年老いた男が王になった話

トマト

第1話 名前を呼ばれない者達の王

 一人の年老いた男が王になった。

これはそんな語。



 話は七十数年ほど前に遡る。

 このクニの南にある島からこの物語は始まった。

 色が様々に変わる美しい海に囲まれた、むせるように濃い緑の島だ。


 光さえも濃く熱を持つ。

 その中で男の子達が服を着たまま、次々、海の中に飛び込んで行く。

 皆、南の人間特有の風貌をしていた。  


 キラキラ光る黒い大きな目、跳ねるように動くしなやかな体、何代にも渡って日に焼かれてきた肌。

 そして陽気な日差しのような笑い声が響く。

 今日彼らは、この浜から遠く見えるあの島、というよりこの湾の沖にぽつんとある、あの岩まで泳ごうとしていた。

 特にそうすることに理由はない。

 でも、遠くにある場所を目指したくなるのだ。それが大変であればあるほど。それは、少年達の本能のようなものだった。


 少年達は、自然の中で自らマスターしたそれぞれ泳ぎ方でその場所を目指して行く。

 その中に一人だけ少し年の離れた男の子がいた。

今年小学校に上がったばかり。

 まだ彼は、あんな距離を泳げだことはないのだが、年上の少年達は気にもせず泳いで行く。

 なぜなら、彼らもそうやって年上の少年達のすることを、無理してでも真似してきたからだ。

 この子も、そろそろ、【本当】の仲間になってもいい頃だ。

 仕方なく面倒みてやるオマケを卒業してもいい。


 現代の都会に住む人達なら驚くだろう。

 誰の監視もなく、子供達は海や川で泳ぎまわっているのだから。

 だが、溺死者はほとんどいなかった。


 このように育った人々は口をそろえて言う。  

 何故死ななかったのかは分からない、

 危険が日常だった、と。

 

 でも、潮が満引の時間が何故か分かっていた。

 夜の闇の中でも動くことができた。

 どういうわけか、と。


 過去を振り返った時、そのように育った人は、そう不思議そうに言う。


 樹の上を渡り、海をもぐり、小船で子供だけで沖にさえいってみせたのだ。

 彼らは自然の申し子だった。


 しかし、その小さな子は少しばかり事情が違っていた。

 純粋な島の子とは言えなかったのだ。

 彼は去年まで、この島ではなく、大陸にいたのだ。


 二年前に終わった戦争の後、去年、母と大陸からこの島に帰って来たのだった。


 大陸を離れた時は、姉と妹がいた。

 島にたどり着く途中で、姉と妹は死んだ。

 亡骸は病気を防ぐためと、海に投げ込まれた。

 

 母はただ一人生き残った息子の手と、娘達の遺髪の入ったカバンを握りしめ、故郷のこの島までどうにかたどりついたのだ。


 彼が育った大陸の街には、海がなかった。


 だから島に来て泳ぎを覚えた。つまり、物心ついた頃から泳いでいた他の少年達とは少し違った。

 もっとも、彼に流れるこの島の血は、あっというまに島に彼をなじませて、生まれた時からここにいるかのようにふるまわせたのだけれど。

 

 だから、少年達を責めるべきではないのだろう。

彼らもすっかり忘れていたのだ。

 この小さな仲間には泳げるようになった、2度目の夏でしかないことを。


 もっとも、この暖かい海では冬でも泳ぐ子供達も多く、そう考えれば、まだ二度目の夏と言う事実には、それほどの重みはなかったとも言えた。

 

 だから、あれはめったにない事故だったのだ。

 

 先を行く年長の少年達を追いかけ、必死で泳ぐ小さな少年が仲間に気付かれないまま、沈んでいったのは。

 

 兄ちゃん達の姿が、波の間から見えているはずだった。 

 少年は不思議に思った。

 なのに目に見えるのは、青い光だけだったからだ。


 オレは溺れている。沈んでいるんだ。


 少年は気がついた。

 眩しい天井のように水面が見えた。

 あそこまでいかなきゃ、少年は思ったが、体が動かない。

 沈んで行くのが怖くて、悲鳴をあげそうになった。


 だが、そうすれば大量の水を飲み込むことになるのを少年は知っていた。

 去年の夏、どれほど辛いこの水を飲んだか。

こんな感じに沈む少年を、兄ちゃん達が笑いながらひきあげてくれた。

 だけど、今、兄ちゃん達は、オレのことを気がついてない。オレがついていけると思っているから。

 少年は必死で腕を動かした。


 生存本能よりも、ついていけないダメなヤツとされることに対する嫌悪感が、少年に力を与えた。

 少年は幼かったが、十分、男だったのだ。

 水面が近付いていく。

 空気が吸える。

 少年が安堵した時だった。


 両足が痙攣した。

 言うことをきかない。

 ゴボッ、痛みに少年の口から、貴重な空気がもれていく。


 少年はもう自力では助からないことをさとる。

 死んだ姉や、死んだ小さい妹の姿が浮かんだ。

 海に沈められていった小さな身体。


 母の泣く姿が浮かんだ。

 戦争に行ったまま、まだ大陸から帰ってこない父の姿が浮かんだ。


 嫌だ!

 

 少年は悲鳴をあげた。

 さらに空気がもれ、水を飲み込んだ。

 遠くなる意識の中で、少年はまるで大陸で父が作ってくれたパチンコの弾みたいに、なにかが水の中を飛んでくるのが見えた気がした。


 ソイツは水の中なのに、声をたてて笑った。

 少年達よりも、もっと真っ黒な、油のように光る目をしていた。


 △△△△。


 少年はその生物の名前を思った。

 名前には深い意味がある。

 だからこの物語にはその名を書かない。


 そして少年の島でも、その名はおおっぴらには口にされることはなかった。

 長い長い指が、少年の腕を掴んだのが、少年の最後の記憶だった。


 次に目覚めた時、少年は兄ちゃん達に取り囲まれていた。

 心配そうに見守る兄ちゃん達は、少年が目を開けた瞬間、安堵のため息をついた。 


 「オマエがいつまでも島につかないから心配して戻ったら、浜で寝ていたんだ」

 一番可愛がってくれている、一番大好きな兄ちゃんが言った。


 目が真っ赤だ。

 死んだのかと思って、泣いたのかもしれない。

 少年は何か言おうとしたが、カラカラの喉で声が出なかった。

 兄ちゃん達の一人が、用意していたのだろう、古い飯盒に入った水をのませてくれた。


 「オレ、△△△△を見た」

 少年はつぶやいた。


 「嘘つくな」

 少年が一番好きな兄ちゃんがその名に怯えたように言った。


 他の兄ちゃん達も、怖がっているようだった。

 その名を口にしたことに。

 (そう、私達には想像もつかないことだが、この頃この島では、精霊や魔物、妖怪達の存在は現実として捉えられていたのだ。)


 「オレを助けてくれた」

 男の子はそう呟くと目を閉じた。 


 男の子はその後のことを覚えていない。

 家で目を覚ましたことを覚えている。

 家に兄ちゃん達が運んでくれたみたいだった。

 もちろん、母ちゃんには誰も少年が溺れて死にかけたことは言わない。もちろん、

 男の子も言うはずがない。


 誰かが死なない限りそういったことは大事にならなかったし、前にも言った通り大事になることなどめったになかったのだ。

 そして誰も、兄ちゃん達も、少年が水の中で出会った者について聞こうとしなかった。


 水の中を弾丸みたいに飛んでくる、細長い体、黒い油のように光った目。

 水の中で響いた笑い声。

 男の子の中でそれは、しっかりと刻みこまれた記憶になった。





   

 「お父さん、ちょっとでかけてきますから」

 妻の声がした。 


 老人は目を開けた。

 少年の日の夢をみていたようだ。

 手にしていたはずの新聞は床に落ちていた。

 車椅子に座ったまま眠っていたらしい。

 妻に頷いてみせる。


 「もうすこしたったら、あの子が来ますから・・・・・・大丈夫ですね?」

 妻が心配そうに言うのを、左手で追いやる仕草で答える。


 3年前の脳梗塞で右手と右足が麻痺し、言葉を失った。

 脚の方はなんとか杖をついたなら少しは歩けるまでに回復したが、右手と言葉だけは回復しない。

 七二才で、前日まで働いていた。

 健康だと思っていた。

 たまに頭が酷く痛んだが、あれが前兆だったのかもしれない。

 倒れた日や、入院していた数ヶ月の記憶はない。

 ゆっくりゆっくり、自分の現状がわかってきたことは、急に理解するよりも、幸運だったのかもしれない。

 左脳をやられると言葉は出なくなるが、右脳をやられるよりも悲観的にならないのだと、娘が言っていた。

 まぁ、どこぞの本で調べたんだろう。

 嫁にも行かず、本ばかり読んでいる娘を思った。

 リハビリ病院の入院は、少なくとも寝たきりの生活からは老人を救った。

 リハビリでは感嘆された。


 「運動神経と、筋力が素晴らしい。本来なら歩けないところを、あなたは筋力と運動神経でカバーしているんです」

 理学療法士が言った。

 まぁ、子供の頃は野ザルだったからな。

 老人は苦笑する。


 島で、海を泳ぎ、樹から樹へ飛び移り、山々を駆け回った子供時代、高校生の時には学費をかせぐため土木作業をした。

 島では大人気の競技である相撲では負け知らずだったし、高校の時は柔道部でならした。

 島の祭りで行われる、船を漕ぐ競争も得意だった。

 でも、内地に行くまでは自分の身体能力が普通より良いくらいだと思っていたが、どうやら内地の人間は、自分達ほどには動けないのだと知った時は驚いた。

 内地にいっても続けた柔道では、色々楽しめたものだった。


 でも。今は。

 ほとんど動かぬ半身。

老人はため息をつく


 絶望はしない。

 妻も子供達も良くしてくれる。

 高校を卒業し、内地に一緒に船でわたった、子供時分からの仲間達も、たまに尋ねてきてくれる。


 リハビリの先生達も親切だ。

 悪いことばかり数えても仕方ない。

 テレビ三昧の毎日だが、長い間働いてきたんだ。

 長い長い休みだと思おう。


 だが、先ほどの夢みたいに・・・・・・。

 老人は寂しげに微笑む。

 自由に海を、山を島中を駆け回ったこども時代の記憶は、懐かしさと共に、痛みを覚えるのも事実だ。

 この手足は土をけり、海を押し分け、山を跳んだのだ。

 貧しくも、楽しかった子供時代。

 そう言ってしまえば陳腐だが、もう記憶の中にしかない故郷を老人は思う。


 今では失われた言葉。

 テレビや標準語の普及は島の言葉を消した。

 自分達が最後の世代だろう。

 あの言葉を理解できたのは。


 「アンタのシマクチが聞きたい」

 九十歳近い親戚の老女は良くそう言ったものだ。

 老人は島の言葉を上手に喋れた。


 幼い日育った大陸の言葉もすぐに理解し、母の通訳を幼いながらつとめていた幼少期のおかげかもしれない。

 語学の習得に才があった。


 島に来てあっという間に、昔からいたかのように島の言葉をマスターした。

 そして、ラジオで標準語をマスターした。

 そして、青年になり、内地に渡ってきてからも、上手にその土地の方言を話した。   


 もっとも、南の島特有の、この外見のおかげで、内地の人間だと思われることはなかったが。

 3ケ国語だ。

 老人はおかしそうに笑った。

 シマクチ、標準語、今住むこの土地の方言。


 いや、今はかなり忘れてしまった言葉だが、でも妻が夢中でみているあのドラマの、あの国の言葉に時折懐かしさを感じる。 


 会話がわかることもある。

 幼い大陸にいた日、あの国の言葉を話していたのだから4ヶ国語か。


 ぼんやりとそんなことを老人は考えていた。

 そして、どうでも良い考えだと思う。

 でも、一日は長い。

 ゆっくり色々考えるさ。

 老人は微笑む。

 思い出は宝物だ。

 そして老人には宝物はたくさんあるのだ。

 ゆっくりと宝箱を開けていくとしよう。


 「⊿〇≠ヾ∈∈」

 記憶の中で、誰かが言った。


 何だ? この言葉は?

 何だこの記憶は?

 老人はその言葉に狼狽した。

 それは、奇妙な言葉だったから。


 「∈※*▼▽#&◎◎!」

 また記憶の中で、誰かが言った。


 これは、どういう発音だ?

 日本語では似たような言葉さえない。

 知らない言葉・・・・・・、いや本当に知らない言葉なのか?

 黒く油のように光る目が思い出された。

 いや、あれは夢だったはずだ。

 そんなバカな。

 でも、老人はその言葉を思い出しはじめていた。


 五つだ。

 オレが話せた言葉は五つ。 


 五つ目の言葉は、秘密の言葉だった。

 そして、それは遠い約束だった。 


 「ξοθЭ┥┥┝」

 その言葉は思い出とは思えないくらいはっきりと響いた。


 まるで、部屋の窓から響くみたいじゃないか。

 いや、この声は現実だ。

 老人は、車椅子に座ったまま、ゆっくりと窓へと振り返った。


 窓の外に黒い瞳が、やはりキラキラと油のように光っていた。

 笑っているかのように見える、人間のようで、そうではない顔の中で。


 老人は笑った。

 変わらないな。そう思った。

 ――アンタも年をとったはずなんだがな・・・・・・。そんなとこにいないで入ればいい。

 老人はそう思った。


 動く左手を上げ、手招きした。

 まるで老人の心を読んだかのように、ソレの普段からどこか笑ったように見える顔がさらに笑った。

 カギのかけられた窓が、なんてことないかのように開けられた。


 老人は思い出す。

 彼らはその家の内部から招かれない限り入ることは出来ないが、招かれさえすればカギなど彼らには関係ない。


 するすると窓から滑らかに入り、彼(彼女? わからないのだ。便宜上「彼」の表記を使わしてもらう)は老人と向かいあった。


 「юя┌ЙИИЫ」

 「約束をハタシテホシイ」

 ソイツはそう言った。


 あの秘密の言葉で。

 老人はすっかり思い出していた。

 老人にはその言葉を理解できたのだった。

 老人の一番上の息子は、いくつかの国に留学し、二ヶ国語を話すことができる。

 日本語をいれたならば三ヶ国語だ。

 語学の才があったのだろう。

 だが、息子のその才は誰から受けついたのだろう。

 それは間違いなく、この老人からだった。

 老人は、人間以外の言葉さえ理解していたのだ。


 ――オレの心が読めるのか?

 老人は不思議そうに彼に心の中で言った。

 「当然。耳で聞かなければわからないのは、人間クライ。おまけに、その耳でさえ、たいしたことハナイ。我々の言葉ヲ理解できる人間はそうはイナイ」

 彼がため息まじりに言った。


 もちろんこれは老人の脳内で通訳された言葉だ。

 ――あんた達がほとんど人の前に姿を見せないからさ。そうでなけりゃ、オレじゃなくても話せるさ。

 老人は動く方の肩をすくめてみせた。


 「かもシレン。しかし、我々が見えて、なおかつ、我々の言葉を理解できルノ者ハ、少ないノダ」

 真面目な調子で彼は言った。 


 遠い昔、彼は本当の名前を教えてくれた。

 それは信頼の証だった。彼らが誰かを本当の名前で呼ぶことはない。名前は神聖だからだ。

 だから、呼ぶ時は本名ではなく「魚のウロコ」と呼べといわれた。それが通称なんだと。

 「ウロコ」と老人はその友人を呼んでいた。

 ウロコはその昔と何一つ変わらない姿で立っていた。キラキラ光る黒い眼が男をみつめていた。溺れた老人を助けた時と何もかわらない目だった。


 「○○」

 彼は老人の名前を呼んだ。

 老人は驚いた。

 彼らは、相手の本名を呼ぶことはない。よっぽどのことがなければ。

 ならば、これから彼が言おうとしていることはよっぽどのことなのだ。


 「○○。我々を約束に従イ、助けてホシイ。君は王ニナル。我々ノ。オレは全権を持ってここにキタ。君に渡すために。我々には君しかイナイノダ。王となり、我々を救ってクレ」

 ウロコの言葉に老人は驚いた。


 「王」? 「救う」?

 このオレに?

 自分の体さえ満足にうごかせないんだぞ! 言葉だって話せない!


 だが、老人は彼らを知っていた。

 彼らは決して意味のないことはしないのだ。

 そして、確かに少年だった老人は約束したのだ。

 「いつか、オマエが困った時、オレが助ける」と。


 ウロコは老人を救い、名前を教えてくれた。

 蘇った記憶。

 少年から青年になるまでの間、老人はウロコと過ごしたのだ。

 彼と彼の世界で。

 数々の冒険、それは、誰にもいえない秘密。

 ウロコ達が、人間の世界を離れることに決めるまで、それは続いた。

 ウロコに助けられ、そして共に過ごしたわずかな時は、秘密としてしまわれていたが、その輝きを老人は思い出したのだった。

 ウロコの目はあの頃のようにキラキラ輝く。


 「我々ヲ救ってクレ」

 ウロコは老人に哀願した。

 ――どうすればいいんだ?

 老人は答えた。

 それは承諾の言葉だった。


 そこでウロコは、老人の前に跪き、彼が正式な王であることを宣言した。

 介護ベッドのある部屋で、車椅子を王座の代わりに、老人は即位したのだった。

 こうして、半身不髄の老人は、人ならぬものの王となったのだった。



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