紅葉と紺色の狐14

 雨は失恋でもしたみたいに降っていた。そして夜まで一向に勢いを弱めなかった。さくらの甲板は厚い水の膜が張ったような具合で艦内まで水溜りが広がっていた。屋根のある広い空間が無いせいで誰も水気を払えないのだ。しかし海軍にしてみれば濡れているか乾いているかというのはさして気にかけるような違いのある状態ではないのかもしれない。僕が艦内ですべき仕事については、五時間余りという長丁場にはなったものの、現実の乗組員ともよく協力して全く支障なく遂行した。僕は空腹だった。ところが投影器の接続を解いて目を開けてみるとテッパチを被った一対の男が僕の両脇を固めていた。乗組員は普段作業着にキャップを被っているから、彼らが別の用件でそこに立っているのは一瞬でわかった。彼らは僕に確認を取ると雨合羽を被せて案内係の少女と一緒に車の後部座席に乗せて地方総監部の建物まで連行した。もともと雨で視界が悪かったし、とうに日が落ちているのでライトを灯して走った。水蛇の中でやったことがまずかったらしいと少女は小声で僕に告げ口した。ちょっと唇をもぞもぞさせながら目を泳がせて「『こと』というのは、つまり、その、規定外の通信のことです」と。

「こそこそ話してるなよ」と助手席の男がろくに振り返りもせずに言う。

 タブラを確認すると佳折からのメールが届いていて「何時頃帰れるの?」という用件だった。「どんなお仕事でしたか? 何か新しい発見はありましたか? 三日間慣れない所で疲れたでしょう。焦らず急がず帰ってきてください。佳折は待っています」着信時刻を見ると、届いてから一時間、いや三十分は経っていない。心休めではあったけれど、焦りも感じた。

「軍艦を診るのもパソコンと同じようなもんかね」男の声が自分に向けられたのを感じた。ルームミラーに視線があった。「あの鋼鉄の塊がさ」

「おい、掃海艦は木造だぜ。やめとけって、からかってやるなよ」

「ああ、そうだった。でもさ、わかんないんだよな。いくらハッキングの巧い奴でも、例えば屋上から落としたパソコンがどうなったかなんて、現実のことは別んとこに居たらわかんないだろう。まったくわかんないってこともあるわけだ。なあ、キールに罅なんか入ってなかったか?」僕がミラーを見たまま答えないでいると運転席の彼は「なあに、冗談だよ」と呆れたふうで流した。

 案内係の少女も慎重に僕の機嫌を窺って「気にしないでくださいね」と言った。それをまた前の二人が冷やかした。

 僕の能力が万能でないことは知っていた。電子的なシステムを精査したところで機械の全てを把握できるわけではない。電子的に万全でも、物理的にはそうではないかもしれない。ぎりぎりで保っていた物理的な構造が崩壊すれば電子的なシステムも巻き添えを食ってだめになる。言われたとおりだ。僕の力はそれだけで遠いどこかへ飛んでいけるような便利なものではない。同じものに別方向からの視点を取り入れるだけ。途切れた橋の対岸へ回ってみて、もと居た場所に残っている人と手を振り合うことができる。別に渡った先に宝物があるわけでもない。佳折、もしかして君は僕に期待をかけすぎてはいないだろうか。

 僕は誰に対してでもなく言った。「おまえの目なんかろくなものが見えているわけじゃないんだよ。昔、ある大人にそう言われたことがある。僕はあの世界を目で見ているわけじゃない。そんな反感を覚えたな。でも、違う。見るというのは、イメージのことだ」

 少女の反応は見なかった。雨のイメージ。窓の付いた暗い箱の中で灰色の雨に打たれている。

 ずっと昔、日本がまだ短い平和の上で金縛りに遭っていた頃、僕の養家の父である諏訪野隆文に連れられてこっそり相模原の技研に入れてもらったことがある。おじさんは自走対空砲の試作車を見せてくれて、感想を訊いた後にそれを言った。「おまえの目なんかろくなものが見えているわけじゃないんだよ。そう言う大人がこれから夕の前にたくさん現れるだろう。だから機械のことくらいわかるようにしておかなきゃ駄目だ。今のままじゃ、その目は自分の誇りでも何でもないよ。機械のことをわかっていれば、機械のことを言わなくてもみんなその目を信じるだろう」

 おじさんはハンマを二丁持ってきて片方僕に差し出した。

「おじさん、論語にはまってんの?」

「だから、おじさんはやめろって」おじさんは苦笑した。

「仁のみを知りて仁を説くに聞く者あらず、仁義知る者は義を語ることなく仁を聞かしむ。なんか、そんな感じだけど」

「論語にそんな章あったか?」

「知らない。適当に言ってみただけ。そんな感じだなと思って」

 おじさんはますます苦笑するばかりだった。彼は何度か車体をハンマで叩いた。こん、こん、と高く繊細な音が格納庫に響く。雨漏りの音に似ていた。要はそうしてやると音の微妙な違いで対象の微妙な異常を知ることができるということだった。おじさんはなんだかとても楽しそうにあちこちを叩いて回った。僕も真似をして手近な所を何ヵ所か叩いてみて、首を傾げた。僕にはその「こんこん」がとても楽しい作業には思えなくて、おじさんがなぜ楽しめるのかわからなかった。だって、叩くことにその対象が戦車である意味もないわけだし、技術者として開発秘話を明かしてくれるわけでもない。ただ黙々として一心不乱に叩いている。僕はその姿をずっと眺めている。それが、まあ、言ってみれば、僕の父親像ということなのだろうか。

 我々は直に基地業務隊の司令官室に通され、城みたいなデスクと城主みたいな司令官の前に並んで立たされた。するとまず基地の人間だから処分は後回しにするということで少女が解放された。僕と向かい合う司令官、僕の斜め後ろに手強そうな警護が一人、デスクの横に問責のための情報を持っている若い士官が一人。若い士官は掃海隊群のワッペンをつけている。彼がホチキス留めの資料を手渡して司令官が上から下にさっと目を通し、昨日と今日、僕がショコネット用のサーバにアクセスしたことを指摘した。

 僕はそれは水蛇のシステムに接続したからだと答えた。司令官が肢闘へのアクセスにサーバへのアクセスが不可欠なのかと訊くので説明を加える。投影器を介して肢闘を扱うには機体制御プログラムの補佐が必要で、プログラムは起動とともに通信可能状態であればサーバに接続する。ネットワーク下での稼働が前提だ。

 司令官は帽子を少し斜めにしてむうと唸った。「それは戦闘用の肢闘に限った話ではなくてか?」と訊く。

 僕は肯定する。

「二度目のアクセスに関しては機体主機を起動しなかったようだが、確認作業とはどのようなものだったのかな?」司令官は質問を続けた。

 昨日の段階ではいくつかのプログラムに関して再セットアップを機体に任せて引き上げたから、作業が完了したか確認したかっただけで、昨日の作業のように大きな電力容量が必要にならなかった。僕は答えた。

「それにしては随分時間がかかったようだな、珍しくて少し触りたくなったか」と司令官は打ち解けた口調で言った。その口調がむしろ僕の警戒を誘った。「触っていません。確認をしていただけです。細部に渡るまで抜け目なく、と思っていただければいいかと」

 若い情報仕官は司令官から資料を返され自分でぺらぺら捲って他に追及すべき点がないか探した。司令官も顎を持ち上げて待っていたが、彼は結局両手を広げて諦めるように促した。

「断じて私用には使っていないと?」

「もちろんです」僕は答えた。つまらない質問が続いている。頭がぼうっとしてしまうくらいだ。「他に質疑はありませんか。さくらのこと、一日目の浮きドックやタグボート。引き継ぎは今のうちに済ませておかないと。最終日ですから」

 司令官は若い情報士官を見上げた。若い情報士官はすぐにかぶりを振った。「掃海隊群の管下では……」

 僕は軍艦を点検する手間を指してこういった仕事が十分有益だろうという謝辞をいくつか言った。司令官も所期の目的をうやむやにして僕を解放した。僕は自前の雨合羽に羽織り替えて建物を出た。司令官含め何人かが事務室受付の前まで見送りに出てくれた。その中に混じって案内係の少女が小さく手を振ったので、僕は上官に見せても障らないぎりぎりの敬礼をして雨の中に出た。

 一番近いガソリンスタンドで給油のついでにタリスに言って、僕がショコネットに接続していたのが横須賀基地の人々にどれくらいばれていたのか確かめてもらった。タブラ媒介であればタリスは僕と話をした。「彼らはあなたが何らかの情報遣り取りをしていたのは知っています。しかし暗号化を解くことはできません。海軍側にあなたほどの認識能力を持つ人材があれば話は別ですが、それならあなたに今回の仕事は回ってこないでしょう」

 その旨を電話して鹿屋に話すと彼は少し怒った。夜は機嫌が悪いのだ。「報告は明日で構わない。処遇はその時の気分次第だ。殴りか、それとも蹴りか」

「勘弁してくださいよ。任務自体は全部完璧だったんですから。ただでさえへとへとなのに雨まで降っちゃって」

「首輪を巻かれるより上等だと思え。痛みは一瞬だ」

「でも痣になったら長引くじゃないですかあ。勘弁してくださいよ。かりんとうまんじゅう買っていくんで」

「お、いづみやのか」

「そうです。ユリアさんの分もありますから、勘弁してくださいよ」

「わかったよ、まあ、いいだろう」

 僕は電話を切って、次いで佳折に電話した。男の声がしたので狼狽したけど、佳折父の声だった。家の電話番号にかけてしまったのだ。僕もいい加減疲れている。平日の十九時なんて、まったく、こんな時に限って帰宅が早いんだから…。

「諏訪野です」僕はおっかなびっくり言った。だってそれまでバイクに寄りかかっていたのだけど、腰を浮かせてタブラを両手で持って背中を丸めてしまった。

「あ、君か」

「佳折さん居ませんか」

「短い要件だったら私が聞いておこうか」

「メールを貰ったんですが、電話の方が都合がいいと思って」

「それで?」

「今仕事が終わったとこで、何時頃に帰るかってことだったんで、えっと……」僕が司馬宅に行くことを彼が知っているのかどうか僕は把握していなかったし、今が何時で立川までの所要時間がどれくらいで到着が何時頃になるか、その辺りの情報が全部頭から吹っ飛んでいて何を言っていいのかわからなくなってしまった。

「諏訪野くん?」

 息を呑んだ、というか、呼吸を再開した。佳折の声だ。

「今どこ?」

「横須賀。仕事が終わったところで、ガソリンスタンドに居る。少し距離があるから、燃料を足しておかないといけない」

「雨降ってるんじゃない? こっちもすごいのよ。ざあざあって窓硝子に当たるくらい。大丈夫、帰ってこられそう? 無理することないからね」

「うん、大丈夫だよ、帰るよ」

「じゃあ、急がなくていいから、気をつけてね。ちゃんと待ってるから」

「うん、大丈夫」

 タブラを仕舞ってヘルメットを被り、床のコンクリートが乾いている所と濡れている所の境目までバイクを押していった。夜と雨の暗さの中に基地の建物の明かりがまだ蜃気楼のように見えていた。通りの流れが途切れると辺りは変に静まって、どこからか青鷺の鳴き声が聞こえてきた。くお、くお、という高くて濁った声だ。僕はまだ一人だ。この数日の間に僕がどこにも繋ぎ止められていない存在だということを知った。そして繋ぎ止められていないという感覚が予想以上に嫌なものだということを知った。

 僕の心は少なからず佳折の声に暖められていた。こんなに彼女のことをありがたいと思ったことは今までなかったと思う。

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