紅葉と紺色の狐15

 人が自らの死を望む時、そこには深い孤独が伴っている。誰も自分の生を望んでいない。あるいは誰かが自分の死を望んでいる。では生まれる時は孤独ではないのだろうか。母親の中に二度と戻れないというのは孤独ではないのだろうか。

 自殺は僕の周りでは珍しいものではない。肢闘とタリスのためだけに生きていることに意味を見出せなくなってしまう贋が時々居るのだ。心境は理解してやれないけど、確かに仕方のないことだとは思う。自分の命はここで終わりだと決めつけて自ら信じ込む能力を彼らは持っている。彼らにとってそれは寿命と何ら変わりがない。ちょっと手段が選べるというくらいで、死なねばならないことに変わりはない。贋にとって死は全然予想可能なもの、リアリティに溢れたものだ。タリスから別れてこの世に生まれるのと同じ、定められた過程の一段階なのだ。タリスに繋がったまま死ぬことを嫌がった贋たちの大半は、自分の死後も自分の価値を肯定してくれるだろうものの近くで死にたがる。窩の蓋を閉じたまま肢闘のコクピットで、あるいは心中、誰かに殺されるという形で。珍しいタイプは誰かの目の前で、それでも自ら死ぬ。

 二年前の冬、大陸の寒さが最も厳しい頃、真っ暗にした部屋の中で僕は桑名を抱いていた。木枠の窓からは変に白く斑な空が見えていた。床に置かれた小さな電気ストーブが赤黒く光り、電熱線に積もった埃をじいじいと焼いいた。

 誘ったのは桑名の方だった。僕が夕食の野菜スープを食べている横へ来て、お願いがありますと敬語で言った。彼女の態度に好感を持ったので僕は断らなかった。しばらく話していて気付いたけど、人を見つめる時に少し上目になるように小首を斜めにして、直る時に髪を耳に掛ける、そういう一連の癖がある人だ。湯気で曇るからと眼鏡を外して、そうした時の瞳は案外その癖とぴったり調和する綺麗な瞳だった。

「なに?」僕は少しストーブを遠ざけて布団を掛け直し、グラスに注いできた水をひとくち飲んだ。

「先日はごめんなさい。力になれなくて」彼女は謝った。静かな場所で聞く彼女の声は少し具合が違った。もともと細い声が明るく振舞おうとして震えるのでいっそう細く透き通って聞こえた。雪のようだった。僕は桑名の容姿よりも声に惹かれた。

「力になるなんて、僕は指揮官じゃない」

「もしそうなら、もっとよかったかも。戦術指揮、あれはだめ。視界が利かなくて色々試していたんだろうけど。わたしは管制からの指示を待っていたの。でも、それが遅かったから自前のレーダを起動して半径五百メートルずつ潰していった」

 数日前に錦州近郊で戦闘があって、部隊間の連携が巧くいかずに一方が大きな被害を出した。大勢帰ってこなかった。彼女はそれをよく思っていなかった。

「僕の行動はどうだったと思う?」

「えっと、どうだろう、見ていなかったから。こっちはまだ敵も見えていないのに撃破、なんて」

「道に沿って走ったんだ。その方が敵も気付くだろうと思って」

「敵に見つかるように、ということ?」

「うん」

「そうなの、リスクを好む人ね。あ、でももし相手が戦車だったら?」

「その時はその時で何とか立ち回ればいい。上手く行けば砲台にしてやることもできるかもしれない」

「だめだったら?」

「砲口に四十ミリ叩きこんでやる」

「あはは、本当? わたしはそんなに希望を持てないな」

「どうして? やるときはやらないと」

「だって、臆病だから。やれと言われればもちろんやるだろうけれど」彼女はしきりに自虐的になった。でもそれらは必ず僕を高める言葉と抱き合わせになっていた。「あの、少し水をくれませんか、少し」

 僕はグラスを渡し、体を起こして水を飲む彼女の喉の動きをじっと見ていた。本当にちょっとだけ飲むと音を立てずにグラスを床に置いて、代わりに本を取り上げた。サリンジャーの短編集だ。

 僕が部屋に来た時、彼女は豆球だけ点けて枕でその本を読んでいた。その時はまだ眼鏡も掛けていたし、外地で働く軍人が選びそうにない上品なパジャマを着ていた。民間のアパートを接収したので定員は一部屋に一二人で、桑名は一人部屋だった。

「時々読み返したくなるんです。といってもそう何度も読んでいるわけではなくて、読みたいと思いついた時にしばらく置いて、本当にそれ以外何もできないという時に読むんです。それくらいでないと、読みすぎてつまらなくなってしまいそうで怖いから。短編は読み返すのにいいですよね、もう一度、という気持ちが長編だとあまり起こらないし。短編といっても、展開が完結していればそれで一編というわけではない。筆者のある感性がそこで始まりそこで完結している。だからこそどの一編を読んでも心の中が綺麗に、まるで残ったページの余白みたいに掃除される、ということ。そうだ、何度も読んでいるうちにその感覚がなくなるのが嫌だ。『ナイン・ストーリーズ』読んだことは?」

 僕は肯いた。「でも、結構前に読んだせいかもしれないけど、叙述的すぎて進むのが険しかった」

「煙草、吸う人でしたよね?」

「サリンジャー?」

「いいえ、あなた」彼女は少し可笑しそうにしてヴァージニアの箱を振って見せた。灰皿も本も、枕元といえば物を置く場所をきっちり決めているらしかった。吸うかどうか訊くので一本だけ貰うことにした。女物の煙草を吸ったのは後にも先にもこの一回だけだ。我々は灰をこぼさないように敷布団の外に首を突き出した。

「歳下に勧めるなんて」

「十八、かな」桑名は僕の年齢を予想した。

「十七。君は?」

「確か十九」

「じゃあ、やっぱりお姉さんだ」

 彼女は毛布を引っ張りながら布団から出てデスクの椅子に移った。両手を空けるために煙草を噛んで毛布の端を背中や尻の下にしっかり敷き込む。僕は毛布が無くなったので体が外に出ないように掛け布団の具合を直した。ストーブは変に明るく光るくせに目の前の物をじりじり灼くだけで部屋の空気はあんまり暖めてくれなかった。

「サリンジャーの小説は聞き手の文学だと思うんです。とにかくどの話にも聞き手が居る。どの話を取っても感情の遣り取りが物語の中に収まっていて、外に居る一人の読者に向かって共感や同情を求めることがない。危ない時には、それこそ巧みに、あえて大勢の読者が居るってことを主張してそれを回避している。綺麗な水槽みたいに安心して見ていられるんです。

 それと、あと彼が大事にしているのが眠りというもの。何かこう、どたばたした、心を乱すような嵐のあとに眠気がやってきて、それが回復の前兆になっている。他の本にもそういうところがあるんだけど、この「エズミに捧ぐ」ではXが最後に端的に言ってしまうの。エズミに対して、本当の眠気を覚える人間は元通りになる可能性を持っているから、って。そういうのが素敵だと思う」

「つまり、君は眠りを大切にしているわけだね」

「ええ、一応」

「納得が行っていないみたいだ」

「そう。少し私的な言葉を使うけれど、サリンジャー的な眠りについていえば、わたしの眠りは体だけのもので、精神はもうずっと長い間眠っていない」

「なるほど…」

「わかってくれるの?」

「まあ、なんとなくなら」

「そう、いいのよ。あなたにそばに居てほしいのはわかってほしいからじゃないもの。……ごめんなさい、偉そうなこと言って」

「今はわからない。それは仕方ないじゃないか。でもそのうち、僕がその本を読んで君のことももっと知って、それからもう一度吟味すればわかるかもしれない」

「いいの、気にしないで」

 僕は何も言わなかったが、腑に落ちなかったので抗議のつもりで彼女から目を離さなかった。すると彼女は例のやり方で僕を見つめ返した。ふと気付いたのだけど、彼女は同時に複数の形で相手とコミュニケーションするのが苦手なのかもしれなかった。だから、挨拶をする時も自分が話す時も目を伏せているのだけど、見つめると決めた時だけはじっと強い視線を向けることができる。

 彼女はまた髪を耳に掛けて僕に横顔を向ける。ストーブの赤い光が鼻柱や額や高いところに溜まった。

「ねえ、今までどれくらいの人と寝たの?」

「わからない。外地で部隊編成があると交流のある女子とはほとんど寝るよ」

「はじめから? 配属されて二年でしょう。一年で三期の外地勤務だから、きっかり半数が女性としても、まあ、三十人だって」彼女は計算してみてくすくす笑った。「おんなじ布団に入って黙ってやったり、やらないで口論したりするの?」

「交際じゃなくて同僚だからそんなに丁寧じゃないよ。…訊いたって面白くないだろ、こんなこと」

「知りたいの。自分で誘ったの初めてだから」

「なんだその理由……」

 彼女はぷーっと煙を吹き上げて短くなった煙草を床の灰皿で潰す。毛布を僕の布団の上に綺麗に広げる。布団の下に入って僕の肩に額を寄せる。そのまま重さをかけて僕をひっくり返そうとするので、僕は上に腕を伸ばして急いで煙草を灰皿に乗せた。

 臆病で人見知りで、それでも震えながらでも伝えたいことをまっすぐに伝えられる瞳や声を持った人、二年早く生まれた優位を自分の弱さを踏み倒すために使う憎めない傲慢さを持った人、それが僕の思う桑名だった。

「誘われた時くらいは無口でもいいのよ。一切喋らなくたっていい」彼女は言った。

「僕は君の声好きだよ」

「ありがとう。それなら、わたしそのものは?」

 僕は彼女の背中に手を回していた。細いのに柔らかい腰だった。

「あなたには大切な人が居ますか」

「居るよ」

「それはあなたと肌が触れ合うほど近くにいる人ですか」

「うん」それは嘘だった。

「私はあなたのこと好きよ」

 僕は覗き込むようにして彼女の目を見た。体勢的に難しい動作が必要だった。ストーブの光を映してとても潤んでいるように見えた。

 僕はこの時きちんと「僕も君のことが好きだ」と言うべきだったのだと思う。けれど僕は嘘をついていて、桑名は僕の嘘をすぐに見抜いてしまった。僕もまた彼女の呪われた鋭さに気付いていた。僕はもう嘘を言っても本当のことを言っても彼女を傷つけるしかなかった。

 彼女はとうとう泣き始めた。エタノールみたいに粘性の無い涙だった。

「ごめんなさい」

「謝るのはよくないよ」

「わたしね、寒いの。こんなに温かい人に抱きついていても、指先は冷たいままなの。肢闘に乗るのはとても気持ちいいの。でも寒い。巣が無くなってしまった鳥みたいに、ずっと落ちているの。飛んでいられるのは短い間なのに、どこへ降りても安心できない。すぐ飛び上がっていきたくなってしまう。お腹の下の方がつうっと冷たいの。それが怖くて怖くて」

「肢闘に乗るのをやめたいの?」

「それは嫌。ああ、でも、違う。どうしていいかわからない」

「とにかくどうしようにも怖いんだ」

 彼女は喉の下に言葉をぐっと引きつけてから口を開いた。

「だから、殺して」それはとても小さな声だった。

「死ねば寒さは解決する? 僕は君が寒さの中で死んでいったとしか思えないだろけど」

「でも、無くなる。何もかも」

「それで、どうするの?」僕は溜息を抑えて訊いた。

「わたしの上着のポケットにナイフがあるから」彼女は布団を除けて指を差す。「それで窩を切って」

「それはできないよ」僕はナイフを持って言う。「きっと痛いよ」

「じゃあ、自分でやるから。だから、独りにしないで。側に居て。お願いだから」

 彼女は僕に抱かれたままで、布団の端を噛んで声を殺した。ベルマークでも切り取るみたいに彼女は手探りでナイフを突き立てた。暗がりの中で血液は真っ黒い液体になって雨のように彼女の背中や僕の大腿を伝った。間近に生々しく白い切り口が見えていた。

 あるところまで来ると背中に回っていた彼女の手が弛緩した。ばたりと重たく布団の上に落ちる。同時に喘ぎも消えた。

「神経を切っちゃったのかも」彼女は布団の端を吐いて言った。首もぐったりしていた。彼女の背中には血が、僕の背中には涙が伝っていた。「体が動かない」

「何も感じない?」

「うん。私、首だけだ。とても変な感じ。でもね、なんだろう、私たちって結局はこんな生き物なのかもしれない。本質的には」

「頭だけの?」

「そう、殻なんていくらでも換えが利くのよ」

「そうしたい? 君はブロックBなんだから、体を換えるくらいなんともないよ」

「いいえ」

「本当に?」

「本当に」

「寒くない?」

「寒くも暖かくもない。もうわからないよ」

「刺そうか」僕は彼女の手からナイフを引き継ぐ。

「心臓を」

 僕は既に彼女のものでなくなった心臓を刺した。

「ちゃんと刺した?」

「刺したさ」僕はナイフを捨てて彼女の頭を撫でた。「痛くない?」

「痛いよ」

「傷が?」

「違う。心が、よ。いま、あなたが刺した辺り。自分の知らぬ間にだんだん死んでいくのを嫌がる心。だから最後まで話すわ」

 彼女はこれから全く別の人生に転生するのだとでも言わんばかりに、もしも人間に生まれていたらどんな人生を送っていただろうという物語を僕に聞かせた。僕はずっと彼女の頭を支えて撫でていた。そして彼女の透き通った声はまだ続きを話そうとしているところで風に煽られる蝋燭のようにふっと途切れた。

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