紅葉と紺色の狐16

 天井の水滴が湯船に墜ちてぷくっと水面を膨らませて波紋を描いていく。僕が知っている個人宅の浴槽では司馬家のものが一番大きかった。首を起こしておけば足先まですっかり伸ばしてもそのままに浸かることができた。湯は碧く新しく、浴槽面には小さな泡が寄り集まっていた。何より、温かいというそれだけで嬉しいものだ。

 ありがとう、ということなのだ。僕はきっとそれを言うためにここまで来たのだろう。とても遠い距離を走ってきたような気がする。暗い洞窟の浮かぶ陸の果てと、暖かいこの家と、遠く隔絶された二つの世界を、闇の底に掘られたように暗く細長い道路が細々と繋いでいた。僕は何とか命を保ったまま底を潜り抜けてきた。

 僕は深く呼吸し、体のどこにも力を入れずに目を瞑り、シャチになった気分でできるだけ長く湯の中に沈んだ。滑ったら滑ったで抵抗せずにそのまま沈没してしまった。

 自分は何者なのか。その問いに人間は長い時間を費やしてきた。究極に向って論理を進める一方で、多くの人がそんな論理を一切省いた感性のまどろみの中に真相を求めていたと思う。解明しうる魂など浅はかで取るに足らない。そう考えたのかもしれない。僕も人と贋の間のまどろみに漂っている。佳折はよく難しい話をする。けれど最後は軽やかに跳躍して包括的な所に行き着く。そんな乾いた温かさを僕は確かに望んでいた。ずぶ濡れになってわかった。

 少し前、僕は雨合羽の水気を払うのも忘れて司馬家の玄関の土間に立っていた。扉の鍵を開けた佳折が目の前の惨状に気を遠くしつつ用意しておいた大判のバスタオルを両手いっぱいに広げる。僕はそこで正気を取り戻して自分の表情をなんとかした。たぶんゾンビの見習いみたいな酷い顔をしていたはずだ。自分の体を拭くより先にバイクを車庫に入れてやりたいと言った。リモコンを持っていかないと触った時に警報が鳴って警備会社まで通報が行ってしまうのだ。二度目はさすがにエントランスで雨合羽を畳んでから中に入った。佳折は僕を床に上げないままその高さを使って僕の頭を拭いた。僕は目を瞑っていた。頭がぐらぐらしたしどうせ何も見えなかった。ふらついた振りをしてそのまま佳折を抱き竦める。

「やってみるよ」僕は言った。

 僕はどうも正気とは思われていなかったようで、そのまま風呂に放り込まれた。

 彼女が離れてみて気付いたことに、僕が抱きついたせいで水が移ってワンピースが所々濡れていた。だから脱衣所の引き戸が開けられた時も単に彼女が着替えに来ただけなのだと思った。

 浴室の折り戸にぼんやりと浮かんだ人の影が服を脱ぎ、やがて浴室に入ってきた。佳折は妙に慎ましい手つきで戸を開閉した。何も身につけていない。足を揃えて僕の前に立ち、人差し指を唇の前に当てる。「静かに」という仕草だ。それから髪留めで後ろに髪を纏めた。僕は目だけをそちらへ向けて彼女の姿を見ていた。綺麗だと思った。彼女は手桶を取って体を清めた。

 僕は浴槽の一角に設けられたベンチから脚を引いて膝を立てた。運動不足が筋肉痛を引き摺るような調子で彼女は片方ずつ足を持ち上げて僕の向かいに入り、そのベンチに腰を下ろして自分の足の甲に手を突いた。僕一人で入っていても湯船に目一杯の湯量だったのが、彼女の進入によっていよいよ溢れた。

「懐かしいな」僕は呟いた。「溢れさせたくて、そのために家族を呼ぶんだ。結局、四人で」

 彼女は相変わらず興味深そうに僕の膝の間を見詰めていた。科学者が研究対象に向ける目だ。最高の理性が本能によって動力を得る、まさにその状況だった。

「気持ちが良いからするんじゃないの。それだけじゃないの」喉を潰したような声で彼女もまた呟いた。「さっきの、本気と思ってよくて?」

 僕は肯いた。

 彼女は煮え切らない笑みのまま腰を上げ、縁に手を突いて僕の額に胸を押し付けた。二人とも準備は整っていた。僕も、彼女も。

 僕は贋ではなかった。人間でもなかった。ただここに居て、生きているか死んでいるか、そのどちらかでいえば生きていた。彼女も同じだった。無駄なものを剥ぎ取った最後の核心だけを。

 それは獣のようでもあった。

 それは機械のようでもあった。

 合理的であり、かつ理不尽だった。

 自然の作用であり、人工の営みでもあった。

 彼女は手首を握らなかった。

「完璧」と彼女は言った。喋れるようになるまで五分くらい所要したので、僕はその間に彼女が溺れてしまわないように気を付けた。「私が先に体を洗って、少し浸かってから出るから、あなたはその後でそうして、お湯を抜いて、それから出てきてね。シャンプーかボディソープか、詰め替えていたということにするから」

「わかった」

 僕は彼女が出て行ってしまってからもうしばらく湯船に浸かった。ぼんやりとサメのように鼻先を出して浮かんでいた。それから頭や体を洗って浴槽も掃除しながらお湯を抜いて、最後に蓋を閉めて給湯ボタンを押した。僕はしっかり仕事をした。


 ……


 そのあと桑名との約束通り二年前の冬のことを佳折に話した。僕はベッドの中で自分の体の上に腕を置いて脚は少し広げ、顎の下まで布団を被って模範的な眠りの姿勢を保っていた。サキは桑名の死のことで僕を咎めた。なぜおまえが救ってやらなかったのかと言った。しかし、そんな筋合いはなかった僕は思う。僕は救おうとした。ただ、彼女の望む生死までもを僕のものにしたいとは思わなかった。どうしても死にたいのならそれも尊厳だと思っていた。もし僕が桑名のことを本気で愛していたなら、彼女の尊厳を曲げようとしていたのかもしれない。それが正しかったのかもしれない。僕の罪は彼女に愛の伴わない優しさを注いでしまったことだった。

 僕は半ば眠りながら話していた。あなたがタリスを愛したままでもいい。死を愛した分だけ、次は生を愛して。負った罪はそのまま、もっと悲しみの少ない命に変えるために。紅葉の吹雪の向こうに立った女の姿を借りて、声を借りて、佳折は言った。

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