に近付くように。


 ただ、蜘蛛とは違い、四本足だったが。

 蜘蛛が自分の身長の何倍も高く、跳ねるように。

 そしてそれは、そんな風に跳ね上がった。 


 糸を身体に絡ませながらも、慌てて立ち上がった青年の身長(百八十センチ以上)よりも高く、跳躍したのだ。


 そう、青年に向かって襲い掛かったのだ。

 問答無用だった。


 それと同時に、青年は小さな呼気を吐いた。身体に絡まっていた糸が、一瞬ではちきれた。

 飛び散る糸の中で青年の身体が美しく回転した。

 美しい弧を描き、青年の長い脚が【それ】に向かって蹴りを放った。


 ぷぎゃあ


 【それ】は悲鳴を上げ、ふきとばされたが、宙で身体を立て直し、床に四つん這いになった。


 「師匠・・・・・・」

 青年は驚いたように叫んだ。


 でしゅしゅ

 でしゅしゅ

 【それ】は笑った。


 笑ったのだとは思いたくなかったが、そうなのだろう。

 白い、美しい顔が、ここまで下卑た表情を浮かべられるのは驚きだった。

 べたっとした、媚びと悪意に満ちた笑顔だった。

知性が感じられることが、逆に吐き気をおぼえるような醜悪さを感じさせた。

 涎をたれながし【それ】は笑った。


 「【本物】だ!オマエの蹴りをうけて平気な女などいない!」

 男は認定した。

 「了解。【巣】から脱出します」

 青年はゆっくり後ずさりながら言った。


 これはもう、人間ではない。

 顔こそ人間の顔だし、手足も胴体もパーツごとでは人間のものに見えなくはない。

 しかし、骨格が完全に変形してしまっている。

 最初から四足で動く動物のように。

 背骨も肩や足の関節も変形してしまっている。

 そう、遠目からならば、巨大な蜘蛛のように手足は突き出ていた。


 それにさっきのスピード。

 人間はあのスピードでは動けない!

 青年は思う。

 オレじゃなきゃ、やられていた。と。


 【それ】を刺激しないようにゆっくり後ろ向きのまま、ドアへと向かう。

 倒すことが仕事ではないからだ。

 むしろ今回の仕事は・・・・・・。


 だが、ドアまで数センチの場所で、【それ】は再び飛びかかってきた。

 巣から出たら獲物を逃がしてしまうからだろう。

 速いが、動きは単調だ。

 もう一度蹴るのは難しくなかった。

 だが、もう蹴るわけにはいかない。


 【彼女】を助けることが仕事なのだから。

 なので、防具で保護された左腕をあえて、差し出す。

 思った通り、【それ】はそこに噛み付いてきた。

 犬歯まで変形していた。

 獣のような牙を、腕のプロテクターに食い込ませる。

 プロテクターごしにその力を感じ、青年はぞっとした。

 プロテクターがなければ、確実に腕を食いちぎられていだろう。

 

 それでも、青年は冷静に、自分の腕に食いついている【それ】の首を指で抑えた。

 僅か一瞬で、【それ】はぐにゃりと身体を弛緩させた。

 頚動脈を極めたのだ。

 

 「意識を失っても、腕には食いついてやがる」

  気味悪そうに青年は言った。

 ソレは腕にぐにゃりとぶら下がっていた。

 

 「どうします?」

 男に尋ねる。


 男はいつの間にか、巣の中に入ってきていたからだ。

 「ここに放置して、オレ達は撤収だ。・・・・・・とりあえず、な」

 男は言った。

 「師匠がここにいるってことは・・・・・・」

 にやりと青年は【それ】から自分の腕を外しながら、笑った。

 (正確には、【それ】の牙が食い込んでいるプロテクターを外したのだ)


 「心配してくれたんですか?」

 青年は嬉しそうだった。口は悪いが、男に心酔しているのである。


 「黙れ」

 男はそれだけを言った。面白くない顔で。

 だからきっと、「そう」だったのだろう。

 

 二人は離れのドアを閉めた。

美しい庭だった、光がこぼれていた。風が気持ちよかった。


 その中に二人はいた。

 二人は、本館の洋館に向かって歩きだした。

 

 ぶしゅう ぶしゅう

 

 人ならぬモノの声が、綺麗な空気を汚し、二人の耳に届いた。

 獲物を取り逃がした【それ】、いや、【蜘蛛女】が意識を取り戻し、悔しさに叫んでいるのだろう。

 巣の外には出られないのだ。


 「・・・・・・助けられるんですかね」

 青年は尋ねる。助けられる気がしなかったからだ。

 あれはもう、人間ではない。

 男の答えは青年が予想したものとも、期待したものとも違っていた。 


 「助ける、の定義によるな」

 男はそう言ったのだった。


 「娘さんをどうしたいんですかね」

 男は尋ねた。


 写真がたくさん飾られている。

 全て同じ女性の写真だ。

 白い肌、柔らかに巻いた髪、媚びが魅力となる口元。

 程よく笑い細められた目には華やかな光がいたずらっぽく宿る。

 魅力的で、美しい女性だ。誰もがそう言うだろう。

 実際、男の隣りで、青年は並べられた写真に無遠慮に手を伸ばし、「おおっ」などとつぶやいている。

 品定めをして合格サインをだしたようだ。

 写真の女性の親の前でも、こういうことをやってのける無神経さが、逆に清清しい。


 男もこの女性を美しいと思っただろう。

 この写真が一枚だけならば。

 だが、そこに並べられた全ての写真が、同じ表情をしていることに男は気がついていた。


 小学生、中学生、高校生、大学生。

 そして一番最近の、舞台で挨拶している写真。

 ピアノの発表会、バレエの発表会、制服をきた弁論大会の表彰式。

 時間も場所も、取られる角度も、全て違うのに、その微笑だけは一緒だった。

 その異様さ。

 それは、この女性が写真に一番美しく自分が撮れる表情を熟知し、それをやってのけていたのだろうと男は推測する。


 それは、奇妙な話だ。

 それは、異常な話だ。

 プロの女優ならともかく、ずっとずっとこの女性はそうしてきたのだ。 


 いや、男は思い直す。

 そういう女性だから、女優になれたのだ。

 額にいれられた、壁に飾られたポスター。

 女性はそこでもあの微笑を浮かべている。


 数年前、話題となった舞台、学生達が小さなシアターを借りておこなった舞台は、インターネットでその一部が流されたことをきっかけに、その名を広く知られることになる。


 コンサートとも、ミュージカルともつかないその舞台は、まだ荒削りだが可能性のあるメンバーと、ストーリーと楽曲の良さ、何より主演女優の魅力と、彼女が舞台の最後で歌う曲で大ヒットした。

 彼女が、舞台のラストシーンでその歌を歌う動画は、信じられない数再生された。

 海外にまで報道された。

 その舞台を作り上げた学生はプロになり、

 そして彼女は時代のシンデレラになった。


 ・・・・・・はずだった。


 女性の母親は、青ざめてはいたが、落ち着きはらっていた。

この事実をもうそれなりに受け入れているようだった。

「治してもらいたいんです。・・・・・・あんな姿では・・・・・・」

 その後、母親は確かに言った。


 青年は、下品な目で見ていた写真(写真立ての女性の水着写真)を取り落としそうになった。

 男は顔色一つ変えなかったが。

――お葬式もあげられない――と。母親は言った。

 男は気がついていた。


 「最初から言ってくれたらよかったのに。何の食料も水も与えていないのに、娘は死なない。あれはもう人間ではないと」

 男は言った。


 そう、あの離れには少なくともこの数ヶ月、誰も足を踏み入れた形跡がなかった。


 「主人が指を食いちぎられたもので・・・・・・」

 女性はそうとだけ言った。


 食料や水を運ぶことをやめていたことを、そ認めたのだ。

 この母親の中では、もう女性は死んでもかまわないものなのだ。


 「で、どうしたいんです?」

 男はもう一度聞いた。


 「あの子が元に戻るのが一番ですが・・・・・・、でも、無理なら・・・・・・」

 母親はまた、確かに、言った。

 ――退治して下さい――と。


 賞状やトロフィーがいたるところに並べられていた。

 ピアノ。バイオリン。

 賞状だ。

 弁論大会、書道の入賞、バレエやダンスの賞状もある。

 かざられたたくさんの写真。

 美しい自慢の娘だったのだ。

 【そうである】限りは。

 女性がいつも浮かべる完璧な微笑の意味を男は知った。

そうでなければならなかったのだ。


 「やってみましょう」

 男は顔色一つ変えずに引き受けた。


 少なくとも、良い金にはなる。

 そして、男には見えなかったが、その時青年は見た。

 何かが、部屋を横切るのを。

 もやのようなものだった。だが、そのもやには目があった。数え切れないほどの目が。

 ぼんやりとした濁ったゼリーのようなもやの中で、くっきりとした血管の浮いた眼球だけは生気をはらんで、それら全ての目がこちらを見ていた。

 青年は見えないフリをした。

 タテアキから教えられている。

 「見なければ、いないと同じ」と。

 だから眼球と目があっても、その背後を見ているふりをした。 


 だが、青年は声さえ聞いた。

 ――ふむふむ もうすぐだ 王が助けてくださる――

 それは確かにそう言った。

 いや、言葉の意味は分からなかったが、何故かそう言っているのはわかったのだ。




 




「仲間だと言った」

 少女は言う。


 はっきりした明かりのある室内では、少女の姿はゆらいで見えた。

 そこはタテアキが泊まっているホテルのロビーで、もう夜遅いため、そこにいるのはタテアキと少女だけだった。

 上品なオレンジの明かりは、少女の影だけは壁に落とさない。

 もともと、どこか存在が感じられない容姿をしている少女が、実体を失ったため、その存在は危うく見えた。

 儚い輪郭が不意に空間に融けてしまうのではないかと思ってしまう。


 タテアキは優しく少女をみつめる。

 この男は人間以外のものには、驚くべきほどの優しさを発揮する。

 つまり、今、少女は人間ではないと言うことだ。


 「だから、あの歌を歌った」

 少女は語り始めた。




 少女は音が好きだった。

 子供の頃から。

 風が木々を抜ける音。

 コップをはじく音。

 非常階段の響く足音。

 少女の興味は音にあった。


 音を聞く。

 全ての音が少女には意味があり、少女の中に記憶されていった。


 「私は5才まで話をしなかった。聞くのに忙しかったから。でもある日思ったんだ。自分でも音をつくれるんじゃないかって」

 彼女の声帯が音を立てた瞬間から、彼女の歌は始まった。


 彼女の両親は、音楽に興味のない人間だった。

 家には音楽を聞く機械もなかった。

 わずかにテレビなどから聞こえる音楽だけだったが、あまり見ることが出来るテレビも限られていた。


 両親はテレビなどに娘を預けはしなかったのだ。

 特に、あきらかに他人とは違う娘に悩み、精一杯教育しようとしていたのだから。


 だから、彼女の音楽は遥か原始の音楽から始まったのだろう。

 楽器もない、形式もない、まず音を立てることから始まる音楽から。


 彼女の最初の歌は音楽だったかどうかはあやしい。

 でも、それは夏の風が抜けて行く茂みの音だったし、大地を冷やす夕立の音だった。


 それは、両親を怯えさせた。

 彼らには何が始まったのかが分からなかったのだ。

 ただ、娘からこぼれ出すものに圧倒された。

 そして、彼らは音に異常に執着する彼らの娘に、音楽を与えることをやっと思いついたのだった。


 近所のピアノ教室に娘をいれた。

 「娘さんは、もっと高い教育を・・・・・・」

 ピアノ教室の先生である優しい老婦人はすぐに、そう言った。


 少女の才能はずば抜けていた。

 でも、両親はそこまで望まなかった。


 話すように。

 人と関われるように。  

 娘に彼らが望んだものはそれだけだったし、大体娘も、ピアノが弾けるだけで満足だったし、決められた曲よりも即興でピアノを弾くのが好きだった。


 老婦人は残念がったが、同時に安堵してもいた。

 ――この子のものは、音楽ではないのかもしれない――

理由なくそう思っていたからだ。


 何かが危うく、狂わせていく、何かがおかしい。

 そう思いながらも、老婦人は少女が作り出す世界に耳を傾けずにはいられなかった。

 その内、老婦人がボケたと言う話が聞かれるようになる。

 庭のテーブルで、見えない誰かとお茶をしていた。

 一人暮らしのはずなのに、子供か何かを叱っているようだった。でも、誰も見えなかった。

 何かを笑いながら追いかけていた。

 そういう噂が流れた。


 しばらく後老女は庭でなくなっているのを発見された。

 老女は、美しく着飾りお茶でもするかのように広げられたテーブルに着きなくなっていた。


 奇妙なことに、そのテーブルには、4、5人分のお茶菓子が用意されていたようで、ほぼ食べられていたのたが、老婦人の胃からほんの少しだけしか菓子は検出されていなかった。


 指紋も足跡も、誰かがいた形跡もないのに。

 少女の正規の音楽教育はここまでだった。

 その後、自由に少女はピアノを引き続ける。 


 そして、歌い続ける。

 成長し、持ち運べると言う理由で、ギターが気に入った

 そして、あちこちで弾き歌うようになって言った。


 「人のあまり来ないとこ。邪魔の入らない場所」

 少女は説明する。


 少女は好きな場所で、好きなように歌った。

 音から音楽へ興味が移ったことは、少女を安定させ、何とか学校生活も送ることができた。


 ピアノや歌が上手いと言うことは、尊敬された。

 何より「歌って」という頼みは断らなかった。何でも歌ってあげた。だから、風変わりな性格も、それなりに周囲に受け入れられた。


 ただ、「あの子が歌うと何かがおこるのよね」そう言われた。


 電気がきえたり、奇妙な音がしたり、たくさんの影だけがみえた気がしたり。

 薄気味悪くはあったけれど、皆少女の歌が聞きたかった。

だから、かまわなかった。


 そして、高校を卒業する頃、少女の前に、その人があらわれた。


 「一人で歌うのに飽きない?」

 背の高い、メガネをかけたやせた人。

 少女の噂を聞きつけてきたのだ。

 大学生で、仲間とある舞台がしたいんだ。そう言っていた。


 すればいい。と少女がそっけなく答えると、噂通りだな、その人はそう言って笑った。

 どんな噂なのかは知らないし、興味もなかったが、その人の笑い声が気に入った。

 少女にしては最大限の愛想の良さで話を聞いた。


 「私はそういうところでは歌わない」

 少女は結論をすぐに出した。


 「ん~、でも考えてくれない?ここで練習しているから遊びに来てよ」

 メガネさん(少女はそう呼ぶことにした)は練習場所と練習日時を教えてくれた。


 「歌じゃなくてもいいんだ、一人で歌うだけじゃなく、何かを一緒にしてみない?」

 メガネさんはそう言った。

 意見だけでも、君の意見はすごい参考になるはずだから。


 「・・・・・・寂しくない?」

 メガネさんはふと、心配そうに言った。

 良い人なのだ。声でわかる。でも少女には、寂しいってことが良く分からなかった。

 だって、ずっと一人なんだから。


 「遊びにくるだけでもいいんだ。・・・・・・おいで」

 メガネさんは優しく笑った。

 その声のトーンが心地よかった。

 それだけの理由だった。


 少女は、彼らの元を訪れるようになった。


 「そこに、あの女がいた」

 瘴気のように媚びを撒き散らした女が。


 少女には媚びの意味がわからなかったが、不愉快に感じられた。

 この二人は間違いなく正反対の生物だった。

 女は、人の関心の中でしか生きられず、少女は自分の中にしか生きられなかった。

 しかし、どちらも才能というものに恵まれていたのは確かだった。 


 人の注目を集めるために生まれた才能と、人とは違うものの中にいるからこそ生まれる才能。


 主演女優と少女の出会いだった。


 少女は女優の中に不愉快さを感じ、女優は少女の中に自分の邪魔をする可能性をみつけた。


 ただし、二人にはまだ、対立する理由はなかった。

 

 女優は少女を傷つけはしなかったし、少女はまだ女優に対立するものではなかったからだ。


 少女は彼らを手伝うようになる。


 荷物を運び、コーラスの練習にピアノを弾き、練習場の掃除を手伝った。

 彼らは大学生が多かったが、社会人や高校生もいた。

 エネルギーがあった。

 新しいものをつくりだそうとするエネルギーが。


 メガネさんが主体で、作り出していくこの空間が、少女は好きになっていった。


 変わった少女をとまどいながらも、彼らも少女を受け入れて行った。


 少女には間違いなく才能があったし、少女が無邪気に楽しそうに手伝う姿が、無愛想ではあっても、少女の本質を現していたからだった。

 主演女優としても、役に立つものを排除する必要はない。


 少女が【歌える】ことは知った時は危険視したけれど、少女が舞台に立つ気がないと知ってからは安心したのだ。


 媚びと言うものは、相手に良く思われたいということだ。主演女優は優しい言葉を少女にかけさえした。

主演女優は、少女からだって嫌われたくはなかったのだ。

 いつか排除するとしても。


 私を思って。

 私を良く思って。

 私を誉めて。


 そのための努力をおしむことはなかった。

 女優は、全てにおいて完璧だった。

 美貌や才能に驕ることなく、努力し、笑顔で裏方もこなした。

 自分で曲も書き、それは確かに、人を惹きつけた。

 

 私を見て。見て。見て。見て。


 女優は歌った。


 誰もが、女優に目をやらずにはいられなかった。

 それが女優の望みだったからだ。

 それはうまく行っていた。


 舞台はすこしずつ、ファンを集めてきていた。

 学生の遊びのレベルからは抜けつつあった。

 だからこのままだったなら、女優と少女の間には、友好関係こそなかったが、それでも、それなりに上手くやれたのかもしれない。


 女優は爆発的な人気こそ得られはしなかっただろうけど、確実にキャリアアップし、この小さな舞台を離れ、チャンスをつかんでいっただろう。

 ただ、全ては少女の曲から始まったのだ。

 

 だれもいない練習場で、少女は歌っていた。

 ピアノを弾いて。

 それは、ラブソングだった。

 

 メガネさん。


 いつしか少女はこの舞台を主催する、優しい大学生にほのかな恋心を抱いていた。

 それは、恋とも言えないものなのかもしれない。

 だけど、少女は大学生に感謝していた。

 

 一人でずっと歌っていた。

 でも、今私は一人じゃない。

 その思いが歌になった。


 一つしかないメロディに、たくさんの音が重なって行くように、少女はここで、初めて人といることの意味を知ったのだ。

 

 少女は歌った。

 

 もう、一人ではないことの意味を。

 それは大切な歌になった。

 少女による、少女のための大切な歌。


 その歌を女優が聞いたのだ。

 練習場には入らず、彼女はその歌を記憶する。


 女優はその能力で悟る。

 この歌こそが自分に全てを与えてくれることを。


 そして同時に悟る。

 この少女を排除する時がきたことを。

 うまくやらねばならない。


 この子は一人で勝手に歌っているだけで満足なんでしょう?

 じゃあ、いいじゃないの。

 私が上手く使ってあげる。


 女優の口元に笑いが浮かぶ。

 それはいつもの完璧な笑顔ではなかった。


 歪んで、媚びた、下品な笑顔だった。

 だけど、女優は気がついていなかった。


 練習場に、少女しかいないはずの練習場の壁にうつっていたのは、少女の影だけではなかった。無数の影が壁に映り、それらもうっとり少女の歌を聴いていたことに。






 「その人はあなたの歌を盗んだんですね」

 タテアキは少女に言った。

 なんて危険なことを。

 この少女の歌は、ただの歌ではないのに。

 少女は頷く。


 「でも、良かった。歌ならあげた。皆の為になるなら、あげた。でも、違う。あの人は私を消した」

 少女は涙を流す。でもその涙は、床につくまでに消えるのだ。






 「ね、良い歌でしょ」

 女優はメガネをかけた大学生に微笑む。

 完璧な微笑。


 大学生は真剣な顔で、考えこむ。


 「これ、舞台の最後に使えると思うの。すこし、ストーリーを変更して」

 女優は嬉しそうに提案する。


 女優は脚本家、兼、作曲家(女優も作曲していたが、舞台の半分以上の曲は彼が作っていた)兼、演出家である彼に提案した。


 答えなどわかっているはずだった。

 彼にも野心はある。

 この歌を加えることにより、舞台は変わる。

 それは、彼の野心の先に、彼を連れて行くきっかけになるだろう。


 「・・・・・・でも、彼女は望まない」

 彼は少女が、自分のためだけに歌っているのを知っていた。

 彼は、彼女が好きだった。

 才能とはあれほどまでに美しく、無欲なものなのか。

 自分の野心や才能とは離れた場所で歌う少女が好きだった。


 「・・・・・・バカじゃない?」

 女優の完璧な笑顔が壊れた。


 歪んだ微笑が浮かぶ。

 それは、媚びていて、浅ましく、それでいてどうしようもなく、彼の劣情をそそるものだった。


 「どこにも発表する気もないなら、私達で有効活用してあげるだけじゃない。それのどこがいけないの? ・・・・・・わたしはね、有名になりたいの。こんな小さな舞台じゃない、もっと大きな舞台で歌うのよ。・・・・・・あなただってそうでしょ? いつまで、学生のお遊びの延長を続けるつもり? たった一曲だけよ。それだけ」

 女優は白い指を、彼の頬に伸ばした。


 彼はぞっとした。

 毛だらけの触手に捕まれたような気がしたのだ。


 女優はその美しい唇を、彼に近づけ、囁いた。

 腐敗した肉の匂いがしたような気がした。


 でも、彼はその後重ねられた唇から、逃れようとはしなかった。


 ――あの子を追い出すの。あの子が、何を言い出したって、誰が信じるの? あんなおかしい子。追い出された腹いせだって皆思うわ。それに、もともと一人だったのよ? もとに戻っただけじゃない――


 言葉と共に重ねられた唇は、共犯の証だった。


 言葉少なく、言葉足らずで、誤解されやすい少女を、彼は思った。


 嘘のない言葉と音楽が少女を作っていた。


 悪意のない少女といると、世界が美しいと思うことができた。

 それは、今この目の前にいる女優といると、世の中は欲望で出来ていると感じられるのと同じだった。


 いや、彼は思った。

 この世界は欲望で出来ていて、汚らしいものなのだ。

 そして、自分もまた、今唇を重ねている女と同じ位、醜い生物なのだ。


 「あの子を、追い出すの」

 女優はもう一度囁いた。


 その目は異様な光を放った。

 巨大な虫の眼球を彼は連想した。

 女優はもう、美しくはなかった。


 彼と同じで。


 だからこそ、彼はその瞬間、女優に惹きつけられた。

 この醜さに自分をなじませてしまえば、きっと耐えられる。そう思ったのだ。


 彼は、女優の背に腕を回し、抱き寄せた。

 女優が耳障りな声で笑った。

 でしゅしゅしゅ

 カサカサ動く、蜘蛛をだいているような感覚がして、耐えるために彼は目を閉じた。



   




 「メガネさんが私に言った。出て行ってくれと。悪いがここは君の遊び場じゃないんだって」

 少女は淡々と語る。


 だから、少女は出て行くときめた。

 何も言わず。

 ただ、少女は知ったのだった。

 出て行く時に、わざわざ姿を現した女優によって、誰の望みで自分が出て行くのかを。

 

 「そう、出て行くの。酷いわね。あなた色々手伝ってくれたのに」

 女優は美しい顔を、悲しそうに翳らした。


 女優は少女の手をとった。

 そして、完璧で優しい微笑を浮かべ、美しい声で言った。


 「離れても、私達は仲間よ・・・・・・」

 少女はその声の奥に、奇妙な感情を聞いた。

 

 満足。悪意の音がした。

 少女は、はっとして、顔を上げ、女優を見つめたのだ。

 女優の笑みは、完璧ではなかった。

 あまりの嬉しさに、口元が歪んでしまったのだ。

 女優も、少女が、気がついたことを悟った。


 でも、何ができると言うのだ?

 そして、何を証拠にするのだ?

 それでも、少女に悪く思われることは、追い出しているこの瞬間でさえ、嫌だとは思った。


 全ての人間に良く思われたかったからだ。


 でも、完璧というものは難しいものだ。


 女優は、もう一度美しく笑いなおした。

 そして言った。

 「元気で、がんばってね」


 少女は女優の手をふりほどき、走って逃げた。

 メガネさんは、あの女の望みを叶えたのだ。

 私の存在を、あの女のために消したのだ。


 「寂しくない?」

 そう言ってくれたのに。


 初めて少女は、寂しいと思った。

 そして、その感情は屈辱の音がした。


 私は、あの女のために消されたのだ。 


 少女は、誰もいない川辺にいた。

 昔の、孤独の意味を知らない頃のように。


 少女は狂気のように歌った。

 それは、彼を思って歌ったあのラブソングだった。

 全く、意味を変えてしまったラブソングだった。

 川の暗い水面が、ありえない揺らぎをおこしていたことに、木々が枝をまるで何かが乗っているかのようにたわませていたことに、少女は気付かなかった。

 



 「そして追い出した、本当の理由を君は知ったんだね」

 タテアキは少女に言った。


 少女の存在がさらに、薄くなった気がした。


 「あの歌を、あの女が歌っていた。私を追い出して、私の歌を、あんなにも汚らしく歌っていた!」

 少女は悲鳴のように言った。


 動画から火が付きその歌は大流行した。

 テレビでも、どこでも、逃げることなど出来ないほどに、少女はその歌を聞かされつづけたのだ。

 耳を塞ぎ、逃げて逃げて。 


 でも少女の中で、女優が歌うあの歌と、

 「君の遊び場じゃないんだ、ここは。消えてくれないか」

 そう冷たく目をあわせようともせずに言ったメガネさんの声。

 「私達は離れても仲間よ」

 そう言ってのけた、甘くおぞましい女優の声。


 それらは重なり、耐えがたいほどの、汚濁に満ちた不協和音になった。

 

 消えたい。消えたい。消えたい。


 信じた人は、私を消した。

 私の歌を奪ったあの女と一緒になって。


 あの女が、甘くしなだれかかるように言う言葉に従ったのだ。

 二人が一緒に、微笑みインタビューに答える姿が、自分を笑っているように見えた。

 屈辱が身を焼く辛さに少女は叫んだ。

 引き裂かれた淡い思慕の念は、針のように自分自身に突き刺さるトゲになる。

 

 私を消して。消して。消して。

 

 少女は願い歌った。

 ギターが軋む音を奏でる。

 

 願いを聞き遂げてくれるもののために。

 

 集まっていた水鳥達が突然、弾かれたように飛び立った。

 茂る雑草が、枯れて行く。

 少女は気付かない。


 そして、【何か】が、少女の願いを聞き遂げたのだった。

 少女は消えていた。

 人の目にもとまらぬものになっていた。

 ギターと共に。


 タテアキは少女の話を聞き終わると、しばらく考えていた。

 「今は、存在したいですか?」


 少女は少し考えて答えた。

 「わからないわ」


 また少し、存在が薄くなった気がした。

 それが答えなのかもしれない。

 タテアキが何かを、言おうとした、そのタイミングでタテアキの携帯が鳴った。

 タテアキは、軽く舌打ちをして、「失礼」と少女に断り、携帯を取った。


 「・・・・・・あなたか。蜘蛛女? 女優? ああ、その舞台なら良く知っている。その歌も良く知っている」

 タテアキは、少女を見つめながら言った。 

 

 繋がるようになっていたのかもしれない。


 この世に偶然はない。

 あるのは必然だ。


 「また、こちらから連絡する」

 タテアキは電話を切った。


 不思議そうに見つめる少女に、タテアキは優しく微笑みかけた。

 

 「これがボクは君の望む結末だとは思わないな。ねえ、もう少し、君の物語の続きを見てみない?」

 タテアキは言った。

 





 


 彼は、ため息をついた。

 練習場を引き払う準備が終わった。

ステージは解散した。

 

 僅かな、栄光だった。

 追いつけないほどの速度の成功と、逃げられないほど速度の没落は、メンバー達と彼をボロボロにした。

 もう、全員いなくなった。


 女優がいる間は良かった。

 女優は知っているかのように振舞ったからだ。成功する人間はどうすれば良いのか。

 生まれて来た時から、脳内で何度も何度もシュミレーションしてきたからだろう。


 妄想というシュミレーションを。

 

 そう皮肉に思ったが、女優の落ち着きっぷりと、確信に満ちた態度は、安心させてくれたものだった。

 わずか一年の栄光と没落。

 彼は皮肉に笑う。 


 栄光を求め、全てを失った。

 ピアノの蓋を開く。

 軽く鍵盤を叩く。


 ふと、少女の姿が浮かぶ。

 なんて都合の良い話だ。

 彼は自嘲する。

 全てを失うまで、思い出しもしなかった。


 まるで、あの曲を自分が作ったようにさえ思っていた。いや、思おうとしていた。

 成功は、見合った。


 少女を傷つけた対価として、申し分のないものだった。

 成功は、少女を傷つけ、裏切っても、十分すぎるほど、素晴らしいものだった。


 賞賛。栄光。瞬く間に現れ、消えて行く、モノや金。輝くような女達。

 時代の先端にいるあの、麻薬のような感覚。


 何よりも、しびれるような、全てを支配するようなあの感覚。

 確かに自分自身が世界を動かしているのだと思ったあの万能感。

 人が何故、成功を目指すのかを彼は知った。

 誰だって、世界の歯車の一つとして噛みこまれるよりも、世界を動かす側にいたい。


 金。モノ。女。欲望なんて、結局はたいしたことはない。

 自分の舞台が、エネルギーを持ち、世界に放たれていくのは、焼け付くような快感だった。


 たとえそれが、女優と少女の曲のおかげだとしても。

 その曲が最後にあんなにまで訴えるのは、女優があんなにも輝くのは、自分の力だと思っていたからだった。


 だから、だから、少女のことを思い出しもしなかった。

 あの日、女優が壊れるまで。


 奇妙なことは続いていた。

 それは、最初からずっと、だった。


 最後の歌を歌う時、突然ライトが消えたり、もしくは、ライトの光にたくさんの影が映し出されたりした。

 怪奇現象などと、笑っていたのだ。  

 最初は。


 笑えなくなっていって行ったのは、どんどんあの歌に女優が引き込まれていってからだろうか。

 女優は狂気のような見事さで、あの歌でどこかにたどり着こうとしていた。


 女優があの歌を歌うラストシーンで、観客が気を失うことも、泣きすぎて精神の均衡を崩すことも珍しくなくなっていった。


 「まるで、宗教だ」

 誰かが言った。 


 大学の講義で聞いたことがあった気がする。国文学の授業を当時の彼女といるためにだけにもぐりこんでいたのだ。

 「うた」と言う言葉は、神にささげる言葉を、手で打ち合わせながら唱えたことから来ているのだと。 


 「打った」から「歌」となったのだと。


 そうでなくても、歌は神に捧げられるものであり、この国でも、南の島では、歌によって死者を送る力のあるものだとされていた。


 バカな話だ。本気にしたことはない。

 でも、女優の歌は、確かに、この世界とどこかをつなぐかのようだったのだ。


 この人の注目を集めることだけが生きがいな、吐き気が出るほどの俗物が、この歌を歌う時、確かに異界とこの世を繋ぐシャーマンのようだった。


 そして、ふとした瞬間に、女優が化物のように見える瞬間が現れ初めていく。


 そう。

 まるで、蜘蛛のように。

 あの完璧な微笑が崩れ、彼は目にしたことのある、あの下卑たおぞましい笑い顔が覗くことがあった。


 周囲も一瞬ざわつき、でもすぐ消えるその顔が気のせいだったと思うのだ。 

 思い込もうとするだ。


 ――隠すことができなくなっている――

 彼はそう思った。 


 長年女優の中で隠しつづけたものが、女優がどんどん歌い繋いでとどくどこか、そこで育っていき、隠しきれなくなっているようだった。


 「薬でもやってんじゃない? あのコ、人間じゃない顔をしていることがあるもの」

 それでも、そういう声があらわれはじめた。


 女優の言動もおかしくなりはじめた。

 周りに当り散らし、傲慢に振舞うようになった。

あれほど人の目を気にしていたのに。


 ただ、周囲の人間は有名になりはじめたので調子に乗っているように考えていた。

 そんな馬鹿な。


 女優を良く知っている彼は思った。


 あの女は生まれた時から化けつづけているのだ。

 ちょっと有名になるくらいで、本性を現しはしない。

 彼に本性を見せたのは、共犯者にしたからだ。

 

 でしゅしゅしゅ


 あの不愉快な笑い声と、醜い微笑が時折現れるようになっていった。


 周囲は、嫌悪と何かの間違いではないかと言う驚きでそれを見つめ、また美しい表情にもどる女優に安堵する。


 「薬だ。ヤベー」

 そんな声が囁かれはじめる。 


 そう、麻薬中毒者のようでもあった。

 どんどん酷くなって行き、そのまま放っておいても回復などしないと点でも同じだった。


 「ウルサイ。ウルサイ。ウルサイ。黙れ。黙れ」

 女優はブツブツ言い始めるようになった。


 見えない誰かに向かって、怒鳴るようにもなった。


 「アノ歌ハオマエノモノデハナイ」


 彼にもそう言う声が聞こえた気がしたことがあった。


 小さな、500ミリのペットボトルくらいのお爺さんがあらわれ、そう言ったように見えたのだ。


 だから、思う。

 あのまま続けていたら、彼もまた女優のようになって行ったのかもしれない。


 女優は歌っていたから。

 歌っていたのは女優だったから。

 一番影響を受けたのではないかと。 


 あの歌のせいで何かが女優の中で、育ち、はじけたのだ。


 だから、女優は。 

 女優は。


 あの日、あの歌を歌う前に、女優は手にしたグラスの中身を舞台にぶちまけた。

 そんな演出はなかった。

 そして、ポケットからとりだしたマッチをすった。


 小さな炎が灯る。

 そんな演出もなかった。

 歌いだした瞬間、その炎を床にぶちまけた液体へと女優は放った。


 液体は引火性の何かで、凄まじい勢いで燃え上がった。

 そんな演出はありえなかった。


 瞬く間に燃え広がる舞台の上で、本物の煙と炎の中で、恐怖に叫び、咳き込む観客達。


 我先にと、出口を捜す人々の、悲鳴の中で。

 燃え広がる火を前に、美しく女優が歌う。

 

 破滅の歌。 


 「消火器だ!」

 「消防車を!」

 叫ぶスタッフ達の中で、彼はただ立ち尽くしていた。  


 燃えている炎の中に異界が見えた。

 炎の向うで、異形のもの達が見えた気がした。

 女優が、おぞましくも、醜い表情で、歌を歌っていた。

 欲望と破滅と、崩壊と隠匿のメロディ。

 

 欲しい。欲しい。

 奪え。奪え。

 そして、隠せ隠せ。

 とりつくろい、また奪え奪え。

 

 自分自身にさえ、女優は仕えていなかった。

 女優が全てをかけて、その身を捧げていたのは、女優が演じていた「女優」でしかなかった。


 それにたどりつくために、努力し、人に媚び、奪い、踏みにじり・・・・・・。

 自分の内部で、異形のものを育てていったのだ。

 炎に伸びる、女優の影が蜘蛛のように見えた。

 

 ああ、おぞましくも、

 素晴らしい。


 彼は呆然と、その歌に聞きほれていた。

 その瞬間、女優は聞かせるためではなく、初めて自分のためだけに歌い、それは、確かにこの世界とどこかを繋いだのだ。


 彼は絶望した。 


 少女も女優も、彼ではたどり着けないどこかにいけるものだったのだ。 


 少女の作った歌は、女優の中身を引きずり出し、育て、女優の育ちきった中身は今、産声を上げ生まれ出た瞬間を歌い上げた。 


 彼が聞くその時間は、成功、世界の中心であること、それらさえ意味をなくすものだった。


 あんなものを聞いてしまえば。

 音が、世界を、人間を、作り変える瞬間を見てしまえば。

 もう、音楽など作れない。

 彼は思い知ったのだった。


 それが最後の舞台だった。

 どれだけの人々が、逃げ出しパニックに陥った人々の中で、あの歌を聴いていたのかはわかない。

 女優の変貌を見ていたのかは分からない。  


 火は思ったよりも簡単に消火され、けが人こそ出たが、死者は出なかった。 


 ただ、その後消息を絶った女優の存在もあって(気絶していたところを保護され、そのまま病院、実家に引き取られたと聞いている)、呪われた舞台という伝説になっていっている。


 再演の話も、立ち消えになっていったのは、こういう噂のせいもあるかもしれない。彼は苦く笑う。


 ピアノの蓋をしめ、終わりの光景を見つめる。

 全て終わり、今ただ一人ここに立った時。

 思い出されるのは、今更ながら少女のことだったなんて。


 なんて、都合の良い。

 盗まなければ良かった。 


 あの曲は、少女の歌は、ああいう場所で歌うものではなかったのだ。

 少女の言うように。


 盗まなければ。


 大きな成功はなかっただろうが、まだ夢は続き、自分の限界など思い知らされはしなかったのだ。

 終わったまま生きて行くには人生は長すぎる。


 彼は俯き、顔を覆った。

 ドアが開く音がした。


 そんなことはありえなかったが、彼は思った。

 少女なのかと。

 それとも女優?


 どちらもあり得なかった。


 顔を上げ、ドアの方へ目をやった。

 そこにいたのは、彼が想像もしないものだった。

 杖を抱えた、車椅子の老人だった。


 「どなたですか?」

 彼はさすがに驚いた。


 身体の不自由な老人が一人でこんなところにいるなんて。

 むすっとした顔のまま、老人は彼を睨みつけた。

  

 「あの・・・・・・、どなたかとご一緒ですか」

 彼は尋ねる。


 老人は、背後にいるだろう連れに向かって、こちらへと手招きをした。

 困惑する彼の目の前で、老人の車椅子はすべるように動いた。

 老人は車輪に手を触れてさえいないのに。

 まるで、電動の車椅子、いや、見えない誰かが押しているかのようだった。


 何かがざわめき、彼の背筋に冷たいものが伝う。

 車椅子は、彼の目の前でピタリと止まった。


 「・・・・・・あの」

 彼は、どうすればいいのかわからない。 


 かっと老人が目を見開いた。

 何か叫んだが、良く聞き取れない。


 「え・・・・・・」

 ますます混乱する彼を、老人の杖が襲った。


 頭を殴られた。

 わけがわからない上に、ぐらつく所をさらに杖で殴られた。


 老人のどうやら動くのはこちらだけらしい左腕の力は、素晴らしく強く容赦なかった。


 腹に杖をめりこまされ、うずくまった彼に向かって、老人は何かを怒鳴った。

 何故だろう。

 発音が悪く、聞き取れなかったにもかかわず、その意味を彼は理解した。

 

 「男がクソみたいな真似するな!」


 老人はそう言っていたのだ。

 彼は、正確にその時初めて、自分が何かを悟った。


 そう、クソだ。


 何の罪もない女の子から、歌を盗み、彼女を侮辱した。ただのクズだ。

 女優が何を言っても、無視することも出来たのだ。

 そうしなければならなかったのに。


 「すみません・・・・・・」

 彼は床に転がったままそう言った。

 泣きながら言った。 


 もう一発くらい殴りたそうな顔を老人はしていたが、ちょっと残念そうに杖をまた抱えた。

 殴る用に、杖を持っているのだろうか。


 まだ、チカチカする頭を抱え、彼はふと思った。

 くるりと、車椅子がドアに向かって向きをかえた。

 またしても、自動運転だ。

 老人が振り返り、彼に目で言った。


  ―― ついてこい ――

 彼は大人しく立ち上がり、老人について行った。

 物語の終わりを見るために。




















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