紅葉と紺色の狐17

 次の目覚めはあまり爽やかではなかった。鼻の奥がつーんと重く発熱していて、しこたま雨に打たれてきたせいで軽い風邪に罹ってしまっていた。佳折がまだ眠っていたので階段下のショートカットから車庫に入ってバイクを拭くことにした。昨日のうちに乾かしてやれなかった。新車なのにさっそく水垢錆まみれでは可哀想だ。どうせいつかは水垢も取れなくなるのだろうけど、物にはそれぞれ汚れていくのにちょうどいい速さがある。速すぎても遅すぎてもいけない。使い手の品性が表れる。

 土間用のスリッパを突っ掛けてひとまず車の具合を診た。水滴がまだ残っている。組み立て式工具棚の枠に掛けてあった雑巾を借りて水道で絞る。

 車庫のシャッタには小さい窓が付いていて、それがいっぱしの照明みたいに室内に光を注いでいた。外は随分明るいみたいだ。それに気付いてみると急に息苦しい感じがして外に出たくなった。内側からシャッタを開けると冷たい外気が足元から忍び込んできた。屈んで通れる程度に止めて道に出る。向かいの庭の木立にシジュウカラの群が居て、僕から逃げた方がいいかどうかをみんなで会議していた。他に生き物らしいものも見当たらなかった。人間も贋もだ。住宅地の車線も路側帯もない公道と、電信柱と電線。それくらい。空気は冷たく澄んでいて太陽の光もまだ白く薄い。何度か深呼吸をして体を伸ばしてみるととても気分がよくなった。

 シャッタをそのままにしてバイクの世話を始めた。空気が冷たくなっていく代わりに僕は動いて温まっていく。寒さは感じなかった。ただし今まで暖かいところに居た人にとってはやはり身震いは避けられない気温だった。佳折父も「おう」と自分の肘をさすった。

 彼がひょっこり中から出てきたので僕は驚いた。彼は話をしたいからちょっと来いと言った。佳折本人がまだ眠っている間にするべき話もあるだろう、ということだ。僕は一応雑巾を借りたことを言って濯いでから元の場所に干した。バイクの世話は大体終わっていた。足回りは濡れたままだけど雑巾にオイルが付いてしまうし、走らせて乾かすにもまだ近所迷惑な時刻だ。

 佳折父は僕を彼の書斎に連れていった。デスクの上にマグカップが二つあって、今しがた淹れたばかりらしいコーヒーが湯気を立てていた。彼はデスクの背凭れの高い椅子に座り、僕を踏み台兼用の木椅子に座らせた。「やってみる、とはどういうことだ」

「やってみる?」

「昨日、そう言っただろ」

 ああ、と僕は心の中で合点した。確かに昨日のことだ。でもそういった心境を自然に口に出せるほど僕は目の前の人物に慣れていなかった。そもそも、なぜだかは自分でもわからないけれど僕が慣れるとか慣れないとかいう言い訳を持ち出したくなる相手は彼だけだ。緊張している。結果的に僕は少し黙っていたので、彼は見兼ねてコーヒーを口にした。僕も追従した。

「俺はな、君の人間性云々に関しては全く及第点だと思ってるんだ。親に失礼のない奴なら、あとはどうだっていい。娘が自分で決めることだ。それで惚れてるというんだから仕方がないだろう」

「普段のあなたは、でも、僕のことを好ましいとは思っていないようだ」

「それはそうだ。当たり前だ。それが親というもんだ。娘を守るのに十分な奴かどうか見極めるのも親の仕事だから、今まで自分で守ってきたものを赤の他人に任せるというのは決断じゃないか」

 あまり賛同できなかったので僕は曖昧に肯いた。「そんなに急激な変化でしょうか」

「なに?」

「彼女は何かを機にこの家を出ようとは思っていないのでは。彼女はご両親のことをもきちんと考えていますよ。出会い、交際、結婚、そういう過程はむしろ僕がこの家に加えられていく過程なんだと感じています。そんな……急激な譲渡、取り合いのようなものではなくて」

 デスクの上の壁に世界地図と日本地図が貼られていて、佳折父はそれを見上げた。視線は千島や樺太の辺りに向いている。

「あと、俺たちが最も心配しているのは子供の問題だよ」彼は地図を見るのをやめて言った。「君はやはり生物的には普通の人間ではないんだから。今日に至っては子をもうける手段も色々あるんだろうが、負担には変わりない。たとえ君たちが覚悟の上だと言っても命に関わることだ」

「それはわかっています。彼女は腹を痛めることに拘りがあるみたいだから、彼女の子であるなら、僕の子ではなくても、それは構わない」

「他人の子でも責任を持って育てるということか」

「はい」

「大した心構えだ」最後の言葉にはあまり心が入っていなかった。

 僕は書斎の中を見回した。聖堂の内陣にある小部屋に少し似ていた。狭くて本がたくさんあって古い匂いがする。ただここでは本棚は硝子扉付きで、やはり地理関係の本が所狭しと並んでいた。月刊『地理』なんて本棚一つ分ぎっしりである。それでも必要と思うものだけ取っておいてこの量なのだろう。ずーっと見ていってその中に趣向の違ったものを僕は見つけた。

「数学もお好きなんですね」やっぱり僕とは波長の合わない人なのかなと思った。

「いや、それは佳折のだよ。大学の勉強をする時だけはここへ来て、そう、その椅子で読んでるよ。落ち着くんだろうな」佳折父は僕の顔をじっと見た。「まさか、知らなかったのか」

「はい」

 佳折父はさも愉快そうに笑った。「君がディスカリチュアと知って隠してたんだろう。一本取られたか」

「取られました」

 僕は俯いてコーヒーを飲んだ。今度は佳折父が次いだ。コーヒーを飲むと彼は神妙になってうーんと唸った。

「しかし、苦労の限度というものを知らない女になってしまったな、佳折も」彼は感慨深げな口調で絞り出すと、肘を突いて手の付け根に顎を乗せ、デスクの端の写真立てに目線を伏せた。セーラ服の佳折、ランドセルと佳折。僕がこれからもずっと知ることのないだろう姿がこの部屋にはあった。

 黒ラブラドールのトトが目を覚まして暗いリビングでワンと吠えた。トトは案外寡黙な奴で、気分によって鳴き方を変えたりはしなかった。ただ自分の存在を主張する時にだけワンと吠えるのだ。佳折父はリビングに出て行って、低い声のままで「無闇に吠えるもんじゃないぞ」と静かに言い放った。トトは不貞腐れたように床に伏せて静かになった。「散歩、行くか」と佳折父が振り返って僕に訊いた。

 たまたま司馬宅で洗濯してもらった作業着が干してあったのでそれに着替えて、佳折父のお古のジャンパを借りて上に羽織って外に出た。トトは佳折父に懐いているというよりは服従の姿勢を示していて、あまり元気の良い行動をしないように慎んでいた。どちらかというと僕の方が相性が良いので家を出てからトトのリードは僕が握っていた。

「佳折というのは苦しみを知っている名前だと思わないか」彼はいつもの散歩コースを歩きながら言った。僕はトトの散歩コースについては全然詳しくないけれど、歩きに迷いが無くほとんど無意識で、慣れている道らしかった。

「どうしてですか」

「なぜこんな名前なのかと悩むような名前だが、ちゃんとした意味と親の思いが籠っている名前だ。単にユーモアのある名前では、苦しみはあるが、苦しみを知っているということにはならない」

「苦しみがあるのと、知っているのと、違いますか」

「語感だ。無明のまま苦しみの中にあるのか、それともそこから抜け出したのか。知っている、と加えることで後者の印象になるだろう」

 自慢でもなく皮肉でもなく、彼は表情を固めたまま淡々と的確な言葉を選んだ。僕は黙って聞いていた。

「俺は昔、含みのない馬鹿な女が嫌いだった。創造性がなくて、上っ面な生活だけで深長な考え事のために時間を割いたことのない女が嫌いだった。だから娘にはそういった意味で色気のある人間になってほしかった。そうして苦しみを知ることのできる契機を与えてやったつもりだった。

 それがどうだ、現実は酷なものだ。まず目が見えなかった。光を手に入れるために何年もの間臨床実験に付き合わされた。病院から解放されたら今度は水平運動の急進派に捕まって天子様扱いされ、挙げ句に命まで狙われる。その時親がしてやれたのは無力な守りと同情だけだった。佳折の人生は佳折のものであって誰にも代わってやることはできない。闇も痛みも佳折のもので、我々はそれを推し量ることはできても引き受けてやることはできなかった。ただただ親子といっても別の人間に過ぎないということを思い知らされただけだった」

 僕はまだしばらく何も言わなかった。彼の言っていることを彼の立場になって感じようとしている自分が居た。「彼女が僕を愛したことも彼女の苦しみですか?」

「違う。苦難に違いなくとも、それは誰から強制されたことでもない。狂った人間や傲慢な人間、あるいは神から強制されたものでもない。佳折自身が選んだことだ。それに、親として代わってやりたいとも思わない。まったく思わん」

 僕は彼の表情をちょっと急いで確認した。ジョークを言ったように聞こえたからだ。特に大きな変化はないが笑っているように見えなくもなかった。

「彼女が幼い時の苦しみをどんなふうに乗り越えて生きてこられたのか僕は知りません。本人でも、親でもないから。でも僕が一つ言えるのは、そういった苦しみがどれか一つ欠けても今の彼女はなかったということです。辛くてもそういった経験が彼女を育ててきた。自分の失敗を嘆くことはあっても、猶予なく与えられた苦しみを後悔することはない。彼女は立派な人間です。あなたのことを幸せにしたい、満足させたいと思っている。それが彼女自身子を持つ親になるための覚悟であり、願いだからです」

 彼はそこでようやく明らかに表情を柔らかくした。「まったく、泣かせてくれる」

「娘が自分で選びとった苦しみならどうですか、容認できますか」

「そんなの、苦しみの意味次第だろ」

 佳折父の話を聞いているうちに緑の多い一角に出た。トトが僕の後ろに来て尻に噛みつくような仕草をした。

「トトはこの辺で待っとけ」と彼はトトの首を両手で撫でて言い聞かせ、リードを電柱に巻いた。

「神社ですか」

「稲荷神社。うちに氏神様みたいなもんで、佳折もよく来る」

「ああ、彼女は神社が好きなんですね。巫女さんのバイトもやったことあるって言ってたな」

「一回だけだがな」

「トトは連れて行かないんですか? そういうしきたりとか」

「他の神社がどうか知らんが、稲荷だからな。狐と犬は仲が悪い。あいつにも感じるところがあるのか、面白くなさそうな顔をする」

 神社から離れていればこのおやじさんの前でもトトが楽しそうな顔をするのだろうか、と僕は短く考えた。

「狐と犬って仲が悪いんですか」

「だから、そう言ったろ」

 神社の境内を赤い垣が囲っていてそれより少し褪せた赤の幟が等間隔で立っている。神社の名前と牛王宝印の描かれた幟で、それが少し賑やかに見えたけれど実際には人の気配はない。近々何かイベントがあった名残かもしれない。

「参拝の仕方、わかるか」鳥居の前に立って佳折父は訊いた。

「ここからですか?」

 彼は一礼して鳥居をくぐり、手水舎で柄杓を取った。水道の蛇口と竹を貼り合わせた蓋の付いた手水舎で、蓋は半分ほど開いて中に澄んだ水が一杯に溜まっていた。清め方にも作法があるというので僕は彼の言った通りに手順を血眼で観察して柄杓一杯の水で手と口を濯いだ。それぞれ玉と鉤を咥えた狐像の間を通って賽銭箱の前に立つ。軒下に重そうな看板が掛かっていて、梁の至る所にカラフルなお札が雑然と貼り付けられている。鈴は真鍮製。色でわかる。

「これは見るだけでは全く伝わらないだろうから言うが、祈りの原則は感謝と願いだ。いいか、祈りの行程は感謝と願いで成り立っている。手を合わせてからまずは日々これこれのお力添えありがとうと感謝する。願いはそれからだ。願いも、明日晴れにしてくださいという具合ではいけない。明日いい天気にしてくださいますようにとやる」

「なにが違いますか」

「自分にとって有意義であるように神に計らってもらうのを願うのであって、物事自分の思い通りに進むように願うのではない。その違いだ。いい天気というのは、場合によっては雨かもしれん」

「なるほど。謙虚でなきゃいけないわけだ」

 彼は鈴を鳴らし、二礼二拍一礼をやった。二拍の次に手を合わせて祈る。堂に入った形だった。

「佳折も時々ここへ来る。彼女は何を願いに来るのでしょうか」僕は参道を下って狐の像を正面に回って見上げた。石畳の外に砂利は敷かれていない。石狐は背伸びのしすぎみたいに脚や背中がにゅうっと長くて表面はすべすべしている。顔はどちらかというと写実志向で、全体的にモダンな感じを受ける。社は柱が赤く屋根は黒く、上をクヌギやカシの枝が囲っていた。他にも落葉樹が多いがヒイラギなどは葉が残っていた。

「他人の願いなど訊くものではない。ただ、より良く生きられるように自分を強くする。それが誰にとっても共通の祈りの目的だ。どうして参拝の作法など教えたと思う?」

「祈りには礼儀が必要だからではないですか」

「礼儀とは相手を尊ぶ気持ちのことか? 違うな。作法など無意味だ。そう教えたかった。神を尊敬する気持ちには意味がある。その尊敬から生じたのが作法であって、尊敬を含まない作法など無意味だ」

 我々は境内を出てトトを迎えに行った。電柱の前にお座りしていたが、こちらを見つけると立ち上がって尻尾を振り出した。

「ところで、祈りの感謝と願いの関係はとんだ詭弁だと思わないか」佳折父は訊いた。「人知を超えた神の力を期待するようなやつは人生的に逼迫していて、日常に感謝すべきことなど見つけられない人間だ。そう考えるのが妥当じゃないか。そこであえて感謝を要求するのは神の力がもっと些細なものに過ぎないという証明に他ならない。たとえ思い通りにならない悪い結果でも、神が自分の人生にとって有意義なように導いてくれた結果だと合理的な解釈を促す。神は何も圧倒的な力など持たない、個人の心的な光の存在であって、願いは自分を強くするための宣言、感謝はその努力と結果の評価に他ならない。祈りとは強くなろうとする人間の心の支えとなるシステムのことだ。

 それに比べれば作法の塊である宗教は人間の理性の形骸的な産物だな。祈りという感性の行為に立脚しておきながら、その感性と並び立って統制しようとする。理性は感性の一部に過ぎないよ。空っぽの作法が、中身の尊敬次第では意味を持つのだから。宗教なんて枠組みは最初はなかったが、それを強制したのが国家の枠組みだ。まずアルメニアが、次いでローマ帝国、フランク王国がキリスト教を国教化する。国民を心的に統一すれば国境という範囲が対外的に有効な強度を持つようになる。国家という浮ついた概念を揺るぎない心的基盤に係留しようとしたんだ。他の神を受容する柔軟性云々とされる神道も例外ではない。記紀に基く神話構築であり、神仏習合であり、明治の神道復古だ。むしろ端的なナショナリズムが表れている。国民を説得する必要性の中で宗教は確固たる理性の枠組みに成長し、人の感性がその形に従うようになった。さっき俺は作法は尊敬から生じるものだと言ったが、これではもう理性と感性が逆転している。

 言っておくが俺も佳折も宗教人ではない。理想的なのはもっと古く原始的で何教と呼ばれることもなかった頃の祈りだと思っている。作法が威張っていない方が祈りが純粋だからだ。ではなぜ神社に参拝し作法に従ったか。それはその心的な作用を認めているからだ。これが理性と感性の正しい関係だよ」

 僕はやはり黙って彼の話を聞いていた。澱みなく語り続けられる頭の回転は佳折とよく似ていた。反論を恐れない意見の過激さも同じだ。しかし語りそのものの筋立てのわかりやすさは親に軍配が上がると思った。佳折だったらもっと口数を多くして結論を最後に回すだろう。佳折の語りはダーツみたいに最初は外側からあっちこっちに刺さってだんだん中央に近づいていくのだが、父の語りは最初から中央にすっと刺さる感じがした。この二人もちゃんと親子なんだというのを発見して僕は少し感動した。


 四十分ほど外を歩いて家に戻ると佳折はまだベッドの上で柏餅になっていた。目は覚めているようだ。「どこ行ってたの」と訊くのでトトの散歩に行ってきたことを話した。

「ねえ、神様って夢の中に出てくる?」ベッドに座って僕は訊いた。

「あるよ。霊験といって平安時代の随筆にもたくさん書かれている」佳折は起き上がって僕の背中にちょっと投げつけるようにして布団を掛けた。

「お参りなんかしていなくても?」

「それはどうかしら。ほとんどの場合は神仏に祈ったことに応じて出てくるみたいだけど、ただし、他の人があなたに関して祈っていた場合にはあなたのところに現れるというのは道理よ」

「誰かの姿を借りて出てくるということもある?」

「そうね、あると思う。人でなくても、動物の姿をしていたり」

「なるほど」

「なに?」

「おととい、夢を見た。僕はカエデの大木の下に立っていて、真っ赤な枝々の間から朝の白い太陽が差し込んで、地面に敷き積もったもみじをひときわ明るく照らすのが見える。その光の中で佳折は白い狐を何頭も従えていて、それはなんだか狐の家族みたいだったな」

「私?」

「そう。紺の着物で、赤い萩の模様が付いていた。ずっと遠くにいたけど見えたんだ。夢の中だからね。着物と、それから耳が付いてた。狐か、それかそういった類の髪と同じ色の耳だ」

「こう?」佳折は両手を耳に見立てて頭に添えてみせる。「諏訪野君にも耳の趣味があったのね」

「そうは言ってない」

 佳折はけらけら笑って布団を全部僕に引っ掛けるとベットの外に出た。

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