眠る繭
小雨が降りしきるような音が屋根裏から聞こえる。
まだ雨が降るような季節でもないというのに。
わたしの家はかつて養蚕農家だったらしく、昔はそれこそ毎日蚕が桑の葉を食べる音がしきりに聞こえていたとのことだ。
もっとも、養蚕は時代の流れによって数十年前に安い外国の絹糸が入ってくるようになり、商売としては上がったりになった。
うちは完全に農家から足を洗って、街に降りて勤め人になった。
わたしもただの勤め人で、先の事をあまり考えずにのほほんと働いていたら祖父が死んだという連絡が入った。
祖父は養蚕農家の名残が残っている古い家にずっと住んでいて、しかし祖父一人だけだったので死んでしまったら誰が住むのか、受け継ぐのかという問題が立ち上がる。
親類の間で侃々諤々の議論まがいの押し付け合いが始まろうとしていたが、わたしは渡りに船と言わんばかりにその家に住むと言ったら話はスムーズに進んだ。
この昨今のウイルス禍による働き方改革とかなんとかで、職場に行かずに働くリモートワークなる働き方が推奨されるようになり、わたしの仕事も職場に行かずとも住むようになった。
となると、人混みの中でウサギ小屋のように狭いワンルームアパートに住む選択肢なんぞまったく取る必要がないわけで。
都会はいろいろと便利だがそれ以上に人の多さに辟易し疲弊し、人の騒がしさから逃れたいと思っていた。
それに人が居るという事はウイルスも潜んでいる。
結局何故感染するのかと言えば、人が至る所に居るからだ。
ならば人の居ない所へ行くのが道理。
買い物や諸事を済ますのが田舎に引っ込んだ際の一番のネックになるが、それは車を持つ事である程度何とかなる。
それに買い物はネット通販という選択肢もある。
元々出不精よりのわたしにとっては最近は便利な世の中になったものだと思う。
祖父の葬儀を済ませ、相続手続きやら税の支払いやらもろもろを済ませ、わたしは祖父の家へと引っ越した。
予想通り、虫の音やカエルの声以外は静かなもので、特に夜に涼しい風を取り入れながら虫の音を子守唄代わりに眠りにつくというのは都会では成し得ない贅沢だ。
独り身は寂しいかもしれないが、ここらは野良猫がうろついている。
中には餌付けされているのか、人慣れして愛想を振舞ってくる猫も居る。
この中で人に飼われていなさそうな猫をピックアップして飼うのも悪くはないかもしれない。
わたしの家族もまだ健在で、何かあったら面倒を見てもらえばいいしな。
夜。
酒を飲みながら動画を見ていると、さわさわさわと音が聞こえてくる事に気づいた。
雨でも降っているのだろうかと外を眺めてみても、見事な月が出ているだけで雨は降っていない。
わたしの勘違いかと思って部屋に戻ってまた酒を飲んでいると、やはり音は聞こえてくる。
その音はどこからだろうと耳を探ると、どうも天井裏から響いているらしい。
さてはなにか動物でも入り込んだか。
イタチかハクビシンか、はたまたアライグマか。
棒切れの一つでも持ちながら、わたしは長らく誰も上がっていない天井裏に通じる階段を上り、灯りを付ける。
薄暗いぼんやりとした、切れかかりの白熱電球の灯りに浮かび上がったのは、放置されていた桑の葉の枯れたものを置いた台。
そして台の奥に、なにか棚のようなものがあった。
棚の中には白い繭。
繭の大半は上が切れていて、中からたぶん蚕の成虫が出て来たんだろうと思われる。
でも絹糸にする為なら繭になった時点でゆでられて、糸を取り出され中の蛹は死んでしまう。
そのまま育て切ったのだろうか。
蚕の成虫になった所であれは交尾の為に生きるだけの命で、水も飲まず餌も食べない。
交尾をしても自分たちから離れる事はできず、人間の手を借りなければ離れる事すら叶わない。
そして雄はあっという間に死に、雌も卵を産んだら死んでしまう。
蚕。
野生では自ら餌も取れないどころか、葉にくっ付く力すらない、か弱い生き物。
いつから人間は蚕を飼い始めたのか。
蚕は何時から人間を頼るようになったのか。
その白く可愛らしく愛らしい姿は、人の庇護の下にいなければ存続しえない。
ではわたしの目の前にいる白い人は一体誰なのだろう。
彼? 彼女?
どちらであるか見た目からでは全く判別が出来ない。
祖父はこんな隠し子を作っていたのか?
一切外に漏らす事なく、一体何のために育てていたのか?
白い人の目は紅く、そしてすべてが白い。
アルビノの特徴に似ているが、しかし全てが整っている。
白い人は近づいて来て、微笑みをわたしに投げかけた。
「やっぱりあなたが来てくれてよかった」
そのままわたしに身をゆだね、わたしはいつの間にか白い人を抱いていた。
なぜか懐かしい気持ちに襲われる。
わたしはこの子を知っている。
祖父がまだ養蚕農家をやっていたころ、わたしは天井裏に来て蚕の幼虫に餌を与えさせてもらっていた。
幼虫は食欲旺盛に桑の葉を食べ続け、わたしは日がなそれを見続けていたように思える。
その中でも一匹が、やけにわたしに懐いていたような気がするのだ。
わたしが来ると必ず頭をもたげて見てくれて、わたしの手に乗った桑の葉を食べに来てくれる。
蚕は人間の熱に引き寄せられてやって来る、なんて言う学説みたいなものを聞いた事はあったけど、それにしてもその蚕だけは特別だった。
でも繭になって、やがて大釜でゆでられる事を知ってわたしは布団にもぐって泣いたものだった。
その子が人の形になってやって来たのだろうか。
御伽噺どころか都合の良い妄想でしかないとわたしの理性は言っているが、懐かしい匂いだけはわたしの脳裏をくすぐって昔の想い出を思い起こさせる。
「今度は一緒」
そう言ってその子は口から糸を吐き出し、わたしもろとも繭を作り始める。
蚕の力なんてか弱く、いかに人と同じサイズになろうとも振り払える程度である事には変わりないはずなのに、わたしはその腕を振り払う気にはなれなかった。
思えばわたしは、ずっとあの子を愛していたのかもしれない。
繭に包まれながら、そんな事を今更思い知ったのだ。
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