第2話 夜にビルは崩れ落ちる


 奇妙な話に男は眉をひそめた。


 「幽霊としか思えないんだよ」

 そのビルのオーナーは怯えながら話した。


 「車椅子の老人の幽霊ですか・・・・・・」

 男は少し笑った。


 妙な話ではあったが、面白さも感じられる話だったからだ。

 車椅子の老人が空を飛んでいる怪談。

 新しいファンタジーだ。


 「笑わないでくれよ。こんな噂がさらにたったら、さらに買い手がつかない。ただでさえ微妙な場所なんだ」

 オーナーは気を悪くしたようだった。


 「確かに、特別良い場所ではないですからね。そんな噂が今更たっても変わらないでしょう」

 男は頷いた。


 大きな男だ。

 年齢は三〇よりは上。それくらいしか分からない。何歳にでも見える。

 とにかく大きい一九〇センチはあるだろう。

背だけではない。厚みもある。何らかの訓練をうけた人間の体だ。

 男が対峙する人間に与えるのは圧迫感だ。

 余裕と凄みを感じさせたし、カタギらしからぬ雰囲気もあった。

 着ていジャケットも高価すぎるし、そう、シックでもカジュアルでもない。主張が過ぎるのだ。

だが、そういう世界の人間としては、笑顔が明るすぎた。

 造作の粗い顔立ちは、その笑顔で魅力的にみえないこともない。


 コーヒーが運ばれてきた。

 喫茶店に二人はいた。

 氷を一個落とした、ホットのブラックコーヒー。

 何も言わなくても男にはそれが運ばれてくる。

 常連なのだ。少し猫舌の男のための特別仕様だ。

 ウェイトレスの女の子ににこやかに笑いかけることは忘れない。

 女の子もクスクス笑い男にこたえる。

オーナーはため息をついた。


「真面目に聞いてくれよ・・・・・・」

オーナーの言葉にも男は笑顔を返事代わりにするが、あまりにも笑顔が明るすぎるので真面目に聞いてないのは誰にでもわかる。


 オーナーはこの喫茶店のオーナーでもある。小さなビルを数棟持ち、飲食店も数軒経営している。

 もちろん、本気でこんな話を男が聞くわけがない、ともオーナーも思ってはいた。

 五十すぎのオーナーは、とても金持ちらしからぬ格好をしていた。

 テロテロ光る、着古したジャージに、ボサボサ頭。

 経営と言っても、完全に人に任せているため、この喫茶店で競馬をラジオのイヤホンを耳にさして聞いているだけの毎日だ。

 しかし、お金は賭けない。

 お金がなくなるのはきらいだからだ。

 男とオーナーはこの喫茶店で常連同士として、知り合った。

 男の事務所が、オーナーのビルの一つにあることを知ったのも、ここでの世間話の中からだった。

 見かけよりも人なつっこい男にオーナーはすっかり打ち解けた。

 だからと言って、家賃を安くしてやろうなどとは思わなかったが。


 結局の所、男の本当の仕事がなんなのかオーナーには良くわからなかったが、どういった仕事の事務所として貸しているのかを確かめようとは思わなかった。 

 それは人に任せている。


 男によると「物を売ったり、買ったり、金を貸したり、投資したり、頼まれたことを手伝ったり」だそうだ。

 顔が非常に広いことや、互いの利益が一致する範囲では信頼できる人間であることはわかった。

 ちょっとしたことを頼んで、それは証明された。

 ちょっとしたことだ。

 ヤバイところに頼めば、いくらもぎとられるかわからない、でもちょっとしたことだ。


 だが、この男は確かに高い料金はとったが、最初に提示した金額以上は取らなかった。

 もちろん、犯罪ではない。

 でも、おおっぴらにはできないことだ。

 うまくまとめてくれて、それいらい、そのことを口にしないことも気に入った。

 それ以来、色々な仕事を頼んでいる。 


 ちょっとした仕事に限らず、人間の紹介や、斡旋なども。

 およらく、この男仕事はそれなのだ。

 黒と白の境目。

 日常と闇の間。

 どちらをも行き来し、どちらでもない人種。

 日常では不可能なことを可能にする者。

 なので、今回も頼んでみたのだが・・・・・・。

 さすがに幽霊はダメか。


 オーナーが諦めかけた時、男はシャツの袖をめくってみせた。

 太い手首に水晶の数珠が巻かれている。

 今ならパワーストーンとでも言うのかもしれないが。


 「知り合いの霊能者にもらったものでしてね。この人は現象が本当でさえあれば無料で引き受けてくれますよ。なんでも、金のためにしてないってことで。紹介してもいい。もちろん、紹介料は有料ですが」

 オレは金のためにしているのでね、と、男はにこやかに言った。


 オーナーはホッとしたように笑った。

 ほら、やっぱり何とかしてくれる。


 「でもね、難しい男で、偽の心霊現象だった場合は逆にものすごく高くつく。だから、まずオレがちょっと調べさせてもらっても良いですかね」

 男は言った。 


 「難しいのかい?」

 心配そうにオーナーは尋ねた。


 「もちろん。偽の心霊現象なら、ただ働きなんてしてくれませんからね。そんなマズイことがあってたまりますか。今まで奇妙な話を解決してくれたんで、仕事に間違いはないんですが、本物じゃないのに呼び出したとあっては、高い金をとられる。ソレはこまる。高い金がとられる。だから本物だったらソイツの出番ですし、そうじゃないならオレがなんとかしてみせますよ」

 男は請け負った。


 金額を指で示しながら。

 片手だ。五十万。

 オーナーは渋い顔をした。だが、葬式に坊主を呼んで念仏となえてもらっても、下手すりゃそれくらいとられるのだ。少なくとも、男に金を払うのは、葬式の念仏、それよりかは具体的に役に立つ。


 「頼むよ」

 オーナーは、ボロボロのウエストポーチの中から一〇枚ごとにまとめられた札束を5束テーブルの上にとりだした。


 ウエストポーチには札束がぎっしり入っていた。

 男はそれを数えもせずに受け取り、無造作に自分ジャケットのポケットに突っ込んだ。


 「了解。・・・・・・で、もう一度きちんと話を聞かせてもらいましょうか」

 男は、タバコに火をつけながら言った。


 「なんでもう一度なんだ?」

 オーナーは尋ねる。

 「そりゃ、真面目にあんたの話、聞いていなかったからですよ」

 悪びれず男は言った。


 仕事ならきちんと聞きますよ。そう続ける。

 どうにも、男が言えば、憎めない言い方になる。

 オーナーは苦笑し、もう一度、その奇妙な話を始めた。




 「で、オレは何すればいいんですか。師匠」

 青年は言った。


 「車椅子のじいさんが空を飛んで来たら、俺を起せ」

 助手席の椅子を倒し、寝る体勢になりながら男は言った。


 小さな車ではない、国産の高級車だ。しかし、体のでかさのため、窮屈そうだ。 


「了解です。出ますかね」

 男はハンドルの上で腕を組み、その上に顎をのせ、ビルから目を離さずに言った。


 「さあな」

 男はだるそうに言った。


 青年は、皮肉っぽく笑ったが、何も言わなかった。

 整っていると言っても良い顔だ。

 甘いともいえる、大きな目と、すっきりした鼻筋、整った口元。

 ただ、傲慢とも、下品ともいえる何かがその表情から滲み出している。

 しかし、それが奇妙な魅力にはなっていた。

 男ほどではないが、体が大きい。


 「空飛ぶ車椅子に乗ったジイサンを見つけたら師匠を起します」

 青年はニヤニヤ笑う。


 「大金払うんだ。嘘じゃないさ」 

 男は眠そうに言い放った。


 次の瞬間いびきが聞こえる。もう寝たのだ。

 青年は肩をすくめた。

 でも、皮肉っぽくはあっても、真面目な視線をフロントガラスごしに外へ向け続けた。 

 その視線の先にはビルがあった。

街中の駅前から一〇分ほど歩いた場所にある、今は何の店舗も事務所も入っていない古いビルがそこにあった。

 国道に面しているビルにしては、老朽化が激しい。

 通りの街灯、流れる車の明かりに照らされる、建物と建物の隙間にあるそのビルは、古く不気味で、廃墟に見えた。

 明かりのない室内が見える窓。


 ――まるで闇を建物の中に詰め込んでいるようじゃないか。

 そう考えて青年は自分を笑った。


 どうかしている。

 ただの建物にそんな思いをもつなんて。

 臆病風に吹かれたのか? 青年は自分に言う。傲慢、残酷で通っているこのオレが?

 ただの幽霊、しかも車椅子にのった老人だぞ?

 そんなショボイ幽霊に何を怯える必要がある?

 笑える。

 もう少し、怖そうな幽霊が出てこいよ。


 青年は、昔男に連れられて行った幽霊の出る現場を思い出した。

アレは怖かった。

 青年は素直にそれは認めた。

 連れられて行った屋上に、先に誰かがいた。

 そしてその誰かは、目の前で柵を乗り越え飛び降りた。

一瞬振り返り、青年を見てから。

 あわてて柵から下をみたら死体はなかった。

 あの、目の前で飛び降りた人間が幽霊だったなんて・・・・・・。

 死んだことに気付かず、ずっと飛び降り続けているのだそうだ。

 落ちる前、こちらを見たあの絶望のような目が脳裏に焼き付いている。

 あれが死人の目だなんて。

 底なしの穴のような目。光ひとつない。

そしてあの、飛び降りるさいの悲鳴。

そして、そして、落ちたはずの人がまた柵を乗り越え、こちらを見、飛び降りる。

 悲鳴。

 永遠に死に続ける。

 何度も繰り返される現場の再現だ。

 壊れたDVDの再生だ。


 ただ、その時、その場に青年と一緒にいた男には何もみえなかったらしい。

 青年を男が今日ここにつれて来たのはそのためだ。

 その日まで、青年が自分でも知らなかった才能。

霊とやらがオレには見えるらしい。

 もっとも、本物の心霊現象だとわかったら、後の仕事は師匠やオレではなく、あの人の仕事だけどな。

 青年は男の友人を思い浮かべる。

 でも、今回の件は、ただ、車椅子のジイサンが空を飛ぶだけだろ?

 怖くもなんともない。

 青年はその光景を思い、そのおかしさを笑った。

 しかし実際それを目にした時に、青年は笑うどころか凍りついてしまったのだ。

 見たものは随分、想像とは違っていたからだった。

 

最初は音が、聞こえた。

 祭りの鳴り物のような音だ。

 隣りを見る。

 男は助手席でぐっすり寝ている。

 ほんのすこしの気配にも敏感で、どんなに寝ているように見えても、すぐ目を覚ます男がこの奇妙な音には目を覚まそうとしない。


 だから青年は理解した。

 始まったのだ。 


 おそらく、男には見えず聞こえず、青年は見える聞こえるもの、が。

 通りの車も、深夜だから少ないとは言え、何台かは通っているし、歩道にだって少しは人がいる、すぐ側のマンションの住民達だっているのだ。

 なのに、誰もいまでは大音量になったお囃子に気がつかない。

 音は近付いてきた。

 祭りの神輿や、だんじりが近付いてくるみたいに。

 嫌な汗が流れるのを青年は感じた。

 どこからくる。

 青年は車の窓を開け、顔を出し見回した。

 それは、青年が思った通りであり、思った以上のものだった。

 空を飛ぶ車椅子にのった老人。

 大事そうに、杖を抱えている。

 杖の下の部分が4つの足になっている。より身体を支えやすくした、歩くのがかなり困難な人が使うものだ。

 リハビリ病院に入院していた時に(まぁここには書けないような事件にいつものごとくまきこまれ、酷い怪我を負った。回復に一年はかかった)、脳梗塞の人達が歩行訓練に使っているのを見たことがあった。


 あの杖だ。

 老人の乗る車椅子車輪には、左右それぞれブレーキのレバーがあるのだが、右のブレーキレバーにはサランラップの芯のようなものが取り付けられ、レバーが長くなっていた。


 それは半身が麻痺している人間が片手で車椅子を操れるようにするためだと、入院生活の中で青年は知っていた。

 幽霊と言うより、生きている半身に麻痺がある老人のように見えた。


 空を飛んでいるのでなければそうとしか見えなかった。

 入院中、出会った脳梗塞の患者達と同じだった。

 ヨレヨレのパジャマさえ。


 あまりにもリアルだった。

 空を飛んでいる以外は。


 さらに、青年の度肝をぬいたのは、老人を取り囲むモノ達だった。

 それにはリアリティが全くなかった。

 原色の色をきたもの。

 服すらきていないもの。

 百人近くはいる「もの」達が、まるで神輿でもかつぐかのように老人の車椅子を担ぎ、その後に従い夜空で行列していたのだ。

 「もの」としか言い様のないものたち。


 人ではない。

 彼らは鳴り物を鳴らし、まるで彼らの王でもあるかのように老人に付き従っていた。

 老人がパジャマで、ズレたメガネをかけていることが、その光景をさらに異様にしていた。


 誰も気付かない。

 上空を飛ぶ車椅子の老人と、人外のモノ達の行列に気がついているのは青年だけだ。

 青年は呆然とそれを見ていた。

 しかし、あわてて、助手席の男を起す。


 「師匠!」

 男はすぐに目を覚ました。 


 青年が指差す方角を見て、頷いた。


 「ホントだ。じいさんが飛んでる」

 男の言葉に青年は驚いた。


 「それだけしか見えませんか?」

 男には見えないことは、青年には分かっていたかもしれない。


 青年には「才能」があるとあの人も言っていたし。

 そして男にはその才能はないとも。

 「車椅子のじいさんが飛んでいる以上のものが、オマエには見えるんだな」

 男は尋ねた。


 驚かない。そのために連れてきたからだ。


 「ええ。見えるし、聞こえます。百人くらいはいます。人間じゃない奴らの祭りの神輿ですよ。お囃子もあります。ただし神輿はあのじいさんです」


 宙からゆっくり老人は、彼らによってビルの前の歩道に下ろされた。

 歩道や道路を、彼らが覆い尽くしているが、何故か不思議なことに、急に人も車も通らなくなった。 


 「オレにはじいさんしか見えないが、他にもそんなにいるのか」

 男は感心したように言った。


 でも、空飛ぶじいさんだけでも十分スゴイよな。男はつぶやいていた。

 老人の車椅子が、出入り口を塞ぐシャッターの前に進んだ。

 老人は抱えていた杖を下ろし、地面に置く。

 おりまがるように固まった右手が麻痺した身体をしめす。

色とりどりの幻想的な【彼ら】の中で、浮いたような4点杖と、車椅子のブレーキに取り付けられたサランラップの芯、よれよれのパジャマ、ずれたメガネ。

老人だけがリアルだった。

老人が唯一自由に動くらしい左手で、ぎごちなくシャッターにふれ、開けようとしたが、当然カギがかかっている。

そのカギは男のジャケットに入っているからだ。

老人はシャッターを開ける事をあきらめたようだった。

もう一度、杖をかかえる。

4人の【彼ら】が、車椅子をかつぎあげた。

ふわり、宙に車椅子が浮く。

四階の窓に車椅子は近付く。


「なにする気だ?」

男は不思議そうに言った。


男の目には、車椅子が一人でに宙に浮き上がっているように見えるのだ。

老人は抱えていた杖を、窓に叩きつけた。

身体の不自由な老人とは思えないほど力強く。

窓が割れた。


「何するんだ!」

男はつぶやき、青年もそう思った。


さらに、老人は窓に残ったガラスも叩き落とす。

近所のマンションの窓が急に明かりがついていく。

音が聞こえたのだ。

だから何人かの人々は、窓から建物の中に入っていく車椅子を見たかもしれない。

青年には、細心の注意を払いながら、自分達は中に入らずに老人を窓から室内にそっと下ろす、【彼ら】が見えたのだが・・・・・・。


「奴らは、中に入れないのか?」

青年はつぶやいた。


どうやら、そのようだった。

しかし、室内に下ろした老人が、手招きをした瞬間、彼らは渦巻くように、吸い込まれるように、その一つしか開いていない窓から建物の内部に入っていった。

 百人近い彼らが、色の渦となってその窓に吸い込まれていく様は圧巻だった。


 「アイツら、あそこから入って行く・・・・・・」

 男は魂を抜かれているようになってつぶやく青年に少し目をやったが、次の瞬間、すぐ車から飛び出した。


 ビルへと走る。

 ポケットからカギを取り出す。

 老人が開けられなかったシャッターのカギだ。

 オーナーから預かったものだ。

 ビルのシャッターを開け、階段を駆け上がり、四階へ、老人が、そいつらが(男には見えないが)窓から入っていった部屋に向かう。

 昔、美容院だったらしいそのドアを開けた。

 男の目には、壊れた窓のそばにいる車椅子の老人が見えただけだった。

 老人は、飛び込んできた男に落ち着いた視線をむけた。

 通りの明かりは、電灯のない室内をそれなりに照らしていた。

 灰色の床、灰色の壁。何もない部屋で老人は車椅子に座り、男に少し頷いた。

 軽い挨拶でもするかのように。


 小柄な、柔和な顔立ちの老人だった。

 濃い眉と、大きな目からは南の匂いがした。

 男は老人の目に、知性を感じた。

 こうやって、【何か】に備え、戦闘モードになっている男を前にして、これほどまでに落ち着き払える人間を、男はそれまで見たことはなかった。

 老人は口を開いた。

 何かを言おうとするが、うまくいえないらしい。


 「オワ・・・・・・タ。モウ、オワタ」

 そう聞こえた。


 老人は手にした杖で、部屋の一角を指さした。影が濃く、良く見えなかった。

 目を凝らすと、壁が剥がれかけていたのは分かった。

 いや、次の瞬間、壁が崩れた。

 明かりの部分に壁の欠片と何かが転がった。

 そして、さすがの男もぎょっとし、思わず後ずさりした。

 それは、僅かに髪が残った頭蓋骨だったのだ。


 「・・・・・・オワタ。ミツカタ」

 老人は微笑んだように見えた。 


 老人の車椅子がふわりと浮かび、窓の外へと老人がとびたったのと、パトカーの音が聞こえたのは同時だった。

 窓の割れた音がした時に誰かが通報したのだろう。

 マズイ。

 男は瞬時に判断した。

 割れた窓。

 何故かある白骨死体。

 その場所にいる自分。

 これを警察官に見つかったなら、どう説明すればいいのだ。


 「待て! こんなヤバイ状況にオレを置き去りにするな!」

 窓から身を乗り出し、男は宙に浮く老人に叫んだ。


 老人は、動く方の肩をすくめてみせた。

 気の毒だが、仕方ないね。私にも事情があってね。

 言葉はないのにそう言っているのが分かった。


 「おい!ジイさん!」

 男の言葉を尻目に、老人は離れて行く。


 そして、パトカーが建物の下に来た。

 絶対絶命。

 男はさすがにあせった。

 とうとう前科のつく日がきたか。叩かれれば埃は残念ながらある身だし。

 なんとか前科なしで来たのにな。

 いや、困る。あるのとないのでは仕事に差し障りがある。

 疑わしいのと、ほんとにあるのでは全然違うのだ。

 特に男のように狭間で商売をしている人間では。


 「待て、なんとかしろ!」

 男は老人に怒鳴った。 


 宙に浮かんだ老人が、困ったように男を振り返り、杖を脇に抱え、手招きしたのが見えた。

 こっちにこい。そう言っているようだった。

 ――手招きって。

 ここ四階だぞ。

 だが、男が腹を決めた。

 ここに居てもどうせ身の破滅だ。

 警察に説明しようがない。 


 男が窓から飛び出したのと、老人がそのリハビリ用の杖をビルに向かって振り下ろしたのは同時だった。


 警察官がまず一人、建物に入る寸前、そう、男が窓の外に飛び出た瞬間、

――ビルは崩れ去った。


 背後でビルが崩れるのを感じながら、男は奇妙な感覚にとらわれていた。

 飛び降りたはずなのに、見えない手で、誰かにささえられたかのように、ふわりと着地したのだ。

 いや。

 男は飛んだのだ。

 間違いない。

 ビルからかなり離れたところに止めていた、男の自動車の前に立っていたのだから。

 窓から男が飛んだのを警察官は見ていなかっただろう。

 多分彼らが見たのは、自分達が入ろうとしたその瞬間、崩れ去った建物だけだろう。 


 それはまるで計算したかのように、窓ガラスの破片一つ、敷地外に出ることなく崩れ落ちたのだった。

砂山のように。


 鼻先で、崩れる建物を感じた警官は、ぽかんと口を開けたままだった。

 真っ白な埃にまみれながら。

 一歩でも踏み込んでいたら、瓦礫の下に埋まっていただろう。

 男でさえ、着地した後、ふりかえり、ぽかんと口を開けてそれを見ていたのだ。

 色々なものを見て来た男だったが、これはさすがに驚いた。

 崩れ落ちる轟音と時間差で、周囲全ての建物の明かりが灯った。

 そして全ての建物から人々が飛び出し出てくるのは時間の問題だった。

 「師匠!」

 運転席の窓から、真っ青な顔を出した青年の声に男は正気に返り、男は車に飛び込んだ。

二人はあわてて、その場を去ったのだった。


そして、一月後。


「へぇ。取り壊しの手間が省けてよかったじゃない」

更地になったビルの後を男と歩きながら、タテアキが言った。

 タテアキ。

 男の知人で、奇妙な「才能」のある男だ。


 無償で妙な事件を引き受けてくれる。が、ただし、【本物】のみは無償だが、【偽物】の場合は高額な料金が発生するというシステムで動く、【科学者】だ。


 本人の自称によれば。

 男は【霊能者】と人には紹介している。

 本人の前では言わないが。

 タテアキはその呼び方を嫌うのだ。


 タテアキが引き受ければ【本物】だろうと、【偽物】だろうと、その出来事は解決する。百パーセント。

 でも、お金が発生するのが嫌なので、男は【本物】以外はこの男に頼むつもりはない。

 仲介料はもらえるし、男の取り分はなんの問題もないのだが、他人が目の前で沢山金をせしめるのは不愉快だからだ。


 そして男は知っているからこそ、どうしようもない時以外は頼まない。

 タテアキがしてみせる解決とは幸福な結末とは限らないのだ。


 ひどく小柄な身体は150センチほど。少年じみた童顔、おそらくオーダーメイドの洒落たスーツをまとったタテアキは、おそらく話し方、会話の内容からは、二〇代後半かと思われる。

 もしかしたら、見た目のまま十代の少年なのかもしれないが。

 男はタテアキについて、正確なところは知らない。タテアキが本名なのか、どういう字を書くのかも知らない。

 タテアキも同じだ。男の通称しか知らない。 


 ただ、【仕事】について、互いに利害が一致し、信用がおけることだけわかっていれば良いのだ。

 互いに。

 もっとも、男はタテアキがキライではない。

 笑顔で皮肉をとばし続ける、この小男の仕事のやり方は小気味がいい。頭もいい。


 「まぁな。でも、せっかくの土地が売れなかったら意味がない。で、どうなんだ?」

 男はタテアキに聞く。 


 テロだ、何だと大騒ぎになった。

 突然、夜中にビルが崩れ去ったのだから。

 しかも、崩れた建物の中から白骨死体がみつかったのだ。

 オーナーも警察に呼び出されたようでブツブツ言っていた。


しかし、まあ、確かに、いずれ老朽化していたビルを取り壊して売るつもりだったのだ。

今では安くついたと思って喜んでいるのは間違いない。


 結局、全ては原因不明となった。

 死体が誰かもまだわからない。 


「空飛ぶじいちゃんが、ビームでビルを破壊したんだろ?」

 楽しそうにタテアキは言う。


 「ああ」

 男は頷く。

 事実だ。


 「アナタのトコの、彼の話からしても・・・・・・ここに、何かはあったんだと思う」

 タテアキは、瓦礫も撤去された場所を見回し言った。


 男と青年に話を聞いた時点で、タテアキには確信があったのだと思う。

 そして【本物】認定がおりた。

 でも、男はその言い方が気になった。


 「『あった』か?」

過去形で話すのが気になったのだ。 


 「ああ、今は何もない。ただの空き地だ。・・・・・・おそらく」

 タテアキは考え込むように黙った。

 「何かあったものを、【彼】は撤去しにきたんだろう。車イスの老人の噂がある前からここはイワクつきだったんじゃないか?」

 タテアキの言葉に男はニヤリと笑う。


 「ああ、殺人事件や、暴力事件の現場になったことがある。だから廃ビルになっていた」

 やはり、わかるのか。


 タテアキには言っていなかったことだ。

 まるで引き寄せられるかのように、悪いことが起きた。ここでは。

 犯人のわからぬ殺人、暴力事件。

 そして借り手は皆いなくなった。

 だから、オーナーは売りたかった。金額の問題だけではなく、気味悪く、手放したかった。

 だが、売れなかった。

 悪い噂以上に、何かがここを売らせなかった。

せっかく見つけた買い手は病気になったり、変死したりした。

 その上車椅子の幽霊の話だ。


 「ここの持ち主は相当我が強いんだね。だから影響をそれほど受けなかった」

 タテアキの言葉に男は頷く。


 最初から呪われているみたいな男だからな。

 莫大な財産を持ちながらいつも同じ汚れた服をきて、毎日ただ競馬の中継を見るだけ(決して賭けない)、下手すれば誰とも口さえきかないオーナーを思い浮かべた。


 「もう大丈夫。彼は、いや、【彼ら】にはここにあるものを何とかする必要があったんだろ。でも、ボクがすることは何ももうない。ここはもう、綺麗な場所だ」

「彼ら?」

 タテアキの言葉に男は思わず聞き返す。


 タテアキの目がきらめく。

 「知りたい?」

 「いいや」

 男は首を振った。

 男には不要の知識だろう。


 「・・・・・・君のそういう賢いところが好きだよ、ボクは。愚かな人間ほど要らないことを知りたがる。ボクだって君の持っている裏社会の知識はいらないからね。要らない知識は余計な危険をよぶんだよ。とにかく、オーナーさんには、解決したって言っておくといい。いずれ誰かが買うよ。そして、少なくとももうそのことで、誰かが死ぬことはない」

 タテアキは断言した。


 解決だ。

 男はなんともすっきりしない顔のまま、頷いた。


「なんか納得いかない顔だね」

タテアキは鋭い。

「まぁ、な。でも、金も貰っているし、いいだろう」

男はそういうことにした。


 世の中そんなものだ。


 「分かったようなことを言っていると足元をすくわれるよ。世界なんて誰にもわからないんだから」

 タテアキが言う。この男の勘の良さは薄気味悪い時もある。


 「人の心を読むな」

 男はにがりきった口調で顔を背けて言った。


 人に覗かれたくなどない。

 その時、男の外した視線が何かを捕らえた。

 男の顔色が変わった。


 「どうしたの?」

 タテアキも、男の視線の先を見る。


 二人が立つ空き地は歩道に面していた。

 その歩道をゆっくり通り過ぎて行くのは、車椅子の老人と、その車椅子を押す女性だった。

 男はその車椅子の老人を凝視していたのだ。 


 「・・・・・・まさか、彼が」

 タテアキが言った。


 「そのまさかだよ!」

 男は唸るように言い、車椅子めがけて走った。


 車椅子の前に立ちふさがるように、飛び出した。


 「・・・・・・何か」

 車椅子を押していた女性が怯えたように言った。


40代くらいの、地味な女性だった。

そびえるような男が目の前に飛び出してきたのだ。

 怯えて当然だった。

 男は女性を無視し、老人へと目をやる。


 あの老人だ。

 間違いない。

 白髪交じり濃い眉。

 大きな目。

 引き結んだ口。

 南の人間特有の顔立ち、間違えなくあの老人だった。

 老人は澄ました表情で、平然と男を見ていた。

 ――ふん。あんたか。

 そんな声が聞こえてきそうな気がした。


 「あの、父と何か・・・・・・」

 女性がしぼりだすような声で言った。


 大きな目が困ったように見開かれていた。

 男は笑顔を作った。

 この大人しそうな女性を怖がらせるつもりはなかったからだ。


 黒さが目立つ髪と目が、老人同様、南の匂いがした。本土の人間とは黒の濃さが違うのだ。

 ただ、こちら育ちなのだろう。

 老人から感じる不敵さは感じない。

 街になじむ程度に柔らいだ南の匂いだった。


 「助けていただいたことのある方ではないかと思いまして・・・・・・」

 男は言った。


 嘘ではない。

 助けてくれたのだろう。おそらく。まあ。

 娘からは見えないが、老人はこらえきれず笑っていた。


 おそらく老人に助けを求めた男の慌てた様子を思いだしたのだろう。

 男は面白くなかった。


 「父は三年前に、脳梗塞で倒れましたから、その前でしょうか」

 女性は真面目に考え言った。


 「間違いなく、お父さんですよ。ボクを助けてくれたのは」

 男は老人から目を離さず言った。


 「名前も聞けず、どこの誰なんだろうと思っていました。もう、お元気なんですか?」

 これも、嘘はついていない。


 女性はホッとしたように笑った。 

「ええ、言語障害がまだ残っていますが、杖をついて歩けるまでには・・・・・・。ありがとうございます」 


 老人の目も、男の目から離れることはない。

 ――娘に構うな。

 そう言っている。


 「お父さんのお名前を教えていただいても、よろしいですか?」

 男は老人の無言の意志を無視して言った。


 女性は素直に教えてくれた。名前ぐらい良いと思ったのだろう。

 老人はちょっと怒っているようだった。

男に歯をむいてみせた。これも、娘には見えない。

 もっとも、男もこれ以上老人に踏み込むつもりはなかった。

 老人は建物を破壊するほどの力を持っているのだ。

 それを男は目の前で見たからだ。

 ぺこりとお辞儀し、車椅子を押し去っていく女性に、男もまた軽く頭を下げ見送った。


 「【彼】かい?」

 タテアキが隣りに立っていて言った。


 「ああ、あのじいさんだ」

 男は頷いた。

 「・・・・・・あまり関わらない方がいい」

 タテアキはこの男には珍しく、忠告をした。


 「あの爺さんは何だ?」

 男は忠告を無視して聞いた。


 人間にしか見えない。娘と一緒にいたら身体の不自由な老人にしか。でも、確かにあの老人がしたことを男は見たのだ。


 「・・・・・・王様だよ。人ならぬ者の王。彼らは時折、人間を王に選ぶ。身体の不自由なものや、死に瀕している者を・・・・・・」

 オレだってそういうことがあるとしか知らないんだがね。タテアキは言った。


 彼の王国は夜に在る。彼の王国は強大で、彼の力は暗闇の隅々に及ぶ。

 夢見るようにタテアキは言った。

 君には見えない世界のね。


 「彼の名前教えてもらっていいかい? ボクには興味があるんだ」

 タテアキの言葉を、聞きながら男は別のことを考えていた。


 何のために?

 あの老人は何のために王になったのだ?

 車椅子に座り、不敵な顔をしていた老人のことを男は考えていた。

 車椅子の、巨大なる力を夜に持つ王様のことを。

 



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